神々の饗宴 -自由をたからかに宣言して、殺戮を-
ガリガリと、何かを刻む音がする。
真っ暗な、井戸の底のような牢の中で、病み衰えた男が一心不乱に何かを壁に刻みこんでいた。
白が混じった茶色の髪は伸びるがままで、擦り切れて襤褸になった服は汗と小便にまみれている。
先の無い囚人でありながら目は爛々と輝いて、そも自分の置かれた境遇など、己が導き出そうとしている奇跡に比べたら取るに足りないことだと信じていた。
長く伸びた口髭の下で、ぶつぶつと何かを呟きながら、とり付かれたように式を変形し展開していく。そのたびに世界の真理が明らかになるとでも言うのだろうか、男の顔は紅潮していくのだった。
ふいに男は下を向いて手を止めた。
何事かを叫んで、壁に縋りつく。
振り返って、這いずるようにして、すでに式で埋めた壁面に取りすがる。
刻んだ文字を指でなぞる。
落ち窪んだ眼窩の奥で何かが煌いて、男は立ち上がった。
窓から日の光りが、ヒトが決して模倣することが出来ない断頭台の刃のような輝きが降り注いだ。
両手を広げる男を曙光が包み込んで、顔には、あえかな命の灯火が浮かんだ。
「神よ、魔晶とは!!」
満腔の叫びとともに、跪いた。
「あなたの御声、そのものなのですね!!」
男が導き出したのは、神の法の模倣。
まがい物で、涜神として排除されるべきものであったのかもしれない。
けれどそれは、たとえようもないほどに美しい式で表されていたのだった。
*****
深い静寂が、カイを包みこんでいた。
闇としじま、虚無と無音。
闇に眼が慣れていないから、戦場にこだます爆音で鼓膜がやられているから、見えずに聞こえない。
違う。
ヒトには見えないだけだ。
肉には、聞こえないだけだ。
幻術ではない。盲目になったわけでもない。
肉体、感覚器官を通して脳に電気信号や魔力波動を伝達する経路が遮断されている。目や耳という器官に魔術によって膜を被せるのではなく、そのものが矛盾なく切り離されているのだ。
本来、肉体がなければ現世の存在は自分を保てない。肉体による知覚をよりどころにして他者を認識するからこそ彼我の差異を知る。差異を知らなければ、自分というものが認識できないように出来ている。
それなのに、俺という存在は、脳を狂わせることなく今現在もありのままに存在している。
ありえないことではあるが、ここは、そういう世界なのだ。
肉をまといながら、それでいて感覚経路だけが閉じられている。知覚を部分的に剥ぎ取られているにも関わらず、肉体に囚われている俺は俺という存在を、かつてのように正確に認識している。
なぜだ?
俺という存在が知っているからだ。俺は視ることができているし、聞くこともできていると。
ただその方法が間違っているから、視えていること、聴こえていることを認識できないでいる。
この世界は、ヒトとして肉体で知覚しようとするから、何も見ずに何も聞こえない。
そこにある存在の次元が、三次元を超えているから知覚できない。
魂の内にある彼の世界を想起して、理念を視なければならないと、俺という存在は言っている。
そうだった。ここは、そういった場所だった。
肉体をまとう者にも、魂であることを強制する。
すなわち、神域、神々の座。
肉体から意識を切り離したカイの鼻腔に、気だるげで絡みつくような甘い匂いがまとわりついてきた。
「この甘ったるい匂い。ホアンの生み出した世界か」
縁神ホアン。森林の遊女、遊び戯れて悦楽にたゆたう神。
神の中でも特に強い力を持った、法則に携わることが出来る一握りの神々。その中で縁を司る無謬の存在が彼女だった。
カイは闇の中に一歩、踏み出す。
「長い付き合いだ。お前の好みは分っている」
両脇に、ぼっと松明がともる。周囲が照らされ、カイは自分が木々に囲まれていることを知った。
爆ぜる火の音とともに、遠くから歌声が聞こえてきた。
不意に、レオーネたちとともに見たマルブの祝祭の光景が思い浮かぶ。
