神秘を通して危機神学へと至る、あるいは背教へ
逆賊フラーダリーとしての名が知れわたったサラ。
誰よりも慈悲深くありながら地獄を描き続けるブリギッタ。
クリトンの策略によって英雄の一人として祭り上げられようとするが、そこに彼女たちの意思などない。
剣神カイは命に戸惑い、レオーネはただそこに居続ける。
ケルサスとヤーヘンの戦いは、一進一退の相を呈していた。
守りのヤーヘンは『魔槍』を効果的に使ってケルサスの魔術を消耗させ、ケルサスの着実な攻めはヤーヘンの兵を漸減していく。兵数は、増援を受けたケルサスが既にヤーヘンを上回っているものの、かつてはケルサスを助けた長城の魔法陣が、今はケルサスの魔力を高め、回復し、亜人たちの強力な生命力をさらに回復魔術で補うことで、ヤーヘンの損害は、ケルサスの作戦規模に比べて少ないと言わざるえなかった。ケルサスもまた、魔槍には手を焼いていたものの、軌跡が直線であるため、通過地点に結界を何重にも張り巡らせ、魔力を乱すことで威力を減じることに成功していた。
つまり、膠着状態だった。どちらも大きな損害を受けず、それと同時に決定打も打てていない。ルーチンワークのような攻めと守りに成り下がって、両軍には協同作業にも似た、妙な一体感があった。両軍の兵たちは焦り、恐れていたものの、このままなら大丈夫という根拠のない希望を共有していたのだった。
しかし、戦場が膠着すればするほど、幻想種と減ることのない亜人への恐怖がケルサス兵に、ヤーヘン兵にはいつかパンデミックを紡ぐために命を捧げねばならないという恐怖がストレスを与え続けていた。
戦場は爆発寸前だったと言う者もいるだろう。しかし、両軍が作り出した緊張状態は、容易く打ち破られるものではなかった。まだ大丈夫、という生への希望は、両軍の指導層にも伝播していくものだったのだから。
総合して考えてみれば、『魔槍』や幻想種という攻撃力を持ったヤーヘンのほうが作戦行動と兵運用の広さで優位であり、軍自体の力強さはケルサスが勝っていたから、現状は確かにどちらが有利ともいえないように思える。
決定打を比べてみれば、ヤーヘンにはなんといってもパンデミックある。幻獣と亜人も強力であったものの、大きな戦果を挙げられたのは、それらの存在をケルサスが知らなかったことが大きかった。知られてしまった現在、運用するたびにケルサスの戦術は更新され、戦果を挙げることは難しくなっていき、それは『炎獄』や『魔槍』にもいえることであった。しかし、パンデミックは、幾度も発動を防がれていたものの、発動するまで効果が解らないことが、ケルサスの軍行動を思い切ったものにさせないだけの影響力を有していた。
他方ケルサスは、背後から続々投入される援軍と装備、つまりは物量が圧倒的であった。最大の打撃力であるカルブルヌス騎士団国の軍を温存しながら、着々と一斉攻撃に備えるケルサスの手堅い軍略は、ヤーヘンを大いに焦らしていた。しかし、その内情は、帝国や周辺諸国の進軍に備えるために、新式の装備は援軍にまわせず、国内政治の駆け引きによって、未だ、主力となるべき騎士、魔術士は到着していなかった。
これらの状況を鑑みて、戦場は互角だったと戦史家は言うかも知れない。しかし、現場で戦っている兵士にしてみれば、やはりケルサスに分があったと感じていただろう。なにせ、大陸にとどろく三大国家であり、その力は先祖代々、ヤーヘンの骨身に染み付いていたからだ。さらに、ヤーヘンの繰り出したパンデミックが、発動まで今一歩のところまで行っていたことは、接戦と見る材料とされるだろうが、実はそれは、カルブルヌスの指揮官ルシアーノ少将の策略によるものであった。パンデミック対策に手ごたえを感じていた彼は、あえてパンデミックを誘発させることでヤーヘンの魔力を確実に消耗させていたのであった。それは何とも恐ろしい、あるいは愚策ともいえるものであったかもしれない。しかし、彼の見通す戦場で勝ちを拾うにはそれしかなかったのだ。背後に控える真なる敵、いつ現れるかも知れない商会との戦いまで魔力と兵を維持するには、大きなリスクを取るしかなかったのだった。結局、どちらが有利かなどは解らないのだった。考えるだけ無駄なことなのかも知れなかった。
