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偽国戦記  作者: ブレヒトさん
魔晶戦争
89/131

ケルサスの王 -軍人としての君主論- 1

続きは月曜日

 亜人の攻撃力を目にしたケルサスは、急遽布陣を変えざるを得なかった。

 それまでは前線に質の高い魔術士、騎士を多く配置し、敵の戦術に合わせて個々の能力で打開する方法を取っていた。連隊または大隊規模で運用し、防御は部隊に組み込まれた重装魔術が担い、各指揮官が自由に部隊を動かしていた。

 しかし亜人と魔獣の攻撃力を前にしては、差配の自由など入り込む隙はなかった。各部隊が通信を頼りにして自由に動き回って急所をつく戦法は、敵が格下でなければ機能しない。多勢に立ち向かう時にこそ必要と思われるが、攻められる側に防御に優れた魔術士がいるだけで瓦解するのだから、生来優れた防御力と機動力を持った亜人の大群相手には通用するはずがなかったのである。

 だから、ケルサスは単純に投入する兵の数を増やすことにした。戦列に厚みを持たせて、戦列が乱れることを阻止することにしたのだ。軍の近代化の目的であった兵の損害の抑制に、逆行することではあったのだが。

 物資輸送に関しても、輜重(しちょう)部隊を亜人の強襲から守るために、ハイデンベルグ領の復興に当たっていた兵の装備を行軍用に切り替えて、護衛として随伴させることにした。それによって警護が薄くなった都市を守るためには民兵が動員されることになった。民を戦争に巻き込むことなどケルサスにとって恥ずべき事であるのだが、そうしなければ都市の治安を維持することはできないと判断した。ハイデンベルグ領の民らは、それをさしたる混乱もなく受け入れた。魔獣と戦いなれていた彼らは、戦争状態になれていたのであった。非日常への移行が、とてもスムーズに行われたのであった。

 そのようにして一丸になるハイデンベルグ領の民らに対し、肝心の兵たちの士気は低下する一方だった。サラたちの献身が兵たちを奮い立たせたものの、軍本営がエゼキエルたちを見殺しにしたことが兵たちの間に広まったからである。ダミアンの激を受けた高級士官たちが、なんとか兵たちを戦争に向かわせたが、一度芽生えた疑念は消えなかった。徐々に戦死者が増え、それでいて有効な手を打てない本営に対しての不満は高まっていったのだった。

 このような状況にあって、カルブルヌス軍上層部には焦りの色が濃くなっていた。負けるはずの無い相手に苦戦して、多くの装備と兵たちを失い、彼らは気付けば泥沼の中にいた。いまだ余裕がある敵の、いずれ来る総攻撃におびえて、補給される装備と人員も、いたずらに戦死者を増やすだけで、もはや攻略しているのか屍を積み上げているのか、それすら分らなくなっていた。


「このままでは、犠牲を増やすだけだ!!」


「士気が下がっている今、大規模な作戦は実行できない。ケルサスの利点である物量で押せばいい。さすれば結果はついてくる」


「それではよけいに士気が低下する一方だろうが!それとも、ありもしない戦果をでっち上げでもする気か?」


「では、いかがする?兵の背に照準を定めて、無理にでも戦わせるか?不可能だ!!」


 軍議は紛糾し、手詰まりを感じる士官たちの怒号だけが響く。

 全軍を預かるクリトンは目を瞑って腕を組み、参謀長のニコライ大佐は各人が挙げる問題点を解析兵に精査させ、その脇では解析部主席のバンディット少佐が不安そうにニコライを見つめていた。

 叫びあう中で、一瞬の静寂が訪れる。

 興奮から覚めて、冷静さを取り戻す。命の駆け引きをしているうちに、論争の相手は味方であり、その言い分ももっともだと気付いて、何も言えなくなる瞬間が訪れた。気まずさに目を伏せる。

