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第六十五話 崩れゆく防衛線

 女の背中から伸びる黒い翼が揺れた。


 ガルドとエレナは、女の前に立ちはだかり、進路を塞いでいた。


 女の赤い瞳は、二人の背後へと向けられている。


 避難する人々が向かった先。


 その先にいる誰かを、探しているのだ。


「……行かせるわけにはいかないな」


 ガルドは擬聖剣を握り直した。


「ええ。あの人たちを追わせるわけにはいかないわ」


 エレナが風をまとわせた手を前に出す。


 女が一歩踏み出した。


 ガルドは即座に距離を詰め、炎をまとった剣を振り下ろす。


 黒い翼が刃を受け止めた。


 その瞬間、エレナが側面から風を放つ。


 風が黒い羽根を削り、欠片が宙を舞った。


 しかし、女は止まらなかった。


 翼を振るう。


 ガルドは咄嗟に剣を構えた。


 直後、押し寄せた力によって身体が後方へ弾かれる。


「ガルド!」


 エレナが風を操り、彼の身体を支えた。


 ガルドは地面を踏みしめ、どうにか体勢を立て直す。


「助かった、エレナ」


「礼はあとよ。来るわ!」


 女の周囲に、再び黒い力が集まり始めた。


 黒い力が地面を走り、石畳を砕いていく。


「全員、建物から離れろ!」


 ガルドが声を張り上げた。


 近くにいた騎士たちが住民を誘導し、崩れかけた壁から遠ざける。


 エレナは風を操り、落下する瓦礫を可能な限り受け流した。


 それでも、すべてを防ぐことはできなかった。


 黒い力が石壁を砕き、破片が通りへと降り注ぐ。


 騎士たちは住民をかばいながら、危険な場所から離れようとした。


 その間にも、女は前へ進もうとしていた。


 二人が攻撃を仕掛ければ、黒い翼がそれを防ぐ。


 二人が進路を塞げば、女は力ずくで押し通ろうとする。


 まるで、目の前にいる人間など、障害物でしかないかのようだった。



     *



 かつて人々で賑わっていたベルネア町の大通りは、もはや見る影もなかった。


 商店の軒先は崩れ、売り物だった果物や野菜が、砕けた木箱とともに石畳へ散乱している。


 建物の壁には大きな亀裂が走り、窓は割れ、屋根の一部が道路へと崩れ落ちていた。


 横倒しになった荷車。


 踏み荒らされた露店の商品。


 逃げる際に落とされた荷物。


 それらが瓦礫に混じり、かつての賑わいを無残に塗り潰していた。


 つい先ほどまで、ここには人々の日常があった。


 商人が客を呼び込み、旅人が宿を探し、子供たちが親の後ろを歩いていた。


 明日も同じように朝が来ると、誰もが疑っていなかったはずだった。


 だが、今聞こえてくるのは、助けを求める声と、建物が崩れる音ばかりだった。


「お父さん! どこにいるの!」


 瓦礫の前で、少女が声を張り上げていた。


 傍らの女性が少女を抱き寄せ、必死になだめている。


 少し離れた場所では、足を負傷した男性を、二人の住民が肩を貸して運んでいた。


 騎士たちは避難誘導に追われ、神官たちは運び込まれる負傷者の手当てに追われている。


 それでも、救助の手は足りていなかった。


 瓦礫の下に人が残されていても、すぐに助けに向かえるとは限らない。


 崩れかけた建物に近づけば、救助する側まで巻き込まれる危険がある。


 誰もが焦っていた。


 助けたいのに、すべての人を助けられるわけではない。


 その現実が、町のあちこちに突きつけられていた。


 そして、黒い力が地面を走るたび、新たな亀裂が石畳に刻まれていく。


 ようやく確保した避難経路が塞がれ、住民たちは別の道を探さなければならなくなった。


 戦いは、町の中心だけで起きているわけではない。


 その余波は、逃げ惑う人々のすぐそばにまで及んでいた。



     *



 アルジェナは、崩れた建物の前で騎士たちとともに救助を続けていた。