-あのとき祭られていたのは、どの神だっただろうか-
クヌギの木が両脇に連なり、視界のはしに蛍が舞う。くるりと松明の周囲にひるがえって、行く先を示す。
踏み出す足の下で、枯れ枝が折れて乾いた音を立てた。
今は、秋だ。命の抜け殻が空気中に満ちているような豊満な冷気を、俺は戦場で感じていた。枯れ葉に血が染みこんで、冬に備える木枝に臓物が垂れ下がって、それでも森は陰惨ではなかった。
次があるからだ。来るべき春に思いをはせるからだ。そこにヒトがいようといまいと、山林には関係がない。
収穫を喜び、神々に感謝するマルブの祝祭。きっと、ホアンは腹を抱えて笑うだろう。そういうふうに森林は出来ているからそうなったのであり、運命によって定められてるものを、どうして感謝する必要があるのだと。
「運命、か」
つぶやいて、カイは歩く。
やがて季節はめぐり、木々は姿を変える。動物達はカイに見向きもせずに生き、死んでいった。
若芽があった。花が満開になって、枯れはてて、やがて雪に包まれた。
命が生まれて、誇って、衰えすら美に変えて、やがて朽ちていった。
刻々と変化していく森の中を、どれほど歩き続けただろうか。
浮かびあがる紫色の藤と、香る木蓮の花。
手招きをするかのように、蛍が八の字を描いて飛ぶ。
そして、繰り返す運命に翻弄されて、死んだ。
小さな骸を見つめていたカイが目を上げる。その先で、宴が催されていた。
篝火に伸びる影法師、その数は無量大数を上回る。
無限の長さの百足が杯を傾けて、白いイノシシが天狗と相撲を取り、使途をはべらせる壮齢の男がパンをワインに浸し、末期の晩餐を楽しむ。
肉欲におぼれる若い男が立琴をかき鳴らして、男を見下す売女の足元に跪く。
首の無い像が砂漠の中でトカゲを引きちってむしゃぶりついて、理想を語る鰯は大群を率いて大海原を回遊する。
そこでは法則が普遍としてあった。
ヒトが、虫が、獣が、魔獣が生きる基礎としての法則が、純粋な形で存在していた。
色彩は波長に囚われず、根源の色を魂に刻み込む。視るものの受容器官に関わらず赤であって、黄色であって黒くある。音もまた、同様、存在そのものを示す。
どんな語彙でもっても表すことのない真実の感覚が、渦巻いていた。
それぞれの世界を引き連れて、三流も、一流も、神と規定された存在が一堂に会し、次元が重なりあう様は乱痴気騒ぎとしか言い得ない。
「やれやれ、今さら説教じみた真似をされなくてはならぬほどには、堕ちていないつもりだがな」
カイが歩みを進めると、神々は道を開け、付近の座標に展開していた世界が停止する。
響く足音に神々は怯え、跪いた。
酒に焼けた喉で、どうか消滅させないでくれと懇願して、カイが通りすぎると意気軒昂、再び酒をあおり始めた。
すべて無視して、カイは、剣神は進む。
剣神、神々の中でも最高の武を誇る一級の神。あらゆるモノを切断し、法則すら例外ではない。
頂きに座す神々に対してさえ絶対権力を行使する神、桔梗。その弟神、それがカイ、戒、解、界、カイネウス、羅刹の殺戮者、アグニ、あるいはトバル=カインと称される神だった。
ホアンの眷属のアナグマがカイの前でひょうきんに一礼し、升席に案内する。
最前席に腰を下ろしたカイが見上げた舞台では、九尾の狐が舞っていた。
隣の升席では、白虎がとろける視線を舞姫に投げて喉を鳴らし、鬼姫が真似して踊る。
さらにその隣では、エルフの女王が夫であるオークの帝王にしなだれかかって杯を傾け、芸術を理解するオークはじっと狐の舞を見つめている。
見上げた月に薄い雲がかかり、巨大なエイが遊泳し、竜王は山脈にもたれて舞台を眺め、刑罰を司るカエルが仰向けに寝っ転がって、ぱちりと瞳を開け閉めする。
舞台を見ているのは一部だけで、他の神々はただ興奮しその感情が漏れ出して、自身の世界に様々な事象が荒れ狂う。
「現世に新たなる法則が誕生しようとしている。