 どうしようもないとため息が漏れて、助けを求めるような視線が交錯した。

 そのとき、待っていたかのように居丈高な声が上がった。


「兵数は足りていて、装備もある。ようは士気の問題と言うわけですか。ならば、騎士の本分に立ち返るのが良いでしょう」


 口調は柔らかだが、見渡す目には口を挟むことを許さない傲慢がある。


「私たちが戦うのは高貴な方の威光を知らしめるため。それを兵らに思いださせれば良いのです」


 グラナトゥムとカルブルヌスの自治に反対する、ケルサス一国主義者の少将が立ち上がって、演段に立っているかのようにこぶしを振るう。


 ダミアンが目を男に据えて、コールは頬杖から顔を上げた。


「聖王の血脈、グラナトゥム公国のレオーネ殿下は傷病兵に大した人気だとか。殿下にお力を借りてはいかがです?兵たちは大いに喜びましょう」


 クリトンは顔を赤らめて立ち上がった。


「レオーネ殿下に戦場に立っていただくだと?これはケルサスの戦争なのだ!!先の戦闘において、甚大な被害を被ったグラナトゥム公国にこれ以上頼るわけにはいかん。そんなことを、陛下がお許しになるものか!!」


 男は心外とばかりに顔をゆがめ、両手を胸の前であわせる。


「まさか!!ただ、慰問していただきたいのです。そのお姿を拝見すれば、自ずと士気は高まるでしょう。戦場における王族の慰問など珍しいことではない。むしろそのために殿下はお越しになったのでは?」


 あくまで兵たちのために、そう言って大げさにあたりを見渡すと、賛同の声が上がりだす。

 言葉にしないが、その目が言っている。

 魔術ひとつ使えないのだから、せめて御輿に担がれろと。


 確かに、若く美しい姫君が懇願すれば兵たちは力の限り戦うだろう。甲冑でも着せてやれば演出としては十分だ。

 さらに、とダミアンは思った。あのお優しい姫のことだ、求められれば最前線にでも喜んで行くだろう。そうなれば戦況がこちらに傾く可能性は十分にある。たとえ姫の活躍でグラナトゥムの名声が高まったとしても、織り込み済み。ケルサス内のグラナトゥム併合の機運が高まるだろうし、失敗しても一国主義者としてはなにも困らない。それどころか、ただでグラナトゥムの評価を落すことが出来る。

 そして、なにがあったとしても、最悪、殿下には戦場で死んでもらえればいいのだから。

 ダミアンは、カルブルヌスの指揮官ルシアーノ少将を見た。彼は相変わらず頭上で戦場をシミュレートしているらしく、何も言わない。けれど、これまでとは違う何かを演算しているのか、その指のリズムは変調していた。


「しかも、将軍は甚大な被害とおおせられるが、その姫が呼びかけるのです。多くの配下を失った、その姫君が、です」


 クリトンが押し黙る。

 ニコライ参謀長がこぶしを握り締める。


 悪い手では無いのだ。なにも消費することなく、兵達を戦争に向かわせることができる。

 男が言うまで誰も思いつかなかったわけでは無い。ただ、それを許していいのか?最後まで講和を呼びかけていたグラナトゥムの、その姫に戦争を煽るようなことをさせて、ケルサスは誇りを維持できるのか?


 ざわつく議場を見渡したコールがミミに口寄せて、ミミは席を立った。舌打ちをして、肩を怒らせて議場に背を向けた。そのまま天幕から外に出ようとしたとき、先に入り口が開いた。

 背の高い三十後半の大佐が入ってこようとし、ミミに気付いて微笑んで恭しく礼をする。

 逆光を受けるその男の登場に、議場が一斉に静まりかえった。

 男は注目されていることになんら構う様子もなく大またで議場を進む。当然であるかのように最前列に腰を下ろし、背もたれにゆったりともたれかかった。タバコに火をつけると、指で自分の代わりに出席していた副官を呼ぶ。副官は微笑んで、彼らを見つめる高級士官たちにはばかることなく立ち上がり、主に囁いた。

 頷きながら聞き入るその大佐を、誰もが注視していた。彼が天幕に入ったときから、ダミアンやクリトン、さらにはコールまでもがその男の発するだろう言葉に聞き漏らさないように耳を澄ましていた。

