第六十六話 理性の崩壊
ガルドの剣が、黒い力を弾き返した。
炎が散り、砕けた石畳が足元を転がっていく。
「……避難は、かなり進んだようね」
周囲の気配を探りながら、エレナが呟いた。
通りを埋めていた住民の姿は、すでにほとんどない。
騎士たちや神官たちの働きによって、多くの住民は町の外へと避難していた。負傷者の搬送や、取り残された者の捜索は続いているものの、戦闘区域から人の姿は減りつつある。
「なら、そろそろ攻めに転じるぞ」
ガルドは剣を構え直した。
これ以上、相手の好きにさせるわけにはいかない。
目の前の存在は、二人の攻撃を防ぎながら、少しずつ町の奥へ進もうとしている。
その先には、まだ避難を終えていない人々がいる。
ここで食い止めなければ、被害はさらに広がるだろう。
「ガルド、私が翼の動きを封じる。隙ができたら、一気に踏み込んで」
「分かった。頼むぞ」
エレナが静かに息を吸った。
風が足元を走り、二人の周囲を巡り始める。
対する相手は、二人を見据えたまま動かなかった。
「……まだ、邪魔をするのね」
「当然だ。お前をこの先へ行かせるわけにはいかない」
「私には、やらなければならないことがあるの」
「そのために町を壊すというのなら、なおさら止めるまでだ」
ガルドの言葉に、彼女はわずかに眉を寄せた。
「……分からない人たち」
次の瞬間、エレナが動いた。
左右から吹き込んだ風が、黒い翼を挟み込むように渦を巻く。
一方向から押すのではない。
上下から異なる流れをぶつけ、翼が閉じる動きを妨げる。
黒い翼が大きく揺れた。
「今よ!」
ガルドは地面を蹴った。
炎をまとった剣が、正面から迫る。
黒い翼が閉じようとするが、エレナの風がその動きを押し留めた。
刃が翼の隙間を抜け、肩口へと迫る。
しかし、届く寸前。
黒い力が弾けた。
ガルドは剣を立て、衝撃を受け止める。
炎が散り、体が後方へ押し戻された。
「ぐっ……!」
石畳を滑りながらも、ガルドは踏みとどまった。
エレナも風を切り替え、すぐさま体勢を立て直す。
「翼だけじゃないのね……!」
「どうやら、そうらしいな」
ガルドは剣を握り直した。
黒い翼は、ただの盾ではなかった。
翼の周囲には黒い力がまとわりつき、攻撃を受ける瞬間には、その力が刃や風を押し返していた。
翼の動きを封じるだけでは足りない。
黒い力そのものを突破しなければ、攻撃は届かないのだ。
「でも、反応は遅れたわ」
エレナは相手から目を離さずに言った。
「翼を動かす瞬間、黒い力の流れが変わる。完全には読めないけれど……」
「そこを狙うか」
「ええ。あなたが攻め続けてくれれば、隙を作れるはずよ」
「任せろ」
ガルドが前へ出た。
炎の斬撃を繰り出す。
黒い翼が受け止めた。
続けざまに剣を振るうが、今度は翼の外側に黒い力が集まり、刃を押し返す。
ガルドは攻撃を止めず、間合いを詰めていく。
一撃、二撃。
炎が散るたび、黒い力が膨らんでは収縮する。
その流れを、エレナは風越しに感じ取っていた。
「……やっぱり」
黒い力が集まる瞬間、翼の周囲にわずかな偏りが生じる。
翼で防ぎ、黒い力で押し返す。
その二つを同時に行うために、力の流れが一瞬だけ乱れているのだ。
だが、それだけでは決定的な隙にはならない。
ガルドの攻撃が続く限り、相手も防御を維持している。
「ガルド! 一度、距離を取って!」
ガルドは即座に後退した。
彼女は追撃するように腕を振るう。
黒い力が地面を走った。
エレナが風を放ち、軌道を逸らす。
その間に、ガルドは剣を構え直した。
「……何をするつもり?」
彼女の声に、苛立ちが混じる。
「さあな」
ガルドは答えず、再び踏み込んだ。
炎の斬撃が迫る。
彼女は黒い翼を広げ、迎え撃とうとした。
その瞬間、エレナの風が横から吹きつけた。
翼を押さえ込むためではない。
