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偽国戦記  作者: ブレヒトさん
魔晶戦争
104/131

開演、天使の歌声

戦場からの撤退を決めたケルサス。

しかしそのためには、民の逃げる時間を稼ぎ、進軍速度の速い亜人たちの数を減らす必要があった。

精強な増援部隊を全面に出して亜人たちの攻撃を受けるケルサス軍。

竜人のブレスによって少なくない損害を出しながらも、作戦に目処が付き始めたとき、もう一人の邪教徒、『エンジェル・ボイス』がついに戦場に襲来する。

 焼ける。

 私の体が、魂が。

 四肢が(ただ)れて灰となり、骨は赤く輝いて、心の臓は燃え尽きた。


 私そのものが炎となる。


 渦巻く火柱となり、天を焦がすよう、何処までも昇って行く。

 一心不乱に、救いを求めて、昇って行く。

 けれど、求めた天に跳ね返されて、私は、私の世界に墜落する。


 私という炎が、私の世界を焼き尽くして、(あまね)く全てが炎となる。


 世界となって広がった五感、全ては炎。

 舌に転がるは熱の痛み。

 握り締めた手の平に感じるは、揺らめく感触。

 鼻につくは、吐き気をもよおす、焦げた肉の匂い。


 ああ、私の世界は燃え尽きてしまった。

 もうなにも残っていないのだ。

 胸を焦がした情熱も、願いも、今ではもう、ただの残がい。

 本当の炎を知らない、人の無知が惑わす泡沫(うたかた)の夢。


 けれど、そう、匂いがする。

 耐えられないほどに、なにかが燃えている。

 なぜ、いまだ燃えているのだ?私という世界は既に燃え尽きた。肉など、あるはずがないのに。

 匂いをたどって、目を開く。

 そこでは、私を見上げる小さな魂たちが、叫んでいた。

 けれど、鼓膜をあぶる火勢が邪魔で聞こえない。

 ごうっと、うなる火風のわめきに混じって、悲鳴と歓喜がかすかに響くだけ。


 何も解らない。

 彼らの声は単語として認識できず、彼らの姿も形として識別できない。 

 視界全てが赤に染まっている。


 地獄の叫びが耳朶を打って、指がなぞるのは躯の冷たさ。


 もう一人の私が尋ねる。

 どうする?

 私は返した。

 どうなると?


