第六十四話 迫る黒き翼
黒い翼が、ゆっくりと羽ばたいた。
そのたびに、女の周囲に漂う黒い力が揺らめく。
ガルドは擬聖剣を構え、エレナとともに相手の動きを窺っていた。
これまで何度も攻撃を仕掛けた。
正面からの斬撃。
側面からの風の刃。
互いの動きに合わせた連携攻撃。
それらは確かに女へ届いている。
しかし、決定的な傷を与えることはできなかった。
「……エレナ。何か気づいたことはあるか?」
「攻撃を防ぐこと自体には、限界があるはずよ。でも……」
エレナは女の翼を見つめた。
「私たちの攻撃を受けても、ほとんど動じていない。それに、さっきから私たちを倒そうとしているようにも見えないわ」
「どういうことだ?」
「ずっと、何かを探している」
二人の視線が、女の赤い瞳へと向けられた。
その瞳は、確かに二人を見ていなかった。
「……あの子は、どこ?」
女は町の奥へと視線を向ける。
「神の加護……。近くにあるはずなのに……」
その言葉を聞き、エレナの表情が険しくなった。
「……やっぱり、誰かを探しているのね」
「例の女傭兵が言っていたことか」
「ええ。神の加護を集めるために、この町を襲っているんだとしたら……」
エレナは一度言葉を切った。
考えたくもない可能性だった。
「目的の相手が見つかるまで、攻撃をやめるつもりはないでしょうね」
「ならば、なおさらここで止めなければならない」
ガルドは剣を握り直した。
女が誰を探していようと、町の住民を巻き込んでよい理由にはならない。
このまま好きにさせれば、避難が終わる前に被害が広がってしまう。
「エレナ、次は俺が正面から仕掛ける。お前は翼の動きを見てくれ」
「分かったわ」
ガルドは地面を蹴った。
炎をまとった擬聖剣が、女へと迫る。
女は黒い翼を持ち上げ、刃を受け止めた。
その瞬間、エレナが風を放つ。
狙いは女の身体ではない。
翼の付け根。
防御の動きを制限できれば、わずかでも隙が生まれるはずだった。
鋭い風が黒い羽根を揺らす。
女の身体が、ほんのわずかに傾いた。
「今だ!」
ガルドが剣を押し込む。
炎が強まり、翼の表面を焼いていく。
だが――。
「……邪魔ね」
女の声が、二人の耳に届いた。
黒い力が膨れ上がる。
ガルドは異変を察し、すぐに後方へ跳んだ。
「エレナ、離れろ!」
エレナもまた、風を操って距離を取る。
直後、二人が立っていた場所の石畳が砕けた。
地面に亀裂が走り、周囲の瓦礫が弾き飛ばされる。
ガルドは着地すると、すぐに剣を構え直した。
攻撃の隙を突いたはずだった。
それでも、女の防御を崩すには至らない。
「……厄介な相手ね」
エレナが息を整えながら呟いた。
女は、再び町の奥へと視線を戻していた。
まるで二人など、最初から眼中にないかのように。
*
町の別の通りでは、アルジェナが住民たちの救助を続けていた。
「こちらはもう大丈夫です! 次の場所へ向かいましょう!」
アルジェナは、救助した親子を近くの神官へ引き渡した。
母親は何度も礼を述べ、子供を抱きしめながら避難場所へと向かっていく。
その姿を見届けると、アルジェナはすぐに周囲を見渡した。
まだ、助けを必要としている人がいる。
崩れた建物のそばでは、数人の住民が瓦礫を取り除いていた。
少し離れた場所では、騎士たちが負傷者を運んでいる。
誰もが、自分にできることを必死に続けていた。
アルジェナもまた、その一人だった。
かつて、自分の村が魔物に襲われたとき。
何もできなかった自分が、そこにいた。
だからこそ、目の前で助けを求める人を見捨てることはできなかった。
「そっち、手伝います!」
アルジェナは瓦礫を取り除いている住民たちへ駆け寄った。
倒れた木材を持ち上げ、隙間に挟まった石を取り除く。
やがて、その奥から負傷した男性が姿を現した。
「ゆっくりでいいです。肩を貸しますから」
男性の身体を支え、外へと連れ出す。
幸い、命に関わるような傷ではなさそうだった。
アルジェナは近くの神官へ男性を引き渡した。
「お願いします!」
「分かりました。あなたも気をつけてください!」
「はい!」
返事をすると、アルジェナは再び走り出した。
だが、その足はすぐに止まった。
町の中心から、黒い光が立ち上っている。
先ほどよりも強い。
離れた場所にいるアルジェナにも、地面を伝わる振動が感じられた。
「……まだ、終わらないの?」
アルジェナは剣の柄を握った。
ガルドとエレナが戦っている。
それでも、女の力は衰えていない。
このまま戦いが続けば、町はどこまで壊されてしまうのだろう。
そのときだった。
「きゃあっ!」
近くで悲鳴が上がった。
アルジェナが振り返ると、通りの端で女性が倒れていた。
そのすぐそばには、崩れかけた壁があった。