「そちらの木材を動かします! 合図したら、ゆっくり持ち上げてください!」


 瓦礫の下に人が取り残されている可能性がある。


 無理に動かせば、残った建物まで崩れるかもしれない。


 周囲の状況を確かめながら、少しずつ障害物を取り除いていく。


「今です!」


 木材が持ち上がり、狭い隙間ができた。


 アルジェナは中を覗き込む。


「誰かいますか!」


 返事はなかった。


 だが、奥からかすかな物音が聞こえた。


「……いますね」


 アルジェナは騎士へ目を向けた。


「私が入ります。入口を支えていてください」


「分かった。危険を感じたらすぐに戻れ!」


「はい!」


 アルジェナは身を屈め、建物の中へと入った。


 内部は薄暗く、床には家具や木片が散乱していた。


 慎重に奥へ進むと、倒れた棚のそばに男性が座り込んでいた。


 足を挟まれている。


「今、助けます!」


 アルジェナは男性の状態を確かめ、棚を持ち上げようとした。


 一人では難しい。


 外にいる騎士へ声をかけ、協力してもらう必要があった。


 時間をかけて棚を持ち上げ、男性の足を引き抜く。


「立てますか?」


「……ああ、何とか」


「無理はしないでください。肩を貸します」


 アルジェナは男性を支え、建物の外へと連れ出した。


 待機していた騎士が、すぐに男性を引き受ける。


「神官のところへ運ぶ。君もよくやった」


「ありがとうございます。でも、まだ中に人が残っていないか確認しないと」


「こちらで確認する。君は別の場所を頼む」


 騎士の言葉に、アルジェナは頷いた。


 助け出せた人がいる。


 それは確かなことだった。


 けれど、町の中心から響く衝撃は止まっていない。


 アルジェナはそちらへ目を向けた。


 遠くの建物の向こうに、黒い光が立ち上っている。


 そのたびに、町のどこかで新たな被害が生まれているのだろう。


 アルジェナは剣の柄に手を置いた。


 戦場へ戻るべきだろうか。


 自分の剣では、あの女に届かなかった。


 ガルドとエレナでさえ、決定的な一撃を与えられていない。


 今、自分が加わったところで、状況を変えられる保証はなかった。


 それでも、二人だけに任せていていいのだろうか。


「……今できることをやるしかない」


 アルジェナは自分に言い聞かせるように呟いた。


 助けを求めている人がいる限り、ここを離れるわけにはいかない。


 そして、戦いを止める方法を探すことも諦めるつもりはなかった。


 アルジェナは次の救助場所へと走り出した。



     *



 町の中心では、ガルドとエレナが女の攻撃を受け止めていた。


 炎をまとった擬聖剣が黒い翼にぶつかり、火花が散る。


 その側面から、エレナの風が吹き抜けた。


 風が羽根を削り、女の身体をわずかに揺らす。


 しかし、女は二人の攻撃を受けながらも、少しずつ進路を変えていた。


 その先には、避難する人々が向かった通りがある。


「……あの女、私たちを倒すことよりも、先へ進むことを優先しているわ」


 エレナが風を操りながら言った。


「ああ。こちらを無視してでも、目的の相手を探すつもりなのだろう」


 ガルドは女の動きを見極めようとしていた。


 攻撃を防ぐことばかりに意識を向けていては、進路を塞ぎきれない。


 かといって、無理に攻めれば、その隙に避難路へ向かわれる。


 どちらを選んでも、危険があった。


「ガルド。私が風で動きを制限するわ。その間に進路を塞いで」


「分かった。無理はするなよ」


「あなたもね」


 エレナが両手を広げた。


 風が地面を這うように広がり、女の周囲を取り巻く。


 黒い翼が動く。


 風が乱れ、エレナの髪が大きく揺れた。


 それでも、彼女は風を維持し続けた。


「今よ!」


 ガルドが踏み込む。


 炎をまとった擬聖剣が、女の進路を遮るように振るわれた。


 女は翼で刃を受け止めた。


 その衝撃で、ガルドの腕に重みがのしかかる。