 どうにもならない。


 けれど、灰になったはずの心の残骸が、叫ぶのだ。

 かつて私たちのものだった憤怒/祈りが蒸発しても、それでも涙を流すのだ。

 小さな魂を守れと、敵を討ち滅ぼせと、叫んで止まないのだ。


 *********


「邪魔!!」


 女騎士がレイピアでオーガの目を潰し、そのまま脳髄まで貫いてひねる。

 倒れるオーガの陰から踊り出した小型の亜人たちを、マントに施した風の魔術で弾き飛ばした。

 マントに刻まれるのは、ケルサス王国で12ある王宮騎士団の一つ、オクトーベル騎士団の紋。


「前に出すぎだ!!」


 後ろから、四十過ぎの男が叫ぶ。


「仕方ないでしょ!!ここで攻めなきゃ、脇を突かれる!!」


 レイピアに魔力を施して、刀身を強化した。

 大剣に姿を変えたそれを肩に担ぐ。


「止めろ!!」


 しかし、男の制止を聞かず、女騎士は剣に風と火を乗せて振り切った。


「くたばれええええ!!」


 業火が起こる。

 剣身から、渦巻いた津波のような火炎流が解き放たれ、亜人たち飲み込んでいく。


「やった!!」


 笑みを浮かべる女騎士、しかしその眼が見る間に曇っていく。

 視線の先では、大型の亜人たちが壁となって炎の奔流を防いでいた。


 黒こげとなった亜人たち、そのまぶたが開かれる。

 狂った瞳が標的を定めた。


「ひっ・・・」


 魔力を使い果たした女騎士は短く悲鳴を上げた。


「退却しろ!!」


 しかし、彼女は動くことができずにたたずんでいる。

 男が亜人たちを切り伏せ、死骸をかき分けながら前に進む。 

 亜人たちの赤い口腔が開き、唾液を引いて、牙を剥く。

 人の半身もの巨大なこぶしが女騎士の視界を覆った。


「!!」


 男の目の前で、女は虫のように潰された。


「許さんぞ、塵が!!」


 男の周囲に魔法陣が広がる。


「マーテルよ、御名において、恩寵授けたまえ」


 三次元に展開された陣、光線が発せられ、男を中心に乱反射する。

 それは、男という魔力の磁場に干渉し、ありえない曲線を描いて剣にまとわり付いた。


 -オプティカル・パラドクス-


 魔術をなすために志向性を与えねばならないから、魔力は弱まる。

 コントロールする必要があるから出力を調整しなければならないのだ。

 それを、コントロールなど考えずに、最大出力で光線として発現させる。鏡としての魔法陣で囲むことで結界外への漏れを防ぎ、己という魔力的な磁場で無理やり捻じ曲げ、魔石を施した剣に集中させることで剣は絶大な破壊力を得る。

 微細な魔力コントロール技術を持ち、複数の魔術を同時起動させても精神が分裂しない騎士だけが扱える剣技。法則を導くマーテルを強く信仰するケルサス王国騎士ならではの切り札だった。

 消耗は激しく、それゆえ強力。だから、目の前の亜人たちを屠った後、男は疲労のため動けずに女のように死ぬだろう。

 それを承知で、男は剣を振りかぶった。


「殺ってみろよ、ケルサス!!」


 しかし、その眼前に若いヤーヘンの騎士が両手を広げ、立ちはだかった。

 

 男は剣を止めて下がり、ヤーヘンの騎士は嘲笑う。


「何だ、殺せないのか!?邪教徒が怖いのかよ?目の前で仲間が殺されたのに?」


 濁りきった目、青白い顔で唾を飛ばす。


「とんだ、腰抜けだ!!」


「ヤーヘン、ごときがあああああ!!」


 *****


 ブリギッタが解析の手を止めて、解析部隊筆頭魔術師バンデット少佐を見ると、彼女は頷き、声を上げた。


「座標XXX,YYY防御結界の準備!展開中の騎士隊の救援は間にあわないゆえ、後方に展開する!!騎士隊には各自結界を張らせて!!」


 (また、無駄な魔力を消費させて!!)


 少佐は舌打ちして、映像を切り替えさせた。

 映し出された映像では、一人の騎士がヤーヘンの騎士を切り伏せようと、頭上に剣を振り下ろしていた。

 けれど剣は届いていない。刀身はヤーヘンの騎士の頭上で厚い結界に阻まれていた。

 結界と剣がぶつかりあった点から魔力の閃光が幾筋も漏れ、線熱となって触れたものを焼き尽くしていく。

 腰を抜かして、青ざめながら引きつった笑みを浮かべるヤーヘンの若い騎士、驚愕に眼を見開くケルサスの騎士。


(あれはオプティカル・パラドクス!あれでも竜人の結界は破れないの?!) 


「竜人は!?映像を並べて出しなさい!!」


 慌てて、情報将校が竜人の映像を映し出す。

 天幕に広がった映像の中で、竜人は今まさに眠りから覚め、首をあげた。

 喉を鳴らして、蛇目がすぼまり、瞳孔が引き絞られた。


(あんなもの、使うから!!)