いつしか、ヤーヘンは幻想種を戦場に投入することをやめ、戦力を温存するようになっていった。ケルサスもまた、互角以上に持ち込むべき戦場で、そうすることができずに、歯がゆい時間を過ごすようになっていった。
ケルサス軍総大将クリトンは、幻想種の存在を知ったときから、その調査に解析兵をあて、保有幻想種を把握しようと努めてきた。兵の損害を恐れる大貴族から、援軍を出すための条件として詳細な頭数を求められていたからであり、援軍がなければ泥沼から抜けることは出来なかったからであった。
しかし、かんばしい結果を得ることが出来ずに、それどころか、強固なヤーヘンの結界に阻まれて、貴重な解析兵を失うハメになっていた。亜人が満載の敵城に近づくことすら難しいのだから、当然のことであった。調査にこそ、援軍に含まれる強力な騎士や魔術士が必要であり、再三それを訴えてきたクリトンの意向は本国の大貴族たちにもみ消されていたのだった。
手詰まりであったクリトンは、しかし、何もしないでいるほど馬鹿ではなかった。何故この期に及んで出来もしない調査なんて命じられたのか、その意味を十分に理解していた。
-わしを解任するための材料をそろえ、援軍として到着した有力者に元帥の位をやるよう、王に詰め寄る気なのだろう-
これだけの時間があったというのに、何たることだ!!
そう言って口角に泡をためて責めたてる貴族たちの、芝居がかった憤りを眼前に見るよう。
-わしが退いて勝てるならば喜んでそうしてやろう。しかし、遅れてきた指揮官に戦場の誰が従うというのか。いつの間に貴様らは、そんなにも愚かになった?
貴様らの企みなぞ、わかっておるぞ。兵が真に求めているのは誰か。貴様らは、奴を潰すために必死なのだ。国の勝ち負けを賭けてまで、その者に権力を与えたくはないのだ。わしと連座するかたちで、解任したいのだろう?
貴様らは、平民上がりのダミアンが、恐ろしくてたまらないのだ-
だから、一進一退と思われている中で、クリトンはもう一つの作戦を動かしていた。
-必要な情報は、幻想種の数ではないのだ。その種、力の幅よ。
パンデミックはカルブルヌスが抑えることが可能、亜人は来るとわかっていれば、耐えられる。
兵に本能的な恐怖を与える幻想種こそが脅威なのだ。
・・・しかし、その情報を得ることが困難というならば、そんなもの、要らん。
必要なのは力強い兵、それを存分に暴れまわらせる指揮官だ。ケルサスの兵は上がまともならば、恐れなぞ敵ではない。
兵が脅威に怯えるというのならば、眼を覚まさせてやる。
風見鶏どもが、見ていろ。貴様らが戦場に到着したとき、頭を垂れるわしの前に立つのは誰か。
兵が見上げる英雄たちを、この戦場に、このわしが誕生させてやる-
****
「私が対処します。あなたがたは、下がりなさい!!」
サラが友軍にさがるよう叫んだ。
すでに逆賊フラーダリーの娘であることが知れ渡り、もはや彼女をただの女魔術士として見るものはいない。前線で戦果を挙げ、王はフラーダリーの生存を許しとはいえ、彼女を見つめる視線は複雑な思いに満ちて、魔術士として有能であることは認めても、仲間としてみるにはフラーダリーの名はケルサスにとって簡単なものではなかった。
「しかしサラ殿、それでは貴女が狙われてしまいます」
兵たちが下がるなか、一人の神聖魔術士でマーテル教の神官が、サラの前に立ちはだかった。
度重なる戦闘でケープが擦り切れ、魔力が尽きそうであるにも関わらずに。
「貴女は死んではいけないのです。貴女を見棄てて下がることなど、マーテルは許さない。罪を隠して、私は明日から誰に祈れば良いのですか」
「貴方は未熟です。いいから下がりなさい、死ぬわよ!!」
「それが、何だと言う!!」
吼える。
震える手で錫杖を握り締めて、術を紡ぎ続ける。
「私はマーテル信教の司祭であった父を尊敬していました。だけど、フラーダリーにしたことを悔やみ続ける父は大嫌いなんだ!!