我々の世界から流れ出て、彼の世界に届かなかった理念の光り。
堰は崩れさり、解き放たれる流れは、自由と呼ばれる」
それはすべて、我ら神々のため。より良い眷属を生み出すために、気の毒な命に植えつけられる祝福であり桎梏。
「濁流は大地を潤し、大いなる恵を授けるだろう。
だが、耐えられない者は流され、消える」
この場は新たなる法則のお披露目であると同時に、現世にある魂のオークションに他ならない。
神々は眷属となり得る魂を検分し、評価し、対価を積み上げる。
主だった魂にはすでに予約が入っているから、絶対神たちにとっては閲である。
-俺にとっては、なんだ?-
姉は微笑みながら、妙なる笛の音に首を傾げ、うっとりと細く口を開いている。
視線の先は九尾の狐。惑い、恨み、泣いて死んだ歌姫の物語を舞い踊る。狐のしなやかに伸ばされた白い手にそっと持たれた扇は、涙に震えて、怒りに燃えて、試練を呪う。
舞台袖には、ああ、なるほど。
どうして忘れていたのだろう。
現世は、全て偽物なのだ。
神の眷属を生み出すのが目的で、あの世界に生きる者の希望も、夢も、愛情も、全てが計画によって定められた、まがい物にすぎない。
すべてマーテル主催の喜劇に他ならないのだ。
ならば、この舞台も劇中劇でしかない。
『でも、それでも』
声が聞こえた。
黒子の一人が頭巾の前垂れを上げる。
見慣れた栗色の髪の、メイド姿の少女が泣いていた。
「そうだ。それでも、俺があいつらを人形と見なす理由にはならない」
舞が終わる。
力の限り踊りきった九尾の狐は、息も絶え絶え、舞台から客席を見渡した。
満足げだったその目が、絶望に染まっていく。
高貴な能楽の舞台であったはずなのに、神々からおひねりが投げ込まれた。
-これだけ懸命に舞っても、私は、私たちは、人形に過ぎないのか-
狐はぶさまに泣いて、七色の尾は力なく垂れ下がる。
彼女を見つめていていた宴の世界の主、縁神ホアンのこみかみに青筋が浮かぶ。
升席で、かつて現世にあって慈愛を説いたアーティファの背後に曼荼羅が展開する。その夫、誰よりも優しかったオークの王アルファスの、この日のためにあつらえたモーニングのボタンが、溢れる神気にはじけ飛ぶ。
-下郎めら。これを理解できぬのか-
法則神たちの憤怒、カイがそれに同調したわけではなかった。
ただ、見ていられなかっただけだ。
気が付けば、カイは手に握りしめていた魔晶を九尾の狐に向かって放っていた。
放物線を描く魔晶、小刻みに震えて、満ちる神気に共鳴する。
反射して、溶けて、秘められた意志があらわになる。
魔晶に秘められた模倣された神気は人為。ゆえに、神の世界にヒトの願いが混じった。
ブラックホールを形成する魔晶を中心として、観念を超えて統一される世界。
九尾の狐が揺らすゆりかご、竜人の存在が現世に揺らぎを与えて、平行世界が収縮する。
在った事柄が、今は違った法則で捉えられる。
未来に在りうべき事柄が、蓋然性のくびきを引きちぎって、無限の可能性を帯びる。
新たなる平行世界が、その瞬間をもって誕生する。
「ああ、ああ、そうでなくては。代金など必要ない。いや、値段などつけられない。縁は、何らかの価値で代替することなどできぬ」
縁の狐が飛び跳ねる。
「私たちが生まれ育った世界は素晴らしい。だからこそ私たちは勝ち取ろうとしたんだ」
吼えるオークの手には、いつかマーテルに向けた戦斧が握られる。
次元が無数に開いていく。酒宴に乱れ、嘲笑っていた神々の世界が、滅びの一撃に悲鳴を上げる。
虐殺されているのは神ではなく、神々が統べる世界そのもの。
「私の故郷がそんなに笑える?ふうん、・・・消えなさい」
絶対神の怒りに触れた神が統べる世界は、ことごとく滅びさる。
無限の尾が世界の縁を切り刻み、エルフの願いを受けて世界樹の恵は枯れ果てて、オークが率いる飢えた軍勢が命を略奪しつくす。
