第七十話 黒い翼を追って
黒い光が消えたあと、通りには土煙だけが残っていた。
砕けた石畳。崩れ落ちた建物。壁を失った家屋からは家具や食器が散乱し、商店の軒先には、踏み潰された果物や野菜が転がっている。
荷車は横倒しになり、荷台に積まれていた荷物は瓦礫の下に埋もれていた。
かつて人々の声で賑わっていた大通りに、もう市場の活気はない。
聞こえるのは、負傷者のうめき声と、家族を探す人々の声。そして、崩れた建物の隙間から吹き抜ける風の音だけだった。
ベルネア町は、見る影もないほど傷ついていた。
◇
ガルドは、石畳の上に倒れていた。
手には、まだ擬聖剣が握られている。
その少し離れた場所には、エレナも倒れていた。
二人とも意識はない。
黒い力をまともに受けたわけではなかった。それでも、積み重なった負傷に加え、最後の衝撃を受けた身体は限界を超えていた。
すぐそばでは、騎士たちが二人のもとへ駆け寄っていた。
「ガルド様! エレナ様!」
呼びかけても、返事はない。
「こちらは私たちに任せろ! 早く治療できる場所へ運ぶんだ!」
騎士たちは二人を慎重に担ぎ上げた。
町を守るために戦い続けた二人は、もう動けなかった。
そして、二人を倒した女は、すでにその場を離れようとしていた。
◇
アルジェナは、救助した住民を騎士へ引き渡したところだった。
「この人をお願いします。まだ動けない人が残っているかもしれません」
「ああ。君も早く避難を――」
騎士の言葉が途切れた。
町の向こうに、黒い翼が見えたからだ。
女が歩いている。
崩れた建物にも、道端に座り込む負傷者にも目を向けず、まっすぐ町の外へ向かっていた。
アルジェナの表情が強張る。
「……あの女」
ガルドとエレナはどうなったのか。
戦いが終わったのか、それとも二人が倒されたのか。
ここからでは分からない。
ただ一つ、確かなことがあった。
女はまだ、諦めていない。
リリアの加護を求めている以上、町を離れた先で何をするつもりなのかも分からなかった。
「すみません!」
アルジェナは、そばにいた騎士へ声をかけた。
「私は、あの女を追います。残っている人たちの救助をお願いします」
「待て! 君一人で何をするつもりだ!」
「……止められるかどうかは、分かりません」
アルジェナは正直に答えた。
あの女との力の差は、身をもって知っている。
正面から戦えば、勝てる見込みはほとんどない。
それでも、リリアが狙われていると分かっていて、何もしないわけにはいかなかった。
「ですが、放っておくこともできません」
騎士は言葉を失った。
アルジェナは、それ以上説明しなかった。
町には、まだ助けを必要とする人々がいる。
だが、救助には騎士たちも残っている。自分一人がここに留まったところで、すべてを救えるわけではない。
それに、あの女が町の外へ向かっている今、追える者が追わなければ、リリアが危険にさらされる。
アルジェナは剣の柄を握り直した。
そして、走り出した。
◇
門へ向かう道も、無事ではなかった。
石壁には亀裂が走り、道の一部は崩れている。道端には避難の途中で置き去りにされた荷物が散らばり、倒れた看板が通行の邪魔になっていた。
アルジェナは瓦礫を避けながら、女の背中を追う。
銀色の髪が風に揺れた。
遠ざかっていく黒い翼を見失わないよう、足を速める。
町の外へ出れば、助けを必要とする住民は減る。
だが、その先にはリリアがいる。
アルジェナは歯を食いしばった。
今の自分に、あの女を止める力があるとは思えない。
それでも、リリアを守るためにできることがあるはずだ。
師匠から教わった剣も、生き延びるための知恵も、まだ使い切ってはいない。
勝てない相手だからといって、何もせずに諦めるつもりはなかった。
◇
ベルネア町の外では、避難する人々が列を作っていた。
リリアは、負傷者の様子を確かめながら歩いていた。
町から聞こえる音は、先ほどよりも少なくなっている。
けれど、それが何を意味するのかは分からなかった。
戦いが終わったのか。
アルジェナは無事なのか。
確かめる手段はない。
「……アルジェナ」
不安を押し込めるように、リリアは小さく名前を呼んだ。
彼女はまだ知らない。
町を壊した黒い翼が、自分の加護を求めて近づいていることを。
そして、その翼を追って、アルジェナが町を離れたことも。
◇
女は、ベルネア町の門を抜けた。
背後には、壊れた町が広がっている。
だが、振り返ることはなかった。
女にとって、あの町で起きたことは、望みを果たすまでの障害にすぎない。
「……もう少し」
遠くに感じる加護の気配を頼りに、女は歩みを速めた。
白い翼に戻る。
ただ、それだけのために。
「今度こそ……帰るの」
黒い翼が広がる。
その背後から、アルジェナが迫っていた。
ベルネア町の悲劇は、まだ終わっていない。