罪は贖われなければならない。私はマーテル信教の神官として、貴女を守って、教徒にフラーダリーの献身を正しく伝える義務がある!!
ただ祈れば救われるなんて、ありえない。
行動が、倫理を義務として成された末の祈りにこそ、神は応える!!」
「その通りだ。罪を認めて、償うものにこそ、救いはもたらされる」
氷の刃が四方に現れて、部隊を襲おうとしていたヤーヘンの奇襲部隊は串刺しにされた。
カロリーネ中佐、ダミアン中将の副官が大カラスにまたがって、空から見下ろしていた。
奇襲に失敗したヤーヘン兵は一斉に退いていく。
「慌てるなよ。これは私の使い魔だ。ヤーヘンの傀儡などではない」
子女からはダミアンよりも人気があった。涼しげな好男子で、先の内乱でダミアンの片腕として戦場を駆け回り、戦後はダミアンと共に対魔術の精鋭であるセンチュリオンの副隊長を任ぜられ、新王の騎士隊を象徴する術士の一人として、絶大な人気を誇っていた。
その彼が、まるで山賊のような残虐な笑みを浮かべて、友軍を見渡す。
「どうした?助けてやったんだから、礼くらい言っても損はないだろう?
誇り高い本国騎士隊の諸君は、なりあがりの、伝統を持たない貧乏貴族の三男坊に救われたのが不満かな?そんなに私が嫌いか?ふん。私がアイドル視されているのいるのが余計むかつかせるのかな」
含み笑いをし、しどけなく使い魔の首にもたれかかる。
「私は、お前らが大好きだよ。何でかって?」
魔術を紡ぎ、部隊を回復魔術で癒してやる。
「私と一緒に、ヤーヘンを殺してくれるんだろう?陛下のために、そして、ようやく親孝行できた、国で待つ私の父、母のために」
睥睨すると、鞍の上で背筋を伸ばした。
「約束する、お前達は死なない。帰って、妻の髪の匂いを嗅ぎ、子供らを抱きしめることが出来る。母親の膝の元で泣く事だって、父に武勇を報告する事だって、出来るさ」
大声ではない。けれど、彼の美声は良く響く。
「でもなあ、ううん。お前ら、若い娘を置いて逃げてどうする気だ?
命はそりゃ大事さ。だが、友軍を救うために命を掛けた英雄を見棄てて逃げたなんて、恥にもならない。それとも、お前ら、もしかして彼女が死んでくれたほうが都合がいいのか?
まさかな。
こんな綺麗で、儚げな少女が死んでいいはずがない。
・・・まして、お前らの罪をあがなうチャンスをくれるんだからな」
それまでの問いかけからトーンが落ち、嘲笑った。
指揮官がカロリーネを睨み付け、兵たちは急所を突かれたように立ち尽くした。
「この部隊のことは知っている。先の内乱で適当な理由をつけて出兵を渋り、私たちが友を失いながら戦っていたときに様子見をしていた。大勢がついてから参戦し、浅ましく戦果をさらっていった、まあ、民に言わせれば、卑怯者だ」
「あなた!!」
指揮官は兜を脱いで、長い髪を振り乱した。
「何も知らないくせに!!」
「知ってるさ、俺も同類だ!!私の内乱での戦果なんて、噂話で、嘘まみれだ。ただ、はいつくばって、友人たちに守られて、生き残っただけだ。だから、私は苦しいんだよ!!」
既に態勢を整えたヤーヘン兵を見てから、言葉を待つ兵に向き直った。
「どうしようもなく、悔やんでいる。なぜ、私はもっと戦えなかったのか。正義のために死力をつくし、友と肩を並べて、ダミアン隊長の盾となって、民を救う助けとなりたかった。
その機会を失ったこの劣等感、英雄たちには決して分らない」
伸びをして、再度突撃をしかけようとするヤーヘンに向かい、メイスを掲げる。
「見ろよ。けれど、挽回の機会が、ここにあるじゃないか。
ここで剣を振るわなければ、私たちはもう駄目だ。護国の騎士だなんて名乗らないほうがいい。民の負担になるならば、いっそのこと、死んだほうがいい」
指揮官が涙を流す。
-悔しい-
