第六十一話 黒い翼
女の周囲で渦巻く黒い力は、勢いを増すばかりだった。
エレナは風を操り、周囲にいる騎士たちや負傷者へ被害が及ばないよう警戒していた。
ガルドもまた、炎をまとった擬聖剣を構え、女の動きを注視している。
アルジェナは女の動きを警戒しながら、剣を構えていた。
女の赤い瞳が、ゆっくりとアルジェナへ向けられる。
「……どうして、邪魔をするの?」
「お前が町を壊しているからだ!」
アルジェナは即座に答えた。
「それに、リリアを探しているんだろ。あの子に何をするつもりだ!」
「……あの子の加護が必要なの」
女は問いかけに答えることなく、独り言のように呟いた。
「神の加護を集めなきゃ……。そうすれば、きっと……」
その視線は、アルジェナを通り越して町の奥へと向けられていた。
まるで、目の前にいる人間など存在しないかのように。
「……もう、いいわ」
女が静かに告げた。
その瞬間、背中に集まっていた黒い光が、さらに濃くなる。
エレナが息を呑んだ。
「何をするつもり……?」
返事はなかった。
黒い光が女の背中から左右へと広がり、形を成していく。
一本一本の羽根が、闇の中から浮かび上がるように現れた。
やがて、それは巨大な翼となった。
黒い羽根が幾重にも重なり、女の背中から広がっていく。
人の身体に備わるものとは思えない、大きさと異様さ。
その翼が広がっただけで、周囲の空気が重くなったように感じられた。
長い淡色の髪が、風もないのにふわりと浮かび上がる。
白い肌。整った顔立ち。長いまつげ。
その美しい容貌は、翼が現れる前と何ひとつ変わっていなかった。
ただ一つ、赤い瞳だけが異様な光を宿している。
その色は、先ほど倒された三級魔物の瞳とよく似ていた。
「……まさか」
ガルドの表情が強張った。
「悪魔か……!?」
その言葉に、周囲の騎士たちがざわめいた。
悪魔。
教会の教えや古い伝承に登場する、神の御業を騙り、人に力を与える存在。
その存在を知る者はいても、実際に遭遇した者はほとんどいない。
まして、目の前の女が本当に悪魔なのか、確かめる術などなかった。
「……あの目」
エレナが女を見据えたまま呟いた。
「さっきの魔物と、よく似ているわ」
「魔物と関係があるってことか?」
「分からない。でも、無関係だと決めつけるのも危険よ」
エレナは慎重に答えた。
似ているのは、あくまで瞳の色だけだ。
それだけで同じ存在だと断定することはできない。
だが、町を破壊するほどの力を持つ相手を前に、わずかな違和感も見過ごすわけにはいかなかった。
ガルドは擬聖剣を握り直した。
「……相手が悪魔であろうと、魔物であろうと、これ以上町を壊させるわけにはいかない」
「ええ。住民を守ることが先よ」
二人の視線が交差する。
正体が分からなくとも、やるべきことは変わらない。
目の前の脅威を止める。
それだけだった。
「……違う」
女が、ふいに呟いた。
「こんなものじゃない……」
黒い翼が、かすかに震える。
「私は……白い翼で……帰らなきゃ……」
その言葉に、エレナは眉をひそめた。
白い翼。
帰る。
何を意味しているのか、理解できない。
問いただそうとした、その瞬間だった。
女の周囲から黒い光が放たれた。
「来るわ!」
エレナが風を広げる。
同時にガルドが前へ出て、擬聖剣を振り抜いた。
炎が広がり、黒い光と正面からぶつかる。
衝撃で石畳が砕け、近くの建物の壁に新たな亀裂が走った。
ガルドは歯を食いしばり、剣を押し込む。
だが、黒い力は押し返されるどころか、炎を呑み込むように広がってきた。
「ぐっ……!」
ガルドが後退する。
エレナはすぐさま風を放ち、黒い光の軌道を逸らした。
攻撃はかろうじて二人の脇を通り抜けたが、その先にあった石造りの建物が大きく崩れた。
砕けた石材が道を塞ぎ、煙と粉塵が周囲を覆う。
「負傷者を下がらせて! 崩れかけた建物には近づかないで!」
エレナの指示に、騎士たちが動いた。
神官たちも負傷者を支えながら、安全な場所へと移動させていく。
町を守ろうとする者たちの声が飛び交う中、女だけが静かに立っていた。
「……神の加護を集めなきゃ」
赤い瞳が、再び町の奥を探る。
「あの子は……どこ?」
その言葉を聞き、アルジェナは剣を構え直した。
やはり、リリアが目的なのだ。
理由は分からない。
女が何者なのかも分からない。
それでも、町を破壊しながらリリアを探す相手を、放っておくわけにはいかなかった。
「そこの女傭兵、下がれ!」
ガルドの声が響いた。
アルジェナは一瞬だけ、ガルドとエレナに目を向けた。
二人の構え。女との距離。そして、先ほどの攻撃がまるで通じなかったこと。
自分が前に出ても、二人の連携を乱すだけだ。
女は、リリアの加護を狙っている。
ならば、リリアも危険だ。ここに留まらせるわけにはいかない。
アルジェナはすぐに剣を構えたまま後退した。
今は二人に任せ、リリアとの合流を急ぐ。
ガルドとエレナは、アルジェナが下がったことを確認すると、再び女へと向き直った。
「エレナ、いくぞ!」
「ええ!」
ガルドの擬聖剣が炎をまとい、エレナの周囲では風が渦巻く。
二人は互いの動きを確かめ、攻撃の機会をうかがった。
しかし、女は二人を見てさえいなかった。
「……帰らなきゃ」
黒い翼が、ゆっくりと動く。
「白い翼で……あの場所へ……」
女の声には、切迫した響きがあった。
だが、町の人々を傷つけていることへの迷いも、ためらいも感じられない。
彼女にとって、今ここで起きていることは、目的を果たすうえで邪魔なものにすぎないのだ。
「神の加護が必要なの……」
女の赤い瞳が、再び町の奥へ向けられる。
「あの子の加護が……必要なの……」
ガルドが踏み込んだ。
炎をまとった剣が、女へと迫る。
エレナの風がその動きを支え、攻撃の勢いを増した。
だが、女の黒い翼が広がると、二人の攻撃は再び押し返された。
ガルドは体勢を立て直し、エレナも距離を取り直す。
相手の力は、二人が想定していたものを大きく超えていた。
それでも、退くことはできない。
町には、まだ逃げ遅れた住民がいる。
救助を待つ負傷者もいる。
二人がここで押し負ければ、被害はさらに広がるだろう。
「……何としても止めるわよ、ガルド!」
「ああ!」
再び、二人が動く。
一方、アルジェナは崩れた石畳を駆け抜け、リリアのいる場所を目指していた。
女が何者なのか。
なぜリリアの加護を求めているのか。
まだ、何一つ分からない。
それでも、これだけは確かだった。
あの女を放置すれば、リリアにも危険が及ぶ。
アルジェナは剣を握り直し、前を見据えた。
まずはリリアと合流する。
そして、あの女の狙いを伝えなければならない。
ベルネア町を覆う黒い翼は、いまだ消える気配を見せなかった。