「防護結界、四層を展開中、間にあいません!!」


「諦めない!!」


 バンデット少佐が悲鳴に近い叫びを上げた、そのときだった。


「問題ない」


 背後で戦況をうかがっていたニコライ参謀長が声を上げた。


「陣形を維持して、そのまま。背後の銃砲歩兵に退却の援護をさせろ」


 バディが訝しげな視線を投げかける。

 ブリギッタはニコライの策に思い至って、きつく睨みつけた。


「サラ少佐に命を下してある。彼女が対処する」


「なんてことを!!」


 ブリギッタが詰め寄り、衛兵に押さえつけられるが、それでも叫ぶ。


「さっき術を使ったばかりなのよ!いくらサラだって無理、殺す気なの!!」


 バディが訴えかけるような視線を向けるが、ニコライは無視して指示を出し続ける。


 ブリギッタの背後で、邪教徒から発された光が映像を包む。

 天幕に光りが満ちて、みなが瞼を閉じた。

 瞳を開けた彼らが目にしたのは、息も絶え絶えになりながらも、最小の犠牲で自陣に引き上げる騎士隊の姿だった。


 沸きあがる歓声の中で、ニコライをにらみ続けるブリギッタ。

 ニコライの口元にふと、笑みが浮かんだ。

 泣きそうな、それでいてすがるような目でブリギッタを見る。

 口が動いて、けれど声にはしないで、単語を綴った。


 -グローリア-


 ******


 サラの背中に手を当てていたコールが手を下ろした。


「フラーダリーの術式、補助するのは初めてだが、なるほど美しい。言葉も無い」


 サラの前には、額をつけるようにして魔石を握るミミがいる。

 彼らを包む結界を紡ぎ、魔力を注ぎ込むのは曼荼羅(まんだら)を展開したライラ。

 そしてデューイ騎士少佐が、護衛という名目でサラを監視をしていたケルサス兵に獣のような殺気を投げつけていた。


 サラは目を開いた。

 肩で息をして、めまいをこらえて立ち上がる。瞼がかすかに痙攣したと同時に手が差し伸ばされて、コールに抱きとめられた。


「感謝いたします」


 無理に微笑もうとするサラに、コールは残念そうな目で応えた。


「そんな他人行儀な礼なぞいらん。私は学園にいるときから、そう接してきたつもりなのだが、君は違ったのか?」


「い、いえ」


「それに、フラーダリーの術、補助という形で覗くことが出来た。学園の正教授ですら、うらやむ経験だ」


 片目をつぶって微笑みかけるコールにサラは恥ずかしそうに微笑んだ。


「ですが、どうして皆がここに?私は絶えず移動していましたから、居場所がわかるはずがありません」


 ライラが駆けてきて、サラの体をぺたぺた触って無事を確かめ、瞳を覗き込んだ。


「ニコライ大佐って知ってる?偉い人らしいんだけど、ケルサスの暗号とか、サラの居場所とか、いろいろ教えてくれたんだよ」


 ニコライ大佐。この戦での、ケルサス王国軍の参謀長。

 ファミリーネームは、メクレンブルグ。

 サラの視界が青く染まる。

 高い空の下、磔にされたお母さんが、お父さんが、首の無い兄さんが。

 穢された、私の名、私の大好きだった家族。

 王宮の結界を破って、扇動した民を招きいれたケルサス王国の工作員。

 その名は。


 -忘れるはずがない。忘れて、なるものか-


「いかにベリル皇后陛下の庇護を受けようとも、これだけ自由には動けなかった」


 コールがサラに目を合わせる。


「ニコライ大佐か、随分危ない橋を渡ったものだ」


 コールを見上げた、血走った目が言う。


 -だから何だ-


 レオーネやブリギッタの前では決して見せたことのない、憎しみが募った瞳。


「グローリアどころかフラーダリー家に肩入れし、暗号の鍵を教えた。ばれてしまえば、これからの昇進どころか、最悪、家は御取りつぶしだろうに。家の復興を切に願うサラ君ならば解るのではないのかな、その意味が」