主に許されれば現王の下に参じて、狂王に立ち向かったのに。自分の存在意義を証明できたのに。民に後ろ指さされることなんてなかったのに。
フラーダリーを、真の英雄を恨む必要なんてなかったのに。
敵陣で亜人の軍が展開する。殺気が広がって、血のにおいに、失われた自我が志向する。
「内乱に参戦して解ったよ。
次のチャンスなんてない。いま、このときの現実における選択だけが、自分を決める。
己がいま何をすべきか、お前たちには解るはずだ。
だが、卑怯だった私達はただ敵を滅ぼすというだけでは足りない。
意地を張って、彼女がフラーダリーだということを無視して戦うなんて許されない。
勇気ある神官中尉の言うとおりだ。
過ちを認め、彼女を助け、救い、力のかぎり、贖罪を叫ぶしかない。
私を信じろとは言わない。
英雄を信じろ。俺を許したダミアン中将を、信じろ。
狂王にツルギを突きたてたその姿、お前たちのあったはずの自分を信じるんだ!!
お前たちが、あれらを葬りされば、お前たちは帰還する。誇り高いケルサス人として、ルーメン王の臣民としての貴顕を得ることが出来る!!」
地響きのような、雄たけびが上がる。彼を恨みつつあった指揮官ですら、副官から剣を受け取って、掲げて叫ぶ。
「お前達は、先の内乱で乗り遅れた英雄たちだ!!決して卑怯者じゃない!!」
丁重に腰を折る。
「男爵令嬢どの、いままでのご無礼、どうかお許し下さい。そして、どうか攻撃を御命じください。兵は血に飢えております」
起き直ったカロリーネ中佐は、自らの美貌を惜しげもなく振りまく軍のアイドルに戻っていた。
しかし、彼を見つめる兵たちは、その涼しい眼の意味する偶像としてあることの、自らが決して望まない決意を知っていた。
指揮官は、かつてない高揚に手を振るわせながら声を上げた。
ああ、気持ちいい。
心のままに、剣を振り下ろせる。
美しい少女と、武功が眼の前に。
そして、王命が、その確かな手ごたえが、ある。
「私たちは、ケルサスだ!!」
ずっと、これという時のために暗記していた演説なんて、馬鹿らしい感傷に思えた。
ただ、自分の望むあり方が喉を突いて、兵たちは応えてくれた。
掛け声と共に敵に踊りかかった。
血を浴びて、初めて義務を感得した。
教科書の無機質な肌触りではなく、家庭教師の修辞をこらした美辞麗句ではなく。
今、私は、ケルサス人になったのだ。
私は、軍人を選びスカートを脱ぎ去った時ではなく、いま、このときにこそ、一人のヒトとしてのあり方を選択したんだ。
****
「死ね」
天狗が舞って、首がとんだ。
「アビラウンケンソワカ」
地を這う、決して逃れられない剣閃が土煙を割った。
「等活地獄、黒縄地獄、大叫喚地獄、炎熱地獄。諸々、焼かれ、嘆き、屠られよ」
剣にあらゆる地獄を乗せることで致死の呪いを宿し、ヤーヘンの結界を数十人もの敵兵もろとも切裂いた。
「さあ、殺せ」
白銀の仮面を被った男が投げやりにつぶやいた。
兵たちは剣を手にヤーヘンの兵に群がり、大地が血に染まって、まばらに生える草々は紅く色づく。
戦士たちを眺めやり、仮面の騎士は剣を収めて肩を回した。
「この神力、俺に手を貸すとは百雲め。姉上に馳走でもてなされたな」
振り返って、金色の髪の少女の側に立った。
少女は顎を上げて、言霊を紡ぎ続けている。
両手を広げて、流れる汗を意に返さず、複雑なリズムに乗って血の海を築いていく。
仮面の騎士は、その髪に触れた。
少女の強張っていた肩が落ちる。
意識を飛ばしたまま、まるで子守唄を聞いているかのように微笑んだ。
敵は木の葉のように切裂かれ、死者は300を超え、その分の命のきらめきが消えた。
その事実に、本来ならば黄金の少女は耐えられない。
だけれども、彼女の魔力が命を救うから、友を救うから、いまだ立っていられる。正気を保っていられるのだ。
遠くで雷鳴がした。