 副官が、ちらりと辺りを見渡し一拍置いた。

 そして、囁いた言葉に男は目を見開いて、大仰にため息をついた。


「冗談でしょう?」


 その男、一国主義者の首魁とも目されるシュナイデル家の次期党首フィルマンは言った。


「レオーネ殿下の慰問とは、名ばかり。つまり、姫殿下を旗頭に掲げて兵を鼓舞しろと言う。

 おのおの方、私達はケルサス国王陛下の命でここに集ったはずだ。だからわたしは兵を出したし、ここに居る。グラナトゥムの旗を掲げるなど、認められない。わたしにはプライドがある」


「フィルマン殿!?」


 一国主義者の男は驚いて大声を上げた。


「これは勝利のためで、なにもグラナトゥムがどうこうといったわけでは・・・」


「そんなことは分かっている」


 ぴしゃりと言って、軍議をまとめられないクリトンに向かい失望したような視線を投げた。


「君達は歴史からなにも学んでいないのか?グラナトゥムが戦場で何をしたか。彼女たちにたぶらかされた兵たちは、勢いに任せて損害を省みずに突き進み、敵味方の区別なく多くの屍を築き上げた。諸君らは、またあの地獄を作り出す気か?グラナトゥムから兵を取り上げたのは、命の価値を重く見た我らケルサスの決断であったはずだ」


「しかし、我らは劣勢なのだ。逆転の足がかりとして悪い手ではない。手綱はわしらが握る」


 クリトンが真っ向からフィルマンの目を見て応えた。

 大佐でありながら議場を支配するシュナイデル家。彼らの影響力を抑えるのもまた将軍としての役割であった。

 軍集団として、決断は王宮の席次ではなく、大将たるクリトンが下さなければならない。


「将軍、それだけではない。兵たちの声を聞いてみるがいい。確かに姫殿下は傷病兵には人気がある。しかし、それ以外には?とくに貴族、士官たちがなんて言っているのか、知っておいでかな?」


「・・・人形」


 誰かがつぶやいた。

 それを聞いてフィルマンは大きく頷いた。


「そうだ。殿下は、恐れおおいが、あまり人受けする方ではない。できれば陣の奥で花でも愛でていてもらいたい」


 嘲笑い、それにつられて議場に笑いが起こる。

 グラナトゥムに連なるものらが怒りに口を出そうとするが、思いとどまった。彼らにとって守るべきものはグラナトゥム王家でありケルサスではなかったから、このまま慰問が立ち消えてしまえば王室に被害は及ばない。


 困惑していた一国主義者の男は、ようやくフィルマンの意図に気付いた。

 そして、彼が知らせてきたラスコーシヌイとフラーダリーの娘への意志が本当であったことを。


「フィルマン、貴様!!」


 そのフィルマンが腰に手をあてて振り向いた。


「そうだ、わたしがフィルマンだ。ケルサスで最も古い歴史を持つシュナイデル家のフィルマンだ」


 その一瞥(べつ)で、男は椅子にくずれ堕ちてしまった。


****


 シュナイデル家は遥かなる昔から、どんな家よりも長くケルサス王の脇で国事に携わってきた。多くの国難に見舞われる中でも、決して見棄てず、時にはたしなめ、その命を王家に捧げ続けてきた。賢王が狂王に堕ちたときも、いち早く王に注進したのも彼らであり、いち早くその首を跳ねられたのも彼らであった。それでもなお王に尽くし、国を支え続けた。

 そんな彼らは領土を持っていたものの、ふさわしい爵位を持たなかった。平民の延長である準男爵の称号だけを受け取り、あくまで王のために有る事が義務であるとし、その領土すらも必要だったから持っただけで、その本心はいつも変わるところがなかった。

 それは相続体制によく現れていた。ケルサス貴族が長子相続を原則するのに対して、彼らは実力主義を採用した。跡目争いで権力が弱まることよりも、王の役に立つために優秀な人材を選び出し、王宮に送りこむことを目的としたのだった。

 そんなシュナイデル家を、民は爵位を持たない大公と呼んだ。ケルサス王国を形成するに二大衛星国家のグラナトゥム公国、カルブルヌス騎士団国、そして国内において最大の権力を持つアンダルシア家、それに並ぶものとしてシュナイデル家は数えられていたのであった。

 