 サラは視線を逸らした。


「今さら・・・」


「まったくだな」


 コールは笑い、ミミらに撤収を命じた。


「さあ、君も来るんだ。君は魔力の使いすぎで倒れた、いいね?」


「え?」


「そういう筋書きになっているんだよ」


 ******


「なるほど、さすがケルサス。あれを防ぐなんて、ね。

 でも、絶対、逃さない。

 みんな死ななきゃ、私、嫌よ」


 局地戦の跡地、無数の躯が転がり、乾いた大地に血が染み込んでいる。

 荒野に吹きすさむ風が砂埃を上げて、鉄の匂いが辺りを包む。

 誰もいないただ中で、命の残骸をむさぼるかのように、小さな影が躯を食んでいた。

 死んでしまった地で、死骸にたかる蠅と蛆と虫だけが生きていた。


 柔らかい腹をむっちりと太らせた蠅が一匹、耳障りな羽音を立てて躯から飛び立つ。

 惹かれるように女の白くしなやかな指に止まり、ぶちゅりと潰された。

 体液がこぼれて、黄色い何かが飛び出す。

 舌なめずりした女の目に古の文字、縁の神と彼女を繋ぐ絆が浮かんだ。


 蠅、蛆、虫の蠢く音が消えた。


 静まりかえった世界で、吹き込む風すら行儀よく歌姫の登壇を待っていた。


 女が顎をそらすと、瘴気という緞帳(どんちょう)が上がりはじめる。

 詰め掛けたのは、躯という観衆。

 かすかにはにかんだ彼女に、憎しみに染まった魂たちは盛大な拍手を送る。


 切裂かれた彼らが待ち望んでいた歌劇が、今、開幕する。

 それは、望まぬ死を押し付けられたがゆえに求めてしまう、自分たちが被ったよりも悲惨な結末。

 甘い腐臭にまみれた、引きずり込まれるような悲劇。


 指揮者である蠅の王が、両手の平を下に向けて二三度振ると、観衆は静まりかえった。


 オペラの歌姫が、フードを後ろによける。


 -ああ、懐かしい死の匂い。あの日、あの時、私はこうして、戦争に向かう貴方たちのために歌を歌ってあげたの-


 鬼火のスポットライトを浴びて、両腕をたおやかに伸ばす。


 蠅が、蛆が、虫が、口を震わせて待ちわびる。

 躯が頬を青より青く染めながらパンフレットを握りしめる。

 貴賓席にて死が、オペラグラスを覗きながら口元をほころばせた。


 蠅の王が楽器を携えた呪い達に頷き、歌姫に微笑んだ。


 -さあ、極上の舞台(虐殺)を-


 微笑み返して、腹に力を入れて、(なげき)の言葉を紡ぎだした。


「全てが沈黙した静寂の中で、これほど灼熱した大胆な存在がかつて有っただでしょうか」


 瞳に見せるのは侮蔑と憎悪、嘆きと悲しみ。


「古の詩人が唄う。世界は恋人の顔の中にあると」


 涙を浮かべ微笑んで、両手で見えない恋人の頬を包み込む。


「希望と草原の香りに満ちて、それでも死はありあまるほどあり、わたしは、ただ吹き寄せる熱風を感ずるばかり」


 彼女の視線の先、ぼやけて、彼女が愛した猛獣使いの男が現れる。彼が彼女を抱きしめて、彼女もまたそれに応えて口付けを交わす。


「炎を見たまえ、忠実なものを。そして、死のみがわたしたちが何者であるかを知る」


(君と共に)


 愛しい男が語りかける。


「わたしを励ます慰めの手、暖かな吐息。

 共に逃げて、至ろうとした安息よ。そは、いずこ?」


 足元から黒色の帯が立ち上る。

 命を吸い上げて、終わりを誘う呪法が形を得る。


「けれど、ああ、貴方は死に囚われた。

 嘆くわたしを、ぬかるみが屈服させる。風が絶えず追い越してしまう。

 貴方の声に背いて、わたしは、ついに振り返ってしまった。見てしまった」


 両腕で抱きしめて、慈しむ。


「わたしたちを押し出してしまった蜃気楼、その中にこそ、祝福された街があったのだ」


 呪法も彼女を包んで、まるで、母に寄り添う幼子のように絡みつく。


「泣き濡れた目に映るのは、光り輝く神の家。

 けれど、ああ、なんと堅牢な城壁。

 苦しみに耐え、どれだけ大地に涙を吸わせても、決してたどり着けない。

 逃げ出したのだから。

 わたしたちは、かつて、そこに居たのだから。

 楽園は、わたしたちを排してこそ気高くあるのだから。

 どうして?

 私が穢れているから?

 それとも、醜いから?」


 膝から崩れ落ちて、天に、神に祈る。

 許してくださいと、必死に涙をながす。


「月明かりが追まわし、ツルギでもって狩りつくすのは、何故なのですか!!」


 呪法はヘドロになって彼女を覆いつくし、その中で絶望の瞳が光る。

 彼女は立ち上がり、大地を踏みしめて叫ぶ。


「汝が守護し仕える人の子ら、我らを捨て去ってまでの輝きがあると言うのですか!!」


 声は、地を這って栄光を斜交いに眺めやる。


「ああ、マーテル。慈愛の女神!!

 わたしの叫びを、秩序の歌声でかき消した、絶対なる神よ!!

