神ではなく人として
一章はこれで終了です。
お付き合いくださった方々、ありがとうございました。
設定、明日か明後日に上げます。
次章は、三日後くらいに。
深夜、カイは寝付かれずにいた。
不自由な体に、はっきりとしない思考。すべてが重く、世界全てを把握した五感はまどろみの中にいるようで、屋敷周辺の虫の数すらわからない。初めて知る感覚に戸惑いを覚えて、その戸惑いというものも、また始めてのことだった。
どうしてこんなことになったのか。
唐突に、何の前兆もなくここに来た。送り込んだのは誰か。
明白だ。姉、そして、いつも冗談ばかり言っているあの女がそうしたのだ。
いつも戦のことばかりで、さっぱり言うことを聞かない弟を、いっそ渦中に投げ込んで、そうすればなんとかするだろうという考えなのだ。
実際、来るなり右往左往して、レオーネだけでなくサラにも馴染もうとしているのだから、姉たちの目論見どおりになっている。
カイは面白くないと思いつつも、送り込んでくれたことに感謝していた。レオーネが会いに来ることを待ち続けるのは性に合っていなかったし、こうして来た現世も悪くはないと思えるからだった。
カイがいた世界。
現実界の始まりにして、源。
全てはそこから出で、信仰の対象である真なる世界。
そこに座すのは神であり、対極をなすのは悪である。
そんな神々のなかで、撃ち滅ぼす剣とされていたのがカイだった。
神聖かどうかはなんとも言えないが、カイらの世界から溢れて流れ出したものから現世は成り立っていた。そんな虚像のような世界でも、神の中には足しげく通いつめる者もいたが、カイ自身はほとんど訪れたことはなかった。
意味を見出せないから。
カイは剣であり、それにふさわしい仕事をこなすだけで、現世の取るに足らない雑事は、その役職にあるものに任せておけばよい。まして、現世に楽しみを見つけるなど、カイには考えられなかった。
自分は人間その他では到底かなわない脅威と戦うのが仕事なのだ。その他のことに裂く暇などない。
しかし、あるとき、神の中でも一際上位にある姉から呼び出された。
訪れた姉の世界は、永遠に続く、薄ぐらい畳敷きの和室を思わせた。
赤い梵字がゆらゆら漂う。
ある文字は触れると揺らぎ、まるで甘えるかのように絡みついてくる。そうかと思えば、飽きたように、不意に消えてしまう。また別の文字は、はなからカイには興味がないという風で、触ろうとすると、まるで誘いを避ける女のように腰を捻ってカイの指をかわした。
大きさはどれも同じ、色も、書体も、ただ振る舞いだけが違っていた。
文字の一つ一つが姉の力の発露であり、持ちうる世界だった。
姉は無限の世界に囲まれてカイを待っていた。大きなすだれに覆われた一段高い座敷の奥で、灯明の脇に横座りしてゆったり髪をといでいた。
顔は見えないが、浅黄色の和服がたてる衣擦れの音がかすかに聞こえた。
その斜め前には、現世を管理するトリックスターのような少女が、身の丈ほどもある大きな鏡を覗き込んでいた。
―御覧なさい―
姉が促した。
―美しいでしょう?―
鏡の中は漆黒で、何も写してはいない。
しかし、その中に、ただ小さな蒼い火が、ほんのりと灯っていた。
とても脆弱で、吹けば今にも消えてしまいそう。
周りを包む闇が、見えない手を伸ばし、小さな火の光りを掠め取ろうとしているかのようだ。
なぜなら、美しいから。汚れていないから。いや、汚れないから。
それを無限に奪い、隠し、だめなら握り潰す。あれは、そこでは眩しすぎる。
カイは、姉に目をやった。
すだれの奥で、紅をさした唇が微笑みに広がるのを感じた。
―あれを、あなたにあげる。大事になさい―
それから、千年、待ち続けた。
火は育ち、肉体に宿り、人となった。誕生の喜びにカイは打ち震えた。そして初めて現世に恐怖を覚えた。
-現世の試練を乗り越え、あの子たちはあなたの元へ来るのですよ-
鏡を前に、少女はカイに言った。
「試練?試練とは何だ?」
カイは少女に詰め寄った。少女は、大きな目を見開き、心底呆れた様子で答えた。
「生きることですよ」
***
少女の言葉を思い出し、カイは寝床から起き上がった。
こんなにも脆くて膂力のない体で人が生きていることを不思議に思う。そして、焦げ付くような喉の渇きに、自分も今やそう変わらない存在なのだと思い、不安を覚えた。かつての自分にも、不可能なことはあった。しかし、次元が違う。
水差しを手にして、廊下に出た。キッチンに向かい、暗がりの中を手探りで進んだ。
窓から月の光りが差し込み、花瓶に咲く彼岸花が、手招きするように浮き上がった。
その先、廊下の突き当たりの部屋に誰かがいる。
そうしようとしたわけではないが、音も立てずに覗き込んだ。
白い彼女が偶像に向かい祈りを捧げていた。
イデアと現世、そして混沌を現す三つの楕円を一本の木が貫いている。その天上に翼を広げた鳥が座し、世界を見守っている。
それは現世におけるカイの世界のシンボルだった。
灯明に挟まれたシンボルの前に跪いて、一心に祈っている。橙色に照らされた室内は六畳ほどの広さしかない。扉までレオーネの影が伸び、カイの足元に差し掛かっている。いつからそうしていたのだろうか。
彼女が願うことは、この世界では多すぎるだろう。
手を伸ばして、肩に触れようとした。
躊躇して、いっそ、気付いてくれればいいのにと思わずにはいられなかった。
しかし、レオーネはカイに気付く気配はない。
はたして何を祈っているのか、気にならないわけではない。元の力があれば、心に忍び込むことも容易かった。けれどもカイは試そうともしなかった。超常の力を行使することを望まなかったのだ。人の心を先読みし、欲する物を与えることは、いかにも神らしいやり口だと思いもしたが、現世を管理する少女、現世における絶対神はそれを好まなかった。
-愛するのならば尊重してあげなさい-
そうしなければならないと、少女はいつも口にしていた。だからそれに習うことにした。なにより、自分がこんな体で送りこまれたことに意味があると思ったから、無理に力を行使することは姉たちの意思に反してしまう。もしかしたら、レオーネの意志にも。
カイはその場を離れ、水差しを満たすと部屋に戻った。そして、考えることなど何もないと気付いた。今の自分は神ではなく、ひ弱な人間並みの力しか持たない。
待てというのならば、待とう。
もう、千年待ったのだ。人の一生など短いものだ。
-彼女たちがいれば至高のツルギとなる-
姉の言葉の意味をかみしめる。
ならば、しばらく人は人らしく、悩みながら懸命に生きることにしよう。
それが神の望みならば。