****


「士気をあげたいのならば、もっとふさわしいお方がいらっしゃる」


 フィルマンはクリトンを見た。

 その先の言葉は、譲ってやるとでも言うように。


「・・・陛下に魔力の光りを、お示しいただく」


 議場が静まりかえり、誰もが頬を引きつらせて、続くクリトンの声を待った。


「戦場には多くの間諜が潜んでいよう。我らの暗号術式が漏れる恐れがあるが、ここで敗れればケルサスは国土の四分の一を失い、亜人と魔獣の恐怖にさらされることになる。援軍が来ているとはいえ、魔獣にたいする手段が不足している今、兵らを思えば、多少の機密の漏洩なぞ何することぞ。

 我らは政治家ではない。一介の兵士なのだ!!」


 王室との専用回線。機密中の機密。多少なんてものではない。

 クリトンは現状を打開するには王の力が必要だと気付いていた。しかし、スパイのことを思うと実行することは出来なかった。それに、いまだ根強い反現王派が機密の漏洩をたてに現王派を攻め立てることも予想されたから、決断が先延ばしになっていた。

 けれど、クリトンは、シュナイデル家の力に後押しされて決断した。

 兵のためにと思いつつも、無意識的にシュナイデル家を恐れていたのだった。


「責任はわしにある」


 ダミアンを見た。


(何があっても、わしがその罪を負う。・・・あとはたのむぞ)


「明朝だ。本国がなんと言ってきても暗号での大規模通信を決行する。全ての兵に陛下の声を届けるのだ!!陛下は応えてくださるに違いない。おのおの、受信の準備に取り掛かれ!!」


*****


「どういうおつもりですか?」


 ミミは、天幕から出て騎乗しようとしていたフィルマンに声をかけた。


「ん?ああ、さっきのことですか。巷間をにぎわしている通り、私はグラナトゥムが嫌いです。特に、レオーネ姫殿下が」


「では、なぜ?」


 フィルマンは子供に言い聞かせるように微笑んで応えた。


「それ以上にケルサスのことを思っている、だからです」


「納得のいく言葉をくれないかな?」


 天幕の支柱に寄りかかっていたコールが苦笑した。


「ケルサスのそういった奥ゆかしさは、私には分らない」


「これはコール様。・・・良いでしょう、このような場所で言うことではありませんが」


 フィルマンはミミとコール、二人に向き直った。

 ミミは、それまで軍議の場でフィルマンがミミのことなど気にも留めなかったことを思い出した。ケルサスの名門アンダルシア家の出であり、重装魔術連隊を形にした自分であっても、その価値を無視し続けたことを。

 今、彼女の胸元にはグローリアの紋、そして聖騎士の証である世界樹の葉が刻まれていた。


「もしレオーネ殿下に戦場でなにかあったらどうします?ブリギッタ殿やサラ殿が悲しまれる。たとえその身をお救いしても、心が救われなくては片手落ちでしょう?」


 外交官特有の、相手を傷つけない程度の威厳を諧謔の中に忍ばせて答えた。

 コールが後ろを向いて立ち去ろうとするが、それに、と言葉をかけた。

 振り向いたコールとミミを見つめるフィルマンは、口だけをゆがめていた。


「貴方がたならばお分かりになるはずだ。彼女の使い魔の異常さに。味方であることが力強いと思われるならば、なんともおめでたい。

 使い魔と言うものがどういったものであるか、忘れてはいないでしょうね?あれを縛り付けていられるのは、レオーネ姫殿下だけだ。戦場であれを止める手段がないことは、ケルサスにとって致命傷になりうるのではないか?グローリアにとっては?

 我々は彼女が従軍を決めたときから、彼女を守ることを強制されているのだ。あの薄気味の悪い人形を!!」


****


「アーティファ様。レオーネ姫は何者でございますか?」


 コールはミミを先に帰し、一人になると、自らの内面、信仰に問いかけた。

 返答に期待したわけではない。眷属になってから何度呼びかけても応えはなかったし、体に変化もなかった。言い伝えによれば、生きたまま眷族になったものはそれまでを大きく上回る魔力を手に入れるはずであったのに。

 コールは諦めて天幕に向かおうとした。

 しかし、目を上げた路地の裏で、少女が人目をさけるように手招きしていた。

 浅黒い肌に肩口で切りそろえられた薄桃色の髪、こぼれそうな笑みをたたえて、踊り子が着るような一枚布の衣服をまとっている。


(なぜこんな場所に、こんな少女が?)


