第六十三話 守るための選択
女の背中から伸びる黒い翼が、ゆっくりと揺れていた。
ガルドとエレナは、互いに目配せを交わしながら女への攻撃を続けていた。
炎をまとった擬聖剣が振るわれ、風の刃が側面から襲いかかる。
しかし、女の黒い翼はそのすべてを受け止めていた。
炎が羽根を焦がし、風がその表面を削っている。
それでも、女の動きはほとんど変わらなかった。
「……きりがないわね」
エレナが呟く。
「分かっている。だが、攻撃を止めるわけにもいかん」
ガルドは剣を構え直した。
女は二人を見ていなかった。
赤い瞳は、町の奥へと向けられている。
「……あの子は、どこ?」
その呟きが、崩れた町並みに消えていった。
*
避難場所では、負傷者の手当てが続いていた。
アルジェナはリリアと向き合い、改めて口を開いた。
「リリア。神官さんたちと一緒に、もっと安全な場所へ移動してほしい」
「……うん」
リリアは頷いた。
あの女が自分の加護を狙っている。
その理由は分からない。
けれど、町を破壊してまで探している以上、ここに留まるのは危険だった。
「移動先にも、神官さんたちはいるんだよね?」
「うん。案内してくれるはずだよ」
「分かった。私も一緒に行くね」
そう答えたリリアは、すぐに歩き出そうとした。
しかし、そのときだった。
「こちらの方を運ぶのを手伝ってください!」
入口付近で、神官の声が響いた。
負傷した住民が運び込まれている。
その中には、自分の足で歩くことも難しい者がいた。
神官たちは治療だけでなく、避難する人々の誘導にも追われている。
リリアは、思わずそちらを見た。
少しでも手伝えれば。
自分の加護は、重傷を治せるほど強くはない。
それでも、傷の痛みを和らげたり、出血を抑えたりすることならできる。
今、自分にできることがある。
それなのに、ここを離れてしまっていいのだろうか。
「……私も、手伝ったほうが」
リリアが一歩踏み出しかけたとき、アルジェナがその手を取った。
「リリア」
「でも……!」
思わず声が大きくなる。
リリア自身も、驚いたように口を閉じた。
アルジェナは責めることなく、静かに彼女を見つめていた。
「助けたいんだよね」
「……うん」
「私も同じだよ」
アルジェナは、負傷者たちへと視線を向けた。
助けを求める人がいる。
目の前で苦しんでいる人がいる。
それを見て、何も感じないはずがなかった。
「でも、リリアは狙われてる。ここに残ったら、あの女がまた来るかもしれない」
「……分かってる」
「リリアまで危険な目に遭ったら、私はきっと、リリアを守ることに必死になっちゃう」
アルジェナは少し困ったように笑った。
「そうなったら、助けられる人も助けられなくなるかもしれない」
リリアは、何も言えなかった。
自分が残ることで、アルジェナの行動まで縛ってしまう。
それは、考えていなかったことだった。
「だから、お願い。今は自分のことも大切にして」
「……アルジェナ」
「リリアが無事でいてくれることも、私にとっては大事なんだよ」
その言葉に、リリアは唇を結んだ。
誰かを助けたい。
苦しんでいる人を、放っておきたくない。
それは、信仰を持つ者としての気持ちだけではなかった。
リリア自身が、そうしたいと思っているのだ。
けれど、自分の行動によって、別の誰かを危険にさらしてしまうのなら。
「……分かった」
リリアは、ゆっくりと頷いた。
「私、避難するね」
「うん」
「でも、アルジェナも絶対に無茶しないでね」
「分かってる」
アルジェナは答えた。
リリアはもう一度、負傷者たちを振り返った。
すぐにでも駆け寄りたい気持ちは、消えていなかった。
それでも、今は自分がすべきことを選ぶ。
リリアは近くの神官に声をかけた。
「すみません。私も、皆さんと一緒に移動します」
「分かりました。こちらへ。移動先にも神官がおりますので、そちらでできることを手伝っていただければ」
「……はい!」
リリアは小さく頭を下げた。
そして、アルジェナへと向き直る。
「行ってくるね」
「うん。またあとで」