黒い力の流れ、その側面を狙った風だった。
集まりかけていた力が乱れ、翼の周囲に生じていた黒い光が一瞬だけ薄れる。
「今だ、ガルド!」
ガルドは迷わなかった。
相手が防御を整えるより早く、踏み込みの勢いを乗せて剣を振り抜く。
炎をまとった刃が、黒い翼の隙間を抜けた。
そして――
肩口を斬った。
「……っ!」
彼女の体が、わずかに傾いた。
淡い髪が揺れ、その肩から赤い血が流れる。
初めて、ガルドの剣が届いたのだ。
ガルドはすぐに距離を取り、剣を構え直した。
エレナも風を保ったまま、相手の動きを警戒する。
二人の連携が、確かな成果を上げた。
だが、喜ぶ余裕はなかった。
「……痛い」
彼女は、自分の肩に手を当てた。
指先に付着した血を見つめる。
その表情から、感情が消えていった。
「私を……傷つけたの?」
ガルドは剣を構えたまま答えた。
「これ以上、町を壊させるわけにはいかない」
彼女は顔を上げた。
赤い瞳が、ガルドを捉える。
「あなたたちが……」
声が震えた。
「あなたたちが邪魔をするから……!」
周囲の空気が、歪み始めた。
黒い力が肩の傷を覆い、背中から漏れ出していく。
「私は帰らなきゃいけないのに……!」
彼女の声が大きくなる。
「白い翼で、帰らなきゃいけないの!」
黒い力が地面を這った。
石畳が砕け、建物の壁に亀裂が走る。
エレナはすぐに風を集めた。
「ガルド、離れて! 様子がおかしい!」
「分かっている!」
二人が距離を取る。
しかし、彼女は追ってこなかった。
その場に立ち尽くし、頭を押さえている。
「神の加護を集めれば……帰れる……」
自分に言い聞かせるように、何度も呟く。
「そうでしょう……? だから、集めなきゃ……」
赤い瞳が揺れた。
「なのに……どうして……」
彼女は二人を見た。
「どうして、あなたたちは私の邪魔ばかりするの!」
黒い翼が開いた。
今度は、翼の周囲に力を集める様子すらなかった。
黒い力が全身から溢れ出し、周囲へと広がっていく。
地面が砕ける。
壁が崩れる。
通りに残っていた瓦礫が、衝撃に押されて吹き飛ばされた。
「……力の制御を失っているの?」
エレナが呟いた。
「いや……」
ガルドは剣を握りしめた。
「制御する気がないんだ」
彼女の視線は、すでに二人を見ていなかった。
町の外へ続く道。
その先にいる、求める加護の持ち主。
「……あの子」
赤い瞳が、遠くを見据えた。
「神の加護……。あの子の加護を……」
リリアの気配は、まだ感じられる。
しかし、遠ざかっている。
彼女の顔が歪んだ。
「行かせない……!」
黒い力が再び膨れ上がる。
「今度こそ……帰るの……!」
ガルドは剣を構え直した。
エレナも風をまとい、相手を見据える。
もう、先ほどまでの戦い方は通用しない。
二人の攻撃を防ぐために力を整える必要すらないのだ。
ただ、溢れ出す力を叩きつければいい。
その圧倒的な力を前に、ガルドは初めて相手をこう認識した。
悪魔。
人の理屈も、説得も、通じない。
町を守るために立ちはだかる自分たちを、ただ排除すべき障害としか見ていない。
「……エレナ」
「ええ。分かっているわ」
二人は剣と風を構えた。
ここで退けば、町の外にいる人々まで危険にさらされる。
それだけは、何としても避けなければならない。
黒い力が再び膨れ上がった。
彼女は、二人を見据えたまま呟いた。
「邪魔をするなら……消えて」
次の瞬間、黒い力が周囲を呑み込んだ。
炎が散り、風が乱れ、石畳が砕け散る。
ガルドとエレナは、それぞれの力を振り絞って衝撃に耐えた。
しかし、押し寄せる力は止まらない。
彼女の周囲で、建物が次々と崩れていく。
もう、戦いの余波を抑える余裕はなかった。
ただ一人の願いと執念が、町そのものを破壊し始めていた。
ベルネア町の悲劇は、ここからさらに深くなっていく。