次元を埋め尽くす悲鳴の中で、カイはただ、かつてあった現世だけを思う。
残してきた、魂を見つめ続ける。
「あれらは人形などではない。俺はそんなものを欲しがったのではないのだ。
もし、人形だというのなら、自由意志というものを授けてやろう。
それでも足りないというのなら、人形だと認める奴腹、余さず全て切裂いてやる」
桔梗が張った絶対の結界を切裂いたカイの体が、無形になる。
切裂くという理念だけが、カイの存在を規定する。
崩壊する宇宙が放つ破裂する光りを背に、桔梗は微笑む。
「お帰りなさい」
カイは、桔梗が伸ばした手を掴んで引き寄せ抱きしめた。
「どうしても、ヒトを好きにはなれませんでした。
魔晶の解放を手伝ったのも、自分のためでしかない。
俺には、斬ったという結果しかないから、過程がなければ魂を維持できない現世に馴染めるはずがなかったんだ。
あんな神の筋書きでしか生きられない存在なんて、むごたらしいだけではないですか。
けれど、俺はヒトに墜とされた。人形だった。貴女が、そうしたから、そうなった。
耐えられなかったんだ。人形であることも、嘲笑われることも。だから、魔晶を解放した。
それで、神の計画から逃れられるわけでも、人形でなくなるわけでもないのに」
「ええ、しょうがないわ。
だって、ヒトって、何処までいっても、汚らわしいでしょう?」
眼の端に涙を湛え、桔梗はカイの肩に頬に寄せる。
「しかし」
「ええ、それでも」
重なる姉弟の世界と法則。
「あらがうことは出来る」
「愛することは出来る」
触れ合って、混交して、姉と弟は絡みあう。
流れ出した理は自由。
知聖が微笑んで、魂引きが祈りを捧げる。
二人の姫は新たなる理を得て、階段を上る。
消滅した世界は天文学的な数にのぼる。
しかし、それでも無限にとっては極小に過ぎない。
イデアの世界は毛ほどの損害も被らない。
竜王がいびきをかいて、白虎が消え行く命を嘲笑い、エイはのほほんと雲間を漂う。
蹴鞠を蹴っていた鬼姫が跳んで、罪悪を司るカエルはもぞもぞと土にもぐる。
腹をすかせた紳士がいつものようにタップダンスを踊りながら罪無き子供たちを救い上げて、冥界の大狼が罪深き魂に試練を課す。
法則神たちは何も気にしないし、何も変わらない。
だから、神なのだ。
だからこそ、ヒトは見上げて、崇拝するのだ。
****
長城の前に広がる平野に、次々と打ちあがる白色燐光弾が戦場を照らしながらゆっくりと堕ちていく。
上空ではじけるたびに、剣を交える兵たちは己が銃を向けている相手が、剣で切裂こうとしているものがヒトであることを知って、互いに一瞬立ちすくむ。しかし、それも長くは続かない。今ではもう、相手の顔に浮かぶ驚愕、焦りが快感にすら変わっていた。みな等しく、けだものになっていた。
それすら通り越して、ただ機械的に殺すことだけを志向するようになったのはケルサスだった。内乱で身内を刃にかけてきた彼らは、ヤーヘンのように、敵を憎むあまり余計な感情を交えて効率を乱してしまうなんて愚行は犯さない。速やかに、計画的に殺してゆく。
殺戮マシーンと悲劇の戦士の戦い。後手に回るヤーヘンと亜人たちに対して、冷静な指揮官が最適に殺しを命じるケルサス。特攻隊が結界に張り付いて、恥ずべきその作戦がもう隠し通せなくなっても、敵を前にしたケルサスに動揺は見られない。ケルサス臣民として血に刻まれた殺戮のための効率性が人間性すら支配していた。
もはやヤーヘンの繰り出す戦術は、何一つケルサスに有効打を与えることは出来なかった。ヤーヘン、篭城以外の選択肢を失いつつあった。
そのとき、突如、戦場が暗闇に包まれた。
白色燐光弾は次々と空に打ち上げられているにも関わらず、その閃光が闇に吸い込まれる。
ヤーヘンとケルサスは混乱に陥った。一方、亜人たちは、ただ空を見上げている。夜目が利く亜人たちにとって千載一遇のチャンスであるにも関わらず、空にたたずむ獣使いの男は命を下さず、亜人たちは放心して天を見つめるだけであった。
