スイッチの操作方法
「よし……。お金の心配は、もう地球上で一番なくなった」
ボストンバッグのチャックを力強く閉め、肩にかける。
チェックアウトを済ませ、俺は22歳の軽い足取りで、当時住んでいたハイツへと向かった。ドアを開けると、そこはまだ同棲を始めていない、ガランとした殺風景な男の一人暮らしの部屋だった。一瞬、佳枝の姿も表札もなくてパニックになったが、アドバイザーがすぐに脳内で笑みを浮かべた。
『失礼しました、マスター。この1998年代に戻り、世界にマスターの存在を確立したおかげで、年末佳枝さんとの間に新しい命が宿ります。そして、翌年の4月29日。あなたたちは最高の結婚式を挙げることが確定しました。』
翌年の4月29日。年末に宿る、長女・芳香の小さな命。
2026年の記憶では日々の忙しさに紛れていた日付が、生々しい現実味を持って押し寄せてくる。
「俺今日仕事だったっけ?」
「シフトを確認すると5/17-5/18はお休みになっていますね。」
「介護現場は穴を開ける職員を信用してくれないからな・・仕事する必要あるかな?」
そう言って床板に手をかけようとした瞬間、俺の視界がぐにゃりと歪んだ。部屋のクッションフロアの木目がうねり、一点に集束していく。
『よく目を凝らして、見てください、マスター』
アドバイザーの声が、冷徹に響く。
『今、この世界で起きているあなたの状況を、あなたの『たま』も、家族の『たま』も、誰一人として読めていません。完全に盲点になっています。なぜならマスター、あなたは世界の再生装置そのものをここに引っ張り込んできた。マスター現時間をタイムラインに保管することで更に過去に移動することが可能となります。』
何もないはずの空間。そこに、目を凝らせば凝らすほど、はっきりと「それ」が形を成した。
あの2026年の部屋の壁に埋め込まれていた、昭和初期の古ぼけた、縦型の白いスイッチ。それが、空間にぽつんと浮いている。されによく見ると大きなスイッチの下に小さなスイッチが無数に点在している。
これがたまたちのコントロールボックスみたいなものか・・
見つめていると、触れなくても感覚で理解できた。これは世界を物理的に書き換えるマスターキーだ。
このスイッチをパチンと上に弾けば、時間をさらに先へ――「早送り」して、年末の佳枝の妊娠や、来年4月29日の結婚式まで一瞬でジャンプできる。逆に下に叩きつければ、時間を「巻き戻し」して、昨日の競馬を別の買い方でやり直すことすらできる。今の「3億4,000万円をボストンバッグに完璧に仕留めた良い結果」のままタイムラインを固定して、このスイッチを宝箱のように保管することだって、すべては俺の自由だ。
「やり直す必要は、もうないな」
俺はニヤリと笑った。オッズを壊さず、税金の網も潜り抜けたこの3億4,000万は、100点満点の成果だ。
「この最高の『良い結果』をキープしたまま、俺は次のステージへ行く。おい、アドバイザー。準備はええな?」
『いつでもどうぞ、マスター。お望みの未来へ、世界をハッキングしましょうww』
俺はしっかりとボストンバッグを肩に担ぎ直し、空間に浮かぶ白いスイッチへと手を伸ばした。
お金の心配も、防衛も、税金対策も、たまどもの目眩ましもすべて完璧にクリアした。3億4,000万円の絶対的な盾と、時間を操るスイッチを手にした信田誠司が、これからやるべきことはただ一つ。
同じ1998年の空の下で、何も知らずに、56歳の社会的絶望へ続く介護職のルートを自ら選ぼうとしている――『22歳の過去の自分自身』。
「お前のその選択肢、俺の意志でへし折ってやる」
「まあ仕事はこの際ええは、信用は失わないようまた考えよう。万能感は素晴らしいね。」




