第五十九話 譲れないもの
女の周囲に、異様な力が渦巻いていた。
アルジェナは剣を構え、相手の動きを警戒する。
崩れた建物。
砕けた石畳。
立ち上る煙と、あちこちから聞こえる人々の悲鳴。
つい先ほどまで、人々の暮らしがあった町並みは、見る影もなくなっていた。
その中心にいるのは、目の前の女だった。
アルジェナは、彼女を知っている。
リリアと一緒にいたとき、町の門で出会った女だ。
あのときは、どこにでもいる旅人のように見えた。
しかし、今の姿からは、そんな印象など微塵も感じられない。
「……どうして、こんなことをするの?」
アルジェナは問いかけた。
女は答えない。
ただ、ぼんやりと空を見上げていた。
「……帰りたい」
ぽつりと、声が漏れた。
「私はね……帰りたいの。白い翼で……もう一度、あの場所へ……」
アルジェナは眉をひそめた。
何を言っているのか、意味が分からない。
それでも、女の声には奇妙な執着が滲んでいた。
まるで、その願いだけが彼女の中に残されているかのように。
「だから……集めなきゃ」
女は自分の手を見つめ、何度も小さく頷いた。
「神の加護を……神の加護を集めなきゃ……」
「……神の加護を集める?」
アルジェナは女の言葉を繰り返した。
神の加護を授かる者は、決して多くない。
教会の信徒であっても、加護を得られる者は限られている。
リリアもまた、その一人だった。
だが、なぜ目の前の女がリリアを狙うのか。
神の加護を集めるとは、いったいどういう意味なのか。
アルジェナには、何ひとつ分からなかった。
「リリアの加護を使って、何をするつもりなの?」
問いかけても、女は反応しない。
「あの子には、きっとある……私に必要なものが……」
女は独り言のように呟いた。
「初めて会ったときから分かっていたわ。あの子には……私が探しているものがある」
その口元に、ゆっくりと笑みが浮かぶ。
「そうよ……あの子を手に入れれば……」
「リリアは物じゃない!」
アルジェナは声を張り上げた。
女の笑みが、ぴたりと止まる。
しかし、その瞳に浮かんだのは、怒りでも困惑でもなかった。
ただ、話の途中で何かを思い出したかのような、ちぐはぐな表情だった。
「……物?」
女は小さく首を傾げる。
「そうね。物ではないわね」
まるで、言葉の意味だけを理解したかのように頷いた。
「でも、必要なの」
それだけだった。
リリアがどんな人間なのか。
彼女自身が何を望んでいるのか。
その力を求められる本人が、どう思うのか。
女にとって、そんなことは考える必要すらないらしい。
必要だから、手に入れる。
それ以外の理屈は、彼女の中には存在していなかった。
「……あなたは……」
アルジェナは剣の柄を強く握った。
話が通じない。
言葉を交わしているはずなのに、目の前の女は、こちらの言葉を受け止めてはいなかった。
この女を止めなければならない。
そうしなければ、町の人々も、リリアも、どうなるか分からない。
「リリアには、指一本触れさせない」
アルジェナが踏み込んだ。
剣を振り抜く。
だが、刃が女に届く寸前、見えない力が二人の間に立ちはだかった。
剣先が弾かれ、アルジェナの身体が後方へ押し戻される。
「くっ……!」
石畳を滑りながら、どうにか体勢を立て直す。
まともに受ければ、剣ごと吹き飛ばされる。
力の差は明らかだった。
それでも、アルジェナは剣を下ろさなかった。
女は彼女を見ていない。
再び空を仰ぎ、うわ言のように呟いていた。
「……白い翼で……帰るの……」
その声に応えるように、周囲の空気が歪んだ。
次の瞬間、アルジェナの足元で石畳が砕けた。
「っ!」
横へ飛び退く。
直後、立っていた場所が陥没し、砕けた石片が周囲へ散った。
アルジェナは着地と同時に走り出した。
正面からぶつかっても勝てない。
ならば、相手の動きを見極め、隙を探すしかない。
女の指先が、わずかに動く。
それだけで、周囲に浮かんでいた瓦礫が持ち上がった。
「なっ……!」
複数の瓦礫が、アルジェナへ向かって飛来する。
剣で一つを弾き、身体を捻って二つ目を避ける。
三つ目が肩をかすめ、衝撃に身体が揺れた。
痛みを堪えながら、アルジェナは距離を取る。
女の力は、ただ強いだけではない。
動きに規則性が見えず、どこから攻撃が来るのかも分からない。
まるで、周囲のすべてが女の意思に従っているようだった。
「……帰らなきゃ」
女が呟く。
「今度こそ……帰らなきゃ……」
その声は、切実だった。
だが、アルジェナには意味が分からなかった。
白い翼とは何なのか。
帰るとは、どこへ帰るというのか。
神の加護を集めて、いったい何をしようとしているのか。
問いかけても、女はまともに答えようとしない。
目の前の女が何を考えているのか、アルジェナには理解できなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
この女を止めなければ、町の人々が危険にさらされ続けるということだ。
アルジェナは剣を握り直した。
女は、ゆっくりとアルジェナへ視線を向けた。
ほんの一瞬だけ、二人の目が合う。
しかし、女はすぐに視線を外し、再び虚空を見つめた。
「……神の加護を集めれば……」
まるで誰かに言い聞かせるように、女は呟いた。
「きっと……きっと、戻れる……」
そして、その手が持ち上がる。
空気が震え、女の周囲に黒ずんだ光が集まっていく。
アルジェナは反射的に身構えた。
危険だ。
これまでの攻撃とは、明らかに違う。
逃げなければならない。
頭のどこかで、そう理解していた。
それでも、アルジェナの背後には町の人々がいる。
まだ救助を待っている人がいるかもしれない。
そして、リリアもどこかにいる。
あの女が求めているのは、リリアの加護だ。
ここで逃げれば、彼女を守れなくなるかもしれない。
「……私は」
アルジェナは、ゆっくりと息を吸った。
恐怖がないわけではない。
勝てる確信があるわけでもない。
それでも、剣を手放すつもりはなかった。
「私は、あなたを止める」
女は何も答えなかった。
ただ、遠い場所を懐かしむような顔で、もう一度呟いた。
「……白い翼で、帰るの……」
膨れ上がった力が、町の中心を覆い始める。
アルジェナは剣を構え、崩れた石畳を蹴った。
守りたいものがある。
譲れないものがある。
だからこそ、退くわけにはいかなかった。
このとき、アルジェナはまだ知らなかった。
目の前の女が、どのような存在なのか。




