第七十一話 追う者、追われる者
町を出たアルジェナは、黒い翼を見失わないように走っていた。
前方を歩く女との距離は、少しずつ縮まっている。
しかし、追いついたところで何ができるのか。
アルジェナ自身、それを分かっていなかった。
あの女の力は、人間のものとは思えないほど強大だった。
ガルドとエレナの二人がかりでも止められなかった相手に、自分一人で勝てるはずがない。
それでも、足を止めるわけにはいかなかった。
女が向かっている先には、リリアがいる。
あの女が求めているのは、リリアの加護だ。
その目的が果たされたとき、リリアがどうなるのか。
アルジェナには分からなかった。
分からないからこそ、見過ごすことはできなかった。
◇
女は、歩みを止めなかった。
町を離れても、肩の傷は塞がっていない。血が衣服を染めていたが、気にする様子はなかった。
痛みよりも、意識を向けるべきものがある。
神の加護。
遠くに感じる、あの少女の気配。
「……まだ、遠いわね」
女は小さく呟いた。
避難する人々の姿は、まだ見えない。
それでも、加護の気配は感じられる。
間違いない。
あの少女は、この先にいる。
「もう少し……もう少しで……」
声がかすれる。
長い間、望み続けてきたもの。
手を伸ばしても届かなかったもの。
それが、ようやく手に入るかもしれない。
女の足取りが速くなった。
◇
アルジェナは、女の様子をうかがいながら距離を保っていた。
不用意に近づけば、気づかれる。
いや、すでに気づかれている可能性もあった。
あの力を持つ相手が、自分の接近に気づいていないと考えるほうが不自然だ。
それでも、女は振り返らない。
ただ、まっすぐ前へ進んでいる。
アルジェナは周囲を見渡した。
道の脇には木々が並び、その先には緩やかな丘が続いている。町から離れたことで、建物はほとんど見えなくなっていた。
身を隠せる場所はある。
だが、隠れて追いかけるだけでは、女がリリアにたどり着くのを防げない。
どうする。
正面から立ちふさがっても、押し通られる可能性が高い。
ならば、少しでも時間を稼ぐ方法を考えるべきか。
アルジェナは腰の剣に触れた。
父の形見の剣と、ヴァルドに鍛えられた剣。
今の自分にできることは、限られている。
それでも、何も考えずに突っ込むつもりはなかった。
勝てない相手と戦うことと、勝てない相手を前に何もできないことは、同じではない。
アルジェナはそう考え、再び女の後を追った。
◇
しばらく進んだところで、女が足を止めた。
アルジェナも反射的に立ち止まり、木々の陰へ身を寄せる。
女は振り返らなかった。
ただ、首をわずかに傾けている。
「……誰かいるの?」
アルジェナの呼吸が止まった。
気づかれたか。
剣の柄に手をかける。
だが、女はすぐに興味を失ったように前を向いた。
「……気のせいね」
再び歩き出す。
アルジェナは、すぐには動かなかった。
あの女が何を感じ取ったのかは分からない。
けれど、次は見逃してもらえるとは限らない。
追跡を続けるなら、距離と動きに気を配る必要がある。
アルジェナは慎重に木々の陰から出た。
そして、女が進んだ道の先を見つめる。
遠くに、人影が見えた。
避難している人々だ。
その列の中に、リリアがいるかどうかまでは分からない。
しかし、女の歩く速度が明らかに上がった。
「……見つけたのね」
アルジェナは呟いた。
女には、加護を感じ取る力がある。
姿が見えなくても、リリアの居場所を探り当てられるのだろう。
これ以上、近づかせるわけにはいかない。
アルジェナは木々の陰から飛び出した。
「待って!」
声が、道に響いた。
女の足が止まる。
ゆっくりと振り返った顔に、見覚えのある赤い瞳が浮かんでいた。
「……あなた」
女はアルジェナを見て、わずかに眉を寄せた。
「どうして、ここにいるの?」
「それはこっちの台詞だよ。町をあれだけ壊しておいて、今度は何をするつもり?」
「決まっているでしょう」
女は、アルジェナの背後に目を向けた。
その視線の先には、避難する人々がいる。
「私は、あの子の加護をもらいに行くの」
「リリアを、どうするつもり?」
女は答えなかった。
その沈黙が、アルジェナの警戒を強める。
「加護が欲しいなら、本人に何をするのか説明して。何も知らない相手を追い回すなんて、まともじゃない」
「……説明?」
女は、理解できないものを見るようにアルジェナを見つめた。
「どうして、そんなことをする必要があるの?」
その言葉に、アルジェナは一瞬、返す言葉を失った。
「私は帰りたいの。白い翼で、あの場所へ」
女は淡々と続ける。
「そのために必要なのが、あの子の加護。それだけよ」
「だからって、リリアがどうなってもいいの?」
「……あなた、まだそんなことを言っているのね」
女の表情が険しくなった。
「私は、帰らなければならないの。あなたたちには分からないでしょうけど」
「分からないよ。何も話してくれないんだから」
「なら、分からないままでいいわ」
女の背中で、黒い翼がわずかに動いた。
「どいて。今度は、あなたに構っている暇はないの」
アルジェナは剣を抜かなかった。
ここで戦えば、勝ち目はない。
それでも、道を譲るつもりもなかった。
「……行かせない」
女の目が細くなる。
「あなたでは、私を止められないわ」
「そうかもしれない」
アルジェナは、まっすぐに女を見据えた。
「でも、何もしないで見送るつもりもない」
しばらく、二人の間に沈黙が落ちた。
やがて女は、小さく息を吐いた。
「……本当に、面倒な子」
黒い力が、女の周囲に集まり始める。
アルジェナは剣の柄を握った。
勝てないことは分かっている。
それでも、ここで時間を稼げれば。
リリアたちが、さらに遠くへ避難できるかもしれない。
女が一歩、踏み出した。
「邪魔をするなら……今度こそ、容赦しないわ」
アルジェナは身構えた。
ベルネア町から続く戦いは、まだ終わらない。
そして今度は、守るべき人々がすぐ近くにいた。




