1998年 過去の日々 施設での1日 (番外編というやつ?)
門真市の空が白み始める頃、俺の1日が始まる。
「新門荘」の門をくぐり、事務所のドアを開ける。
「おはようございます!」
自分の声で、よし、今日もやるぞと気合が入る。男子更衣室で制服に着替え、そのまま2階の療養室へ。まずは夜勤の記録の確認だ。
「うん、何も問題ないね」
ホッとして書類を閉じ、朝礼が始まる前に利用者の皆さんのところへ向かう。
「オハヨウゴザイマス!」
少し大きめの声で挨拶すると、皆さんの顔がパッと明るくなるのが嬉しい。朝礼が終われば、スタッフ同士で「本日もよろしくお願いします」と声を掛け合い、いよいよ現場が動き出す。
1階の食堂に皆さんが集まり、まずはラジオ体操。体をほぐしながら、「皆さん、昨日はですね……」と、ちょっとした出来事を報告すると、あちこちから笑い声が上がる。この空気感がたまらなく好きだ。
体操が終わると、エレベーターで各階に移動して、ここからは怒涛の介助。着床介助におむつ交換。排泄も排便も、もうすっかり慣れたものだ。
頭の中で(手洗いは入念に、水分補給もしっかりと……)とおむつ交換のポイントを意識しながら、テキパキと体を動かしていく。
レクリエーションが終わればまた排泄介助。それから昼食のために食堂へ降りてもらい、食事介助。午前中の業務をやり遂げて、ようやく休憩に入る。
休憩室の椅子に腰掛け、ふと一息つきながら、入職したばかりの頃を思い出して苦笑いしてしまった。
当時は周りを見渡せばきれいなお姉さん(先輩職員たち)がいっぱいで、実は密かにウキウキしていたのだ。まあ、俺みたいなブサイク、誰も相手にしてくれなかったけれど。
でも、そんな中で唯一、俺を特別な目で見つめてくれたのが、1年先輩だった今の嫁さんだ。
まだ付き合っているのか友達なのか、どっちつかずの絶妙な距離感だった頃、彼女が言ってくれた言葉を今でもよく覚えている。
「私、誰に対しても態度を変えない誠司くんのそういうところ、好きだな」
あの言葉には救われた。お年寄りに対しても、同僚に対しても、裏表なく真っ直ぐ向き合おうとしていた自分を、彼女はちゃんと「心」で見てくれていたんだと思う。
午後からも仕事はノンストップだ。トイレ介助、水分補給、おやつの時間、そしてまた排泄介助。食堂で夕食を済ませてもらい、最後の着床介助を終えると、ようやく日勤の長い1日が終了する。
体はクタクタだけど、心はいつも満たされている。
「やっぱり、この仕事楽しいな」
夕暮れの窓の外を眺めながら、つくづく思う。
高齢者のお世話、と一言で言っても、お年寄りたちの「中身」は本当にそれぞれ違っていて、面白い。
自分の年齢はちゃんと分かっているけれど、片麻痺の体に戸惑いながらも一生懸命生きている女性。
かつて家族を支え、今もどこかに「主婦の心」を覗かせる女性。
そして、無邪気で愛らしい「子供の心」のまま、俺に微笑みかけてくれる女性。
そんな皆さんが、屈託のない笑顔で話をしてくれる瞬間が、俺は何より嬉しい。
ある日なんかは、昨日来たばかりの男性の利用者が、温かいお茶を飲みながらしみじみと言うんだ。
「いやぁ、誠司さん。あなたとはもう、かれこれ6年のお付き合いになりますなぁ。いつも本当に感謝していますよ」
昨日来たばかりなのに、男性の頭の中では、俺と過ごした「6年間の確かな絆」が見えている。認知症の波が見せる不思議な時間の錯覚だけど、「昨日ですよ」なんて野暮なことは言わない。
「6年ですか。本当に、長いことお世話になってますね」
俺が笑顔で合わせると、その人は「ハハハ、お互い様ですな」と、本当に嬉しそうに笑った。その「6年」という言葉は、出会ったばかりの俺にくれた、最大級の信頼の証なんだと思う。
誰もがその人だけの歴史と、違う年齢の心を持って、ここで生きている。
よし、今日も終わり。制服を着替えて、愛する嫁さんが待つ家へ帰ろう。明日もまた、あの屈託のない笑顔に会えるのを楽しみにしながら、俺は新門荘を後にした。




