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第七十二話 折れゆく剣

 黒い力が、女の手元で渦巻いていた。


 アルジェナは剣の柄を握り、相手の動きを見極めようとしていた。


 町で戦ったとき、彼女は一度も女の攻撃を正面から受け止められなかった。


 今も、状況は変わらない。


 正面から戦えば負ける。


 それでも、後ろには避難を続ける人々がいる。


 ここで女を通せば、彼らが危険にさらされるかもしれない。


「……どいてくれないかしら」


 女が言った。


「何度も言わせないで。私は、あの子のところへ行かなければならないの」


「だったら、どうしてリリアの加護が必要なのか教えてよ」


「あなたに話す必要はないわ」


「リリアにだって、何も説明してないんでしょ?」


 女の眉が動いた。


「……うるさいわね」


 黒い力が膨れ上がる。


 アルジェナは身構えた。


 次の瞬間、女の腕が振られた。


 黒い奔流が、地面を削りながら迫ってくる。


 アルジェナは横へ跳んだ。


 直撃は避けた。


 だが、すぐ脇を通り抜けた力が石畳を砕き、飛び散った破片が頬をかすめる。


 着地した足が滑った。


 体勢を立て直す間もなく、女が距離を詰めてくる。


 速い。


 アルジェナは剣を振るった。


 刃が女へ届く直前、黒い力が壁のように立ちはだかった。


 剣先が弾かれる。


 その反動で腕が痺れた。


「無駄よ」


 女の手が、アルジェナへ向けられる。


 彼女はとっさに身をひねった。


 黒い力が肩をかすめ、身体を横へ吹き飛ばす。


「っ……!」


 地面を転がり、どうにか起き上がる。


 肩が痛む。


 それでも、腕は動いた。


 アルジェナは剣を構え直した。


 今の攻防だけで、はっきりしたことがある。


 普通に戦っても勝てない。


 攻撃を避け、隙を探し、少しずつ距離を稼ぐ。


 それしかない。


「……まだやるの?」


 女は心底うんざりした様子だった。


「あなたでは私を止められない。どうして、それが分からないの?」


「分かってるよ」


 アルジェナは答えた。


「でも、ここを通すわけにはいかない」


「どうして?」


「あなたが、リリアに何をするか分からないから」


 女はしばらくアルジェナを見つめていた。


 やがて、表情から感情が消えた。


「……そう」


 黒い翼が、ゆっくりと広がる。


「なら、あなたから先に消えて」


     ◇


 女が両腕を広げた。


 周囲の黒い力が、一斉に動き出す。


 アルジェナは地面を蹴った。


 その場に留まれば、攻撃を避けきれない。


 女の側面へ回り込み、剣を振るう。


 しかし、黒い翼が刃を受け止めた。


 硬い感触が、剣越しに伝わる。


 女は振り返りもしなかった。


「邪魔だと言っているでしょう!」


 翼が大きく動いた。


 アルジェナは剣を引き、後方へ跳ぶ。


 直後、黒い力が地面を走った。


 逃げ道を塞ぐように石畳が砕け、アルジェナの足元が崩れる。


 体勢が傾いた。


 その隙を、女は見逃さなかった。


 黒い塊が、アルジェナの胸元へ迫る。


 避けきれない。


 アルジェナは剣を斜めに構えた。


 黒い力が刃にぶつかる。


 凄まじい衝撃が腕を駆け抜けた。


「ぐっ……!」


 足が地面にめり込む。


 剣が軋んだ。


 鍛えられた鋼が、黒い力に押し負けていく。


 アルジェナは歯を食いしばり、両手で柄を握った。


 ここで押し切られれば、背後にいる人々まで攻撃が届く。


 それだけは避けなければならない。


 だが、刃に走った亀裂は、止まらなかった。


 甲高い音が響く。


 剣身に、一本の亀裂が走った。


「……っ!」


 アルジェナが目を見開いた瞬間、黒い力が刃を砕いた。


 剣身が折れ、破片が宙を舞う。


 勢いを失ったアルジェナの身体は、黒い力に弾き飛ばされた。


 地面へ叩きつけられ、息が詰まる。


 手元には、折れた剣の柄だけが残っていた。


     ◇


 しばらく、アルジェナは動けなかった。


 身体を起こそうとすると、肩に痛みが走る。


 それでも、顔を上げた。


 女は、もうアルジェナを見ていなかった。


「……ようやく、分かったでしょう?」


 淡々とした声だった。


「あなたでは、私を止められないの」


 女は歩き出す。


 アルジェナが立ちはだかっていた道を、そのまま通り過ぎようとしていた。


「待って……!」


 アルジェナは地面に手をつき、身体を起こした。


 折れた剣を握りしめる。


 もう、使い物にはならない。


 それでも、手放せなかった。


 ヴァルドとの修行で、何度も振るった剣だった。


 上手く扱えず、叱られたこともある。


 何度も握り直し、ようやく自分のものにしてきた剣だった。


 それが、折れた。


 自分の力が足りなかったから。


 目の前の相手が、それほどまでに強かったから。


 理由は分かっている。


 けれど、ここで終わるわけにはいかなかった。


 アルジェナは、腰に残るもう一本の剣へ手を伸ばしかけた。


 父の形見。


 旅の間も、簡単には抜かなかった剣だ。


 だが、すぐに手を止めた。


 今の自分に、何ができるのか。


 折れた剣を握る手が震える。


 女は、すでに数歩先へ進んでいた。


     ◇


「……あの子」


 女の足が止まった。


 避難する人々の姿が、道の先に見えていた。


 その中に、リリアがいる。


 女は加護の気配を確かめるように、目を細めた。


「やっと、見つけた……」


 声に、安堵が混じった。


 長く求め続けてきたものが、ようやく手の届くところにある。


 もう、邪魔をする者はいない。


 そう思った女の背後で、アルジェナが立ち上がった。


 足元はふらついている。


 折れた剣を握ったまま、女を見据えていた。


「……行かせない」


 女が振り返る。


 その顔に、初めて明確な怒りが浮かんだ。


「あなた……!」


 黒い力が再び集まり始める。


 アルジェナは、折れた剣を構えた。


 勝てる見込みなどない。


 それでも、ここで退けば、リリアのもとへ女がたどり着く。


 それだけは、認められなかった。


 遠くでは、避難する人々が歩き続けている。


 リリアはまだ、何が起きているのか知らない。


 その無防備な背中へ、黒い翼が迫ろうとしていた。

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