 今、私の捧げる祈りは、ただ一言!!」


 蠅と蛆と虫が幼子のように目を輝かせて絡み合う。

 躯が座席の肘掛を握り締め、身を乗り出した。

 死は、思わず椅子を蹴って立ち上がった。


 歌声は、空を震わし、大地を乱す。

 旋律は楽園に取りすがって、弾き返され、地獄に滞留する。

 風が吹き荒れて、魔力が流転した。


 蠅の王がめちゃくちゃに指揮棒を振り回し、呪いが持つ楽器は砕け散った。


 戦場に散り、未だ浄化されない全ての魂が、空に手を伸ばして、聞こえるはずのない声で歌姫に唱和した。 


 『滅びされ!!』


 そして、愛という憎悪は爆発した。


 *****


 運命の神、狐女が寝床から四つ足で這い出して、ニタリと笑う。

 かつて、現世の女神マーテルを、その世界もろとも食い殺そうとした無限の尾を持つ狐は、命溢れる森の中で遊び戯れる。

 月夜の下、一目散に駆け出した。

 草むらをかきわけて、ぬっと白い顔を突き出す。

 血が滴る口を開け広げ、求められた祝福(呪詛)を吐いた。


 -サンカ招来、呪いを持って、御霊奉らん-


 *****


「ガッ!!」


「ギィ!!」


「いやああああ!!」


 敵陣を探っていた解析兵が叫びを挙げて昏倒した。


「バディ!!」


 ニコライは、バンディット少佐に駆け寄って抱き起こすが、彼女は呻くばかり。


「衛生兵を!!何がどうなっている!?」


「敵が、亜人が・・・」


 言い終わるよりも前に、さらなる報告が入る。


「前衛の三部隊消失!!亜人が、準男爵たちを、食っています・・・」


「そんな馬鹿な!!」


 そのとき、ニコライの腕が強い力でつかまれた。

 バディが焦点の合わない目で、笑った。


「聞こえた?神の声・・・。ええ、そうよ。みんな、死ぬの」


 戦場全体を映し出した映像、その空で、巨大な獣使いの男が睥睨(へいげい)していた。


 ******


 戦場にいる者、全てが獣使いを見上げていた。


 -あれは何だ?幻影か?- 


 鞭を片手に、凝然とする逞しい男。魔力なんてものに頼らず、己の意思と態度で存在を示す立派な男。

 その視点が、定まった。

 筋肉が盛り上がって、逞しい腕が振るわれた。

 鞭のしなる音が空気を切裂き、人は思わずまぶたを伏せた。亜人、魔獣らの目には光りがともった。


 -Set!!-


 男が絶叫した、その一言。

 ただそれだけで脳を破壊された亜人、魔獣たちはヤーヘンに課されたすべての制約から解き放たれた。そして、本能しか残っていないはずの脳、筋肉、神経が男の声を聞くことを求め、あらゆる暴力行為を停止させる。

 男の背後、戦場のはずれで山鳴りがしたと気付いたとき、まるで悲鳴のようであったそれが大気を振るわせ、呪いの波が亜人の群れに押し寄せた。

 雲のように感触なく、痛みがするほど視覚に訴えるそれが、叫び、嘆く。鼓膜を侵食されたと感じてしまうほどの粘質性を伴って亜人たちを包み込み、引きずりこんだ。


 -Stand up!!-


 そして呪いは、遺伝子に刻まれた過去、ヒトに虐げられ続けてきた憎悪を掘り起こす。

 亜人たちは、逃れられない己の内から沸き起こる呪いに塗りつぶされた。


 歌姫が歌ったのは、人種に虐待され続けてきた亜人たちの霊歌だった。

 神は、人が亜人にどんな無残な行いをしても罰せず、救いもしなかった。そんな神を呪いながらも、求めた亜人たちの歌。

 その歌によって狂った亜人たちは、ヤーヘンの魔術によって意図的に作り出された殺意を乗り越えて、血に刻まれた自分たちの怨念へと昇華させた。

 かつて、平和だった集落で人間に襲われ、意味もなく殺され、奴隷とされた過去に帰った。それはただの記憶ではなく現実として彼らに迫る。殺され、簒奪されたのは祖先の誰かではなく、彼ら自身であると。

 獣使いの鞭が鳴り、呪いが力を与えて、けしかける。社会という枠組みに押し込まれ隠されていた暴力衝動が体中を駆け巡って、吐き出された吐息は呪いに染まる。より残虐に恨みを晴らせと、脳を焼く。


 歌姫はヘドロに包まれながら語りかけた。


「呪いなさい」


 人を、世界を、神を。


「遍くすべて」


 そして、運命を。


「貴方たちは、あらゆるものに裏切られたのだから」


 -そうよ、そうよ、なあ-


 狐が笑う。


 -よいぞ。ちと、助力してやろう。その運命、マーテルより切り離してやる。好きに踊れや-


(ホアンか)


 浅ましい現世から、銀の仮面が藤棚に囲まれた縁の世界を視る。


 -いかにも。文句あるかや?-


(貴様がそう動いたのならば正しいのだろうよ)


 背を向けてレオーネらが待つ天幕に向かう。


(何もしないマーテルなぞより、よほど正義なのだろう?)


 狐は噴出して、身もだえしながら笑い転げた。


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