 コールが近づくと、その娘はコールの腕は引っ張って奥に引き込んだ。あたりをきょろきょろ見渡して、人気が無いことを確認すると、薄い胸を張った。

 何も言わないので瞳を覗き込むと、その娘は困ったようにもじもじしだした。


「・・・何よ」


「いや、君こそ私に何か用があったのではないかな?」


「ちがう、あなたがアーティファ様を呼んだから、私が来たんでしょ。何が聞きたいのよ」


「君が?まあ、いい。レオーネ君は何者なのかな?」


「レオーネ?・・・ああ、ええっと。うん」


「はっきりと言いなさい」


「ふん。新入りのくせに」


「私はいそがしい。これから天幕に戻ったら、レオーネ君らとこれからのことについて、話しあわなければならないのだ」


「ふうん。まあ、心配要らないから、成り行きでいいよ」


 私じゃあなくて良かった、そう小さく言ったのをコールは聞き逃さなかった。


「どういう意味かな?」


「あっ、聞こえた?はははははは。うんとね、そうね、お姉さんがアドバイスしてあげる。成り行きで!!」


「それは、すでに聞いたのだがな。私はレオーネ君が何者かを知りたいのだ。別の言い方をすれば、どの神の祝福を受けているのだ?豊土神マイヤ様ではあるまい」

 

 風が吹いた。

 桃色の髪をした少女は、表情を消す。その大きく開いた目で、コールを見上げる。

 けれど、覗き込む瞳には色がなかった。

 腐った肉の匂いがして、思わず目を逸らすと、路地の入り口に腐りきった犬がいた。眼球があったはずの空虚な穴で、深遠の向こう側から私を見ていた。


「今は、運命に従うのだ」


 少女はかすれた声で言った。


「そうするより他はない。今は動くときでは無いといっているのだ。忌々しいマーテルだけじゃあない。あの娘には刃が絡んでいる。無駄に足掻けば、存在そのものが消滅することになるぞ」


「カイ君か」


「ナスターシャが無駄に出張ってこないのもそのためだ。あれは恐怖なんていう生ぬるい言葉ではいい表せない・・・。ここで貴様を失うのは得策ではないから、私がここに来た。今は貴様に出来ることなど何もない。動かなければならないときは、天啓がくだる。アーティファ様だけを求め、備えるのだ」


 少女の肌には、古の紋様が刻まれていた。緩やかな曲線と楕円を組み合わせ、規則性を排して、調和を乱す不安定な幾何学文様。その中に例外として、規則正しいものが、それも世界の誰もが知るマークがあった。

 慧聖と剣聖の印。しかし、慧聖の印の上には短刀で何度も傷つけたような深い傷跡が刻まれ、今も血が流れて止まることがない。


「大帝国最凶の敵。死を否定するもの、暗黒騎士ルドラ。聖巫女の軍門に下ったか」


「いかにも。この肥溜めのような世界よりは、あの甘ったるい世界のほうがまだ救いがあるからな。

 良いか?魔の究極、剣の至高を仰ぎ見た私が言うのだ。敵対してもいい、刃を交えてもいい。死んでもいい。そうなったとしても、私が屍として使ってやる。だが、消されるな。神は死を超えて、魂そのものを消滅させる。このこと、ゆめゆめ、わすれるなよ」


 犬が吠える。

 腐った声帯を震わせて、愛くるしく、汚らわしく。

 死霊魔術士(ネクロマンサー)は、いとおしそうに撫でて、犬と共に去った。

 腐臭だけを残して、浅黒い肌に刻まれた虐待の跡が、彼女のどこまでも暗い伝説を思い出させた。

 

「甘ったるい世界、か。叶わぬ夢だからこそ、アーティファとアルファスは駆け抜けたのか。

 いずれ壊れてしまうから、マーテルは己の手で滅ぼしたのだな。

 助けない慈愛の女神マーテル。唯一の例外が、大帝国の破壊だったのだ。

 けれどマーテルを敬愛するからこそ、その選択が間違いであったことを証明するために、神に至ってもなお戦うことを、夢を負うことを諦めないのか、アーティファよ。

 彼女のために。その涙を拭うために」


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