 それでも彼は、退かなかった。


 女の足が止まる。


 ほんの一瞬だった。


 だが、エレナが風を強めるには十分な時間だった。


 風が女の身体を横から押し、進路を町の中心側へと戻そうとする。


 女の表情が、初めて明確に歪んだ。


 黒い力が膨れ上がる。


 ガルドは危険を察し、剣を引いて距離を取った。


「エレナ、下がれ!」


 二人が離れた直後、黒い力が周囲へと広がった。


 風が押し返され、地面の石畳が砕ける。


 エレナは体勢を崩しかけたが、すぐに風を操って立て直した。


 ガルドもまた、剣を支えにして踏みとどまる。


 その衝撃は、周囲の建物にも及んでいた。


 すでに亀裂の入っていた壁が崩れ、屋根の一部が通りへ落ちる。


 近くにいた騎士たちが住民を誘導し、危険な場所から遠ざけていく。


 女は、その光景に目を向けなかった。


 町が壊れようと、人々が逃げ惑おうと、彼女の目的は変わらない。


 避難した人々の先にいる、あの子。


 その加護を手に入れることだけが、女の頭を占めていた。


「……もう、待てないの」


 女が呟いた。


 黒い翼が、ゆっくりと広がる。


 その周囲に、これまで以上に濃い黒い力が集まり始めた。


 ガルドは剣を構え、エレナも風を集める。


 二人とも理解していた。


 次の攻撃は、これまで以上に危険なものになる。


 それでも、ここを譲ることはできなかった。



     *



 町の外へ続く道では、リリアが神官たちとともに避難を続けていた。


 列の進みは遅かった。


 負傷した人や、歩くのが難しい老人がいる。


 神官たちは一人ひとりに気を配りながら、少しずつ前へ進んでいた。


 リリアもまた、老人の腕を支えていた。


「もう少しですよ。ゆっくり進みましょう」


「すまないね……」


「気にしないでください」


 そう答えながら、リリアは町の方角を見た。


 遠くから、再び大きな衝撃音が響く。


 胸が締めつけられるような不安が湧き上がった。


 アルジェナは、まだ町に残っている。


 負傷者を助けるために。


 自分が避難するように言ったのは、アルジェナ自身だ。


 その言葉に従うことが、今は必要なのだと分かっている。


 それでも、心配せずにはいられなかった。


「……アルジェナ」


 小さく呟く。


 今すぐ戻って、力になりたい。


 けれど、自分が戻れば、アルジェナはまた自分を守ろうとするだろう。


 リリアは拳を握った。


 自分にできることを、間違えないようにしたい。


 誰かを助けたいという気持ちだけで、周囲を危険にさらすわけにはいかない。


「リリアさん、こちらです!」


 神官の声が聞こえた。


「はい!」


 リリアは前を向き、再び歩き出した。



     *



 黒い力が、町の中心で渦巻いていた。


 ガルドとエレナは、女の攻撃を警戒しながら、少しずつ位置を変えていた。


 避難路を背にしてはならない。


 女の進路を塞ぎながら、周囲の建物への被害も抑えなければならない。


 簡単なことではなかった。


 女が動く。


 二人が応じる。


 そのたびに、石畳が砕け、瓦礫が散らばる。


 やがて、女の視線が再び町の外へと向けられた。


「……あの子」


 赤い瞳が細められる。


「もう、遠くへ行ってしまう……」


 その呟きとともに、黒い力がさらに強まった。


 ガルドは剣を握り締めた。


 エレナもまた、風をまとわせる。


 二人は、迫り来る攻撃に備えた。


 その頃、アルジェナは町の別の場所で、次の救助へと向かっていた。


 リリアは、神官たちとともに町を離れようとしていた。


 それぞれが、自分にできることを続けている。


 だが、女の執着は、もはや二人の聖職者だけで抑えられるものではなくなりつつあった。

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