それまで雲ひとつなかった秋晴れに、渦巻きが広がり、上昇気流が空に昇る。
気圧が変化して、積乱雲が形成された。
「グリフォンが来る!!」
シュナイデル家の若い騎士が叫んだ。
「ブリギッタ殿、術式を閉じなさい。あのグリフォンは並ではない!!」
シュナイデル家の次期家長フィルマンが馬首を巡らせて叫ぶが、黄金の少女は言霊を紡ぎ続ける。
「おい、それ以上は気付かれるぞ」
カイが言うが意識は戻らない。ブリギッタは、此処ではない何処か、さまよって、ただ世界の理を見つめ続ける。
「この魔術、知らない。ブリギッタのじゃ・・・。駄目、潜りすぎてる!!お願い、ブリギッタ、起きて!!」
レオーネが力のかぎり叫び、駆け寄ろうとするのをフィルマンに抱き上げられ止められる。
「縁の糸、浄福。我を求めしは、白き虎。夢幻に憩いて、一目、お目にかかりたき、ござ候。夢枕にて、その機会をば」
ブリギッタの魔力の桁が跳ね上がり、光りが満ちる。
「カイ殿、ブリギッタ様を連れて下がってください!!ここは食い止めます!!」
フィルマン家の騎士が見上げて叫ぶその空に、巨顔のグリフォンが雷鳴とともに吼えた。
ヤーヘン兵が勝ち誇った笑みを浮かべて退いていく。
羽ばたいたグリフォンが、首を巡らす。
数キロ先に、恍惚とした表情を浮かべるブリギッタを認めて、薬と術で自我を失ったはずの瞳に力がこもる。
気付けば、ブリギッタの眼と鼻の先にグリフォンはいた。
カイを除いた、誰もがそのスピードを眼で追うことが出来なかった。
「なんという・・・」
レオーネに覆いかぶさったフィルマンが諦観に染まる声で言った。
-汝-
羽ばたかず、ただ魔力だけで滞空するグリフォン。
静寂が支配する中で、澄んだ瞳で、ブリギッタを見る。
応えるように手を伸ばす、金色の少女。
-そのものが神秘-
退却に走っていたはずのヤーヘンは足を止めて、ケルサス兵は剣を構えるのすら忘れ、その光景に心を奪われた。
時間すら止まったかのような世界。
マーテルの法すらも、その場に適用することを恐れるかのような、神妙。
グリフォンが、失くしたはずの声で囁く。
-美しい。なんと、美しいのだ-
そうだ、美しい。
それ以外、形容できない。
死者の嘆きに満ちた大地で、切り取られた穢されることのないワンシーン。
超越する力を知らされる絶望であり、それが存在することへの喜び。
-萌える。魂が、震える。現世に存在してはならない美。これは、なんという矛盾か。そうだ、そうなのだ。我の命は、このためにあったのだ。いま、この事象に、貴女に出会うために-
グリフォンが羽ばたいた。
時間が動き出して、まるで世界を凝縮するかのように雷雲が密度を増す。
「これだけの幻想種、伝説ではないのだぞ!!ヤーヘン、貴様ら一体なにをした!!」
いや、何もしていない。引き出されたのだ。百雲の神気が満ちていることで、神により近いイデアを持つ幻想種が覚醒したのだ
「前線に展開する全軍に緊急通信を、全兵退避!!勝てません!!」
シュナイデル家の若い騎士が、もう打つ手がないことを承知で通信兵に叫んだ。
巨顔のグリフォンが創り出そうとする現象が、その発動を前に、彼らの知る嵐を凌駕するものであることを感じ取ることすら容易かった。それほどまでに強大だった。どんな馬鹿にも見て取れるほどに、一帯を破滅させるには十分だった。
破壊の渦の中心で、カイはブリギッタの頬を撫でた。
けれど、流れる涙は止まらない。
慈悲深いな。
誰よりも。
「そこまで至ったか」
カイはグリフォンを見上げた。
「自我を奪われながらも我が供物を知り、神を見つめ、それでもなお怯まず召命に尽くす、か」
現世の縁に引かれていたカイは、ひどい頭痛に唇をかんだ。
これは、いつからだろうか。
たった、今からか。
違う。
あの時、ハイデンベルグ城で虐殺をみたときから。
何故だ?