リリアは神官たちとともに、避難する人々の列に加わった。
何度か後ろを振り返りそうになった。
それでも、今度は足を止めなかった。
自分がここに残ることだけが、人を助ける方法ではない。
そう信じて、リリアは歩き続けた。
*
アルジェナは、リリアたちの姿が通りの向こうへ消えるまで見送った。
これで、少しは安心できる。
だが、町の危機が去ったわけではなかった。
遠くから、建物の崩れる音が聞こえる。
女の放つ黒い力が地面を砕き、そのたびに周囲の住民たちが悲鳴を上げていた。
アルジェナは町の中心へ目を向けた。
あの女を止めなければ、被害は広がり続ける。
しかし、先ほどの戦いで思い知らされた。
自分の剣では、あの女に届かなかった。
ガルドとエレナでさえ、決定的な一撃を与えられていない。
今、アルジェナが正面から加わったところで、状況を変えられるとは思えなかった。
ならば、自分にできることは何か。
「……まずは、助けられる人を助ける」
アルジェナは剣を握り直し、走り出した。
*
通りの角で、倒れた木材のそばに数人の住民が集まっていた。
「誰か、中にまだ人がいるんだ!」
男性が崩れかけた建物を指差している。
入口は瓦礫で塞がれ、奥の様子は分からない。
「私が確認します!」
アルジェナは駆け寄ると、隙間から中の様子を窺った。
「誰かいますか!」
返事はない。
だが、奥から微かな物音が聞こえた。
「……いる」
アルジェナは周囲の男性たちと協力し、入口を塞ぐ木材を動かし始めた。
剣を振るうだけでは、こうした場面で人を助けることはできない。
力を合わせ、少しずつ道を作るしかなかった。
やがて、人が通れるだけの隙間ができた。
「私が行きます!」
アルジェナは身を屈め、建物の中へ入った。
内部は荒れ、家具や木片が散乱している。
その奥に、倒れた棚のそばで身を寄せ合う親子の姿があった。
「大丈夫ですか!」
アルジェナは駆け寄り、二人の様子を確かめた。
幸い、どちらも意識はある。
「もう大丈夫です。外へ出ましょう」
母親を支え、子供の手を取る。
狭い隙間を慎重に進み、アルジェナは二人を建物の外へ連れ出した。
「ありがとうございます……!」
母親が何度も頭を下げる。
「いえ。怪我があるなら、あちらの神官さんに診てもらってください」
アルジェナは二人を送り出すと、すぐに周囲を見渡した。
まだ、助けを必要としている人がいる。
少し先では、足を痛めた老人を住民たちが支えていた。
別の通りからは、取り残された人を探す声が聞こえる。
アルジェナは次の場所へと走った。
かつて、自分の村が魔物に襲われたとき。
何もできなかった自分が、そこにいた。
だからこそ、今は違う。
一人でも多くの人を助ける。
それが、今の自分にできることだった。
*
町の中心では、ガルドとエレナが戦いを続けていた。
炎と風が交差する。
しかし、女の黒い翼は、そのたびに二人の攻撃を阻んだ。
「……どうして、邪魔をするの?」
女は呟いた。
赤い瞳は、二人の向こう側を見つめている。
「私は、帰りたいだけなのに……」
ガルドは答えなかった。
女の望みが何であろうと、町を破壊してよい理由にはならない。
「エレナ、住民の避難は?」
「まだ終わっていないわ。救助も続いている」
「そうか……」
ガルドは剣を構えたまま、短く息を吐いた。
町の人々を守るためには、ここで女を食い止めなければならない。
だが、力の差は明らかだった。
それでも、退くわけにはいかなかった。
「……神の加護を」
女の声が、かすかに響いた。
「もっと……集めなきゃ……」
黒い翼が揺れる。
周囲に漂う力が、再び膨れ上がっていく。
ガルドとエレナは、同時に身構えた。
次の攻撃に備える。
その間にも、町では人々が必死に救助を続けていた。
アルジェナもまた、崩れた建物の間を走り続けている。
剣を振るう者。
傷を癒やす者。
逃げ遅れた人を探す者。
それぞれが、自分にできることをしていた。
しかし、町を襲う脅威は、いまだ止まる気配を見せなかった。
ベルネア町の悲劇は、少しずつ、その深さを増していく。