ふと、誰かが空に向かって指をさした。
ざわめきが戦場を包んで、最前線の兵たちは浮かぶ満月を見た。
月が、真紅に染まっていた。
ただの紅ではなかった。雲は無く、戦場を包む砂塵は魔術で晴らされているのに、月面を覆うクレーターすら見えない。ぽっかりと、漆黒の闇の中から誰かが覗きこんでいるようだった。
月は光りを放射していない。ただ、一筋の紅の光りを、スポットライトのように一点に注いでいる。
降り注ぐ先は、エンジェル・ボイスの結界。
戦意を失った兵たちの前で、ドーム状の頂点から罅が広がってゆく。
割れて、破片が煌いて、女の甘い香りが匂いたった。
万を超える視線の先に、一人の女がたたずむ。顎を上げて、ぼんやりと月を見ている。
巫女の緋色の袴をまとって、黄金の髪が夜風にたなびいて、その手には一面の扇子があった。
頭上には、対の獣の耳が。そして、九本の尾が。
一斉に、亜人たちが吼えた。
その声、それまでの殺意は微塵もなくて、喜びと森林への郷愁を叫ぶ。
応えるかのように九尾の狐が手を伸ばす。
「月読の、光りに来ませ、あしひきの、山きへなりて、遠からなくに」
つぼみのような唇から零れ出たのは、古の歌。
扇子をつまみ持った手を目線の高さに挙げて、ゆらり、型を作る。
透明な紅い月光に貫かれて、舞姫は空いた手を空に掲げた。
「その窪んだまぶたから落ちる涙をまえにして、この信心深い魂に、私はなんと答えることが出来るでしょう?」
九尾の狐を前にして、ヤーヘンはおろか、ケルサスすら動けない。
美しいから。聖に満ちているから。神に侍る巫女に無礼を働いてはならないから。
巫女姿の白拍子は、扇子を広げる。
何処からともなく笛の音が聞こえてきて、それはきっと天上の技にちがいない。
響く太鼓は、心膜を震わすほどの重さと、少年時代を思い出すほどの軽やかさを、跳躍して響く。
舞は、見とれるほどに艶やかで、ほころぶ花のように絢爛だった。
あまりに美しく神懸りで、だから戦士たちは、自分たちを救ってくれると、悪であるはずがないと思ったのだ。
「貴方の罪は暴かれた、罪業をその身に刻め。
闇夜に浮かび上がる緋文字は初源の言葉、α」
舞姫は空に掲げた拳を広げた。
鈍い光を放つ小石がある。
神の御技を模倣する魔晶が、天高く昇る。
魔晶に秘められた魔力はまったき聖。そして、歌姫の属性もまた聖。
しかし、聖は救いを意味しなかった。己の罪を忘れて縋るものを踏みつけることこそ、舞姫の願いだった。法則神、縁神ホアンもまた、マーテルの法を捻じ曲げて殺戮に酔うものらを悪と認めた。
魔晶が燃える。
その炎でもってヒトの望みを読み取って、神の意思との矛盾を明るみにする。
マーテルの神気、月光の紅色の光りを吸収して、その法則にしたがって御技を示す。
形作られたのは、罪を記す文字。
ヒトはすべて、生きるうえで罪を犯す。
ならば、あがなえと、魔晶は運命に贖罪を刻む。
そして、九尾の狐は己が被った穢れを呪いとして神術にのせて、運命に刻み込む。
微笑を顔に張り付かせたまま驚愕に目を見開いた兵たちに、艶やかに舞う舞姫は、絶望を告げた。
「私生児。貴方が暴力で私を犯し、生まれた娘に、私はパール(真珠)と名づけよう。
朗らかで、天真爛漫な彼女。妖精のごとくに美しく、しかれども、決して世に交わること叶わじ。
全ては、貴方の罪がゆえに。
私は娘を殺し、貴方の罪を神に示そう。
貴方は穢れているがゆえに、私もまた、穢されたがゆえに。
神が定めし十戒、破りし魂に死者の舞踏を捧げたもう」
-神宝、黄金髪を奉りて、松風を舞う。恨みは募りて、黒塚にて刃を研ぐ-
美しかった娘は恨みの果てに山姥となった。
憎悪が、神の法則を巻き込んで、普遍へと昇華する。
大空に輝く緋文字に流れ込んで、はじけた。
流星となって、この戦場の前線にいる生きとし生けるものの胸元めがけて降り注ぐ。