「危ない!」
アルジェナは駆け寄り、女性の腕を取った。
次の瞬間、壁の一部が崩れ落ちる。
アルジェナは女性を支えながら、その場から離れた。
石片が地面に散らばる。
あと少し遅れていたら、巻き込まれていたかもしれない。
「大丈夫ですか?」
「は、はい……」
「立てますか?」
女性は震えながら頷いた。
アルジェナは彼女を支え、近くの住民へと引き渡した。
「この人をお願いします!」
「ああ、任せてくれ!」
アルジェナは崩れた壁を振り返った。
今の崩落は、黒い力によるものではない。
すでに傷んでいた建物が、振動に耐えきれなかったのだろう。
戦いの余波だけでも、町の人々に危険が及んでいる。
アルジェナは唇を噛んだ。
女を止めなければ、この状況は終わらない。
それでも、今の自分にできることは限られていた。
「……焦っちゃ駄目だ」
自分に言い聞かせるように呟く。
リリアは避難を始めた。
今は彼女の無事を信じるしかない。
アルジェナは前を向き、再び救助へと走り出した。
*
町の中心では、女の様子に変化が起きていた。
ガルドとエレナが距離を保ちながら警戒する中、女は突然、動きを止めた。
赤い瞳が、ある方向を見つめる。
「……見つけた」
その声に、エレナが反応した。
「何ですって?」
女は答えない。
ただ、遠くを見つめたまま、ゆっくりと黒い翼を広げた。
「……あの子」
ガルドの表情が険しくなる。
女の視線の先には、避難する人々がいる。
そして、その先には町の外へ続く道があった。
「まさか……!」
エレナが風を操り、女の進路を塞ぐように構えた。
「行かせないわ!」
ガルドもまた、剣を構えて前へ出る。
「お前の目的が何であろうと、これ以上は通せん!」
女は二人を見た。
その表情には、苛立ちが浮かんでいた。
「……どうして、邪魔をするの?」
「町の人々を守るためだ!」
「そんなこと……私には関係ないわ」
女は、まるで当然のことを告げるように言った。
「私は、帰らなきゃいけないの」
黒い力が、再び膨れ上がる。
「白い翼で……帰らなきゃ……」
その声は、次第に小さくなっていった。
だが、次に女が顔を上げたとき。
赤い瞳には、はっきりとした執着が宿っていた。
「だから、あの子の加護が必要なの」
女が一歩、前へ出る。
ガルドとエレナは、同時に身構えた。
ここを突破されれば、避難する人々に危険が及ぶ。
二人はそれを理解していた。
「……ガルド」
「ああ」
短い言葉だけで、互いの意思は伝わった。
どれほど力の差があろうと、退くわけにはいかない。
女が黒い力を放つ。
ガルドは炎をまとった擬聖剣で受け止め、エレナは風を操って衝撃を逸らした。
石畳が砕け、周囲の建物が揺れる。
それでも、二人は進路を譲らなかった。
*
町の外へ向かう道では、神官たちが住民の避難を続けていた。
リリアも、その列の中にいた。
目の前を歩く老人に手を貸しながら、何度も後ろを振り返りそうになる。
アルジェナは、まだ町に残っている。
負傷者を助けるために。
町を守るために。
自分が避難することで、アルジェナが少しでも動きやすくなるのなら。
そう考えて歩いていた。
それでも、心配な気持ちは消えなかった。
「……アルジェナ」
小さく名前を呼ぶ。
今すぐ戻って、力になりたい。
けれど、自分が戻れば、アルジェナはまた自分を守ろうとするだろう。
リリアは、ぎゅっと拳を握った。
今は信じるしかない。
アルジェナが無事に戻ってくることを。
そして、自分も無事でいることを。
「リリアさん、こちらです!」
神官に呼ばれ、リリアは顔を上げた。
「はい!」
今度は振り返らず、前へと歩き出した。
*
黒い翼が、再び大きく揺れた。
ガルドとエレナは、女の攻撃を受け止めながら、わずかずつ後退していた。
力の差は埋まらない。
それでも、二人は進路を塞ぎ続けている。
女の赤い瞳は、避難する人々が向かった先を見つめていた。
「……もう少し」
呟きとともに、黒い力が集まっていく。
「もう少しで……帰れるのに」
その声には、焦りが滲んでいた。
女は翼を広げ、二人を押し退けようとする。
ガルドは歯を食いしばり、擬聖剣を握り締めた。
エレナもまた、風を強めて女の動きを抑え込む。
しかし、二人の抵抗を嘲笑うかのように、黒い力はさらに強まっていった。
町では、まだ救助が続いている。
アルジェナは人々を助けるために走り続けている。
リリアは、神官たちとともに避難を続けている。
それぞれが、自分にできることを選んでいた。
だが、女の目的は変わらない。
神の加護を求め、白い翼へ戻ること。
そのためなら、町がどうなろうと構わない。
黒い翼が、再び羽ばたいた。
ベルネア町を襲う脅威は、いまだ誰にも止められずにいた。