-命-
解せない。
どうせ、行き着く場所は同じなのに。
過程なんて、最適化すれば法則が導かれるはずだろうに。
どうして、こんなにも、劇的で、死に急ぐのか。
神の意思なぞ無視しても、何の問題もない。
そうすることすら、予測されているのだ。
ゴミどもが何をしようとも、計画は乱されることはない。
そのはずなのに。
貴様らは。
「手向けだ」
頭を押さえながら、剣を抜く。
斬る、そう念じて目標を定める。
「しかし、今の俺はヒトの身だ、ヒトの技で送らせてもらう」
刺すような痛みは、鈍痛に変わっていた。
-天神誤水、陰段-
心の赴くままに、振るった。
-イドラ、破断-
イドラ、それはヒトの偏見。グリフォンは空を駆け、雷と風を操り恐ろしい。人間の手に負えるものではない。その常識を偏見と見なして、さかさまにして、取るに足らない小鳥であるように結論付けて、切裂いた。
グリフォンは翼をもがれ両断された。そのまま落ちて、のろいに染まることなく眼を閉じる。
「お前は、お前が存在した理由を我が所有物との邂逅にあるという。だが、それは何を意味する?わからんぞ。俺が振るった剣がなんの目的を持つという」
-解らない-
-ここで、お前を殺して、何の意味があるというのだ-
-まるで、現世の蛆虫どもが、俺を謀っているかのようだ-
「カイ殿、それはカルブルヌスの・・・」
駆け寄り、そう言ったフィルマンの声は続かなかった。
カイは、めまいのする頭を押さえつけて、かみ締めた唇から大量の血を流していた。
「マリヤは呼べますか?ブリギッタは大分無理をしたようなので」
カイに抱えられたブリギッタの流す涙は、赤いものに変わり、低体温症にかかったかのように、体を震わせている。
「それはもちろん。だが、カイ殿・・・。いまの技はカルブルヌスの、一子相伝。何故、貴殿が?」
「解りませんね。ブリギッタが倒れている。こいつのために尽くすこと以外、今、重要なことがあるのですか?」
「おっしゃるとおりだ。私としたことが、正体をなくしたようだ。直ちに運ばせ、治療を受けさせよう」
伝令を受けて走る部下を見つめていたフィルマンは、ふと、視線を下げた。
抱いたレオーネからマントを取ろうと手を伸ばしたとき、レオーネが恍惚として、ブリギッタとおなじように血の涙を流していた。
(何をお考えですか、わが主、マーテルよ。私に何をお望みなのか。ブリギッタ殿を守ることは、貴方の名の下に誓いました。しかし)
眼を上げたフィルマンは、自分を見つめていたカイと目があった。
その仮面に隠れた目に、顔に、違和感を覚えた。
この青年の顔は、果たしてどんなだっただろうか。
なぜ、記憶にないのだろうか?
いや、そもそも、どうしてこの場にいる兵共は、彼の絶大な力に疑問一つ覚えないのだ?
フィルマンの前に認識の断崖が広がった。
こんなことが、あっていいはずがない。
私が存在を認めるのは、マーテルによって授けられた理性であるはずだ。
それがあるからこそ、私は世界を認識できる。他者との差異を通じて自分を定義することが可能なのだ。
ならば、あれは、私の認識を飛び越えるものを、私はなんと言う?
フィルマンは崩れ落ちた。
(・・・マーテルよ。私は、貴女だけを信仰とし、祈り続けてきたのです。どうか、私の信仰を試さないでください)
瓦解する信仰と奇跡を前にして、フィルマンは兵に見られるのに構わずに跪いてマーテルへと祈りを捧げた。
絶対と信じた神の力に認められない力。
フィルマンは心の中で、絶叫した。
-マーテルよ、貴女は、絶対ではないのですか-