「舞え、喜ばしき死を、耐えがたき生を。
呪いは、ほかでもない、貴方の魂にこそ刻まれた。
ω、世界の終焉まで逃れる術はない」
戦場にいる全ての兵が悶えて、胸元に刻まれた罪の文字をかきむしる。
思考に経験を超えたイデアが流れ込んだ。
-罪人は、死ななければならない-
戦意を失っていた兵たちは剣を拾い上げ、九尾の狐は扇子を開く。
笛の音が響いて、狂乱の音色に血しぶきが舞う。
狐は妖艶に舞い、歌声が戦場を包みこむ。
かろやかに腕が振るわれるたびに、魔力の炎が上がって、誰かが死んだ。
裾がなびいて、剣が煌いて、肉塊が転がった。
鈴の音はどこまでも響いて、兵たちは命を燃やして、狐は恍惚に酔いしれる。
-死ね-
それだけが全ての意志だった。
兵たちは微笑んで、喜んで殺し、貫かれた。
-お前も、俺も、罪を背負うものら、生きていてはならなぬのだ-
洗脳された兵の血が流れて、黒く変色する暇もなく新たな血が流れて、戦場に血文字が浮かび上がる。
月は何時しか涙を流す。
見上げるとすぐそこに迫り来て、余さずすべてを見逃すまいと、巨眼となった。
狐は薄く笑う。
「マーテル、そうだ、お前のせいだ。愛するがゆえに救わないと決めたからの地獄だ。
私は、なにも無理を強いていない。お前の法則に従って、贖罪の法を運命に載せただけ。
その結果は、どうだ。
彼らは、新たに生まれた自由意志をもってしても、殺すことを選んだ。手を携えるのではなく、殺すことで贖罪を果たそうとしている。
なんて、おぞましい。
この殺戮が、貴様の望む世界の礎なのよ」
足を上げて、力いっぱい大地を踏みしめる。跳躍して、黄金の髪を殺戮の風にのせて、緋色の袴は夜に映える。
流し目が兵の視線を受けて、童女のように輝いて励ましたのは、切裂く手管。
笛の音を絡みつかせて回る優雅さが、罪人を燃やす魔術の猛りを煽る。
舞姫の一挙手一投足に応えて血が舞い、絶叫が唱和する。
「女の体にむかって剣を振り下ろす快感。逃げ惑う子どもの髪を掴んで喉笛を掻き切るときの絶頂。
ああ、知っているわ。
私はそれとしらずに励まして、肯定してしまったもの。
でも、私はもう小娘ではない。この世界と、ヒトというものを知った。
好きなんでしょう、陵辱が。
たまらないんでしょう、いたぶることが。
さあ、自由は生まれた。
無限の可能性が貴方たちの前に開いている。
望むがままに殺して、犯して、むさぼりつくせ。
私が、その力をあげる」
自力で勝るケルサスの魔力がエンジェル・ボイスの結界によって減退する。大規模魔術のための詠唱は乱され、砲弾は不発となった。一人の兵を取り囲んでいた小隊は転移され、強制的に一対一を強いられる。互いの力が均衡するまで魔力の出力を調整されて、血みどろの接近戦がそこかしこで繰り広げられた。
それこそが彼女の求めた戦場だった。
魔力という特権に酔って弱者をいたぶる強者たちに、本当の恐怖と痛みを知らしめること。
どんなに素晴らしい目的のためであっても、見下す力がある以上、それは倫理的でなくてはならないのではないか?弱者が弱者になってしまった理由に共感することを放棄して、ただ殺すなど、けだものの所業ではないか?
だから、知るべきだ。慮るべきだ。弱者の痛みを、そう生きざるをえない恐怖を。
そう思って、彼女は生きていた。けれども魔力を持つ者たちは何処までも傲慢で、卑劣だった。
火あぶりにされて、ようやく悟ったのだ。
もう、無理なのだと。ヒトは、自力で救済されることなど、出来はしない。
ならば、地獄を作ろう。
絶対神マーテルの、愛するがゆえに救わないという意志を翻意させるまで、ヒトの本質を見せつけ続けようと決意したのだ。
いつしかエンジェル・ボイスは黄金の面を被っていた。
唄う黄金の邪教徒は、紅に染まる月に呪いの舞を奉納し続ける。
血涙を流す月は、無力にただ見守り続けるだけだった。




