第五十八話 悪魔の影
町の中心へ近づくほど、空気が重くなっていった。
アルジェナは、崩れた建物の間を駆け抜けていた。
石畳には深い亀裂が走り、道を塞ぐ瓦礫の向こうからは、助けを求める声が聞こえてくる。
先ほどまで店が並んでいた通りは、見る影もなかった。
倒れた看板。
砕けた窓。
屋根を失った家々。
そこに暮らしていた人々の生活が、無残に壊されている。
アルジェナは奥歯を噛みしめた。
――また、こんな光景を。
故郷を失った日の記憶が、胸の奥から蘇る。
けれど、今は立ち止まっている場合ではなかった。
原因を突き止めなければ。
これ以上、被害が広がる前に。
アルジェナは剣の柄に手をかけ、煙の向こうへと進んだ。
*
町の中心にある広場。
そこは、普段なら露店が並び、人々の声で賑わう場所だった。
しかし、今は違う。
広場を囲んでいた建物の一部は崩れ、石造りの噴水も大きく損壊していた。
地面には瓦礫が散乱し、立ち上る煙が周囲を覆っている。
そして、その中心に。
ひとりの女が立っていた。
淡い色の長い髪。
旅人のような簡素な服。
見覚えのある姿に、アルジェナは目を見開いた。
「あなたは……!」
ベルネア町に入ったとき、リリアと再会していた女。
あのときは穏やかな表情を浮かべていた彼女が、今は町を破壊する力の中心に立っていた。
女の周囲には、奇妙な光が渦巻いている。
光が動くたびに空気が歪み、足元の石畳に亀裂が広がっていく。
女が片手を持ち上げた。
その先にあった建物の壁が、内側から押し潰されるように崩れ落ちた。
壁を支えていた木材が折れ、屋根が傾き、建物全体が瓦礫へと変わっていく。
女は、その光景を見ても表情ひとつ変えなかった。
「……まだ足りない」
小さく呟く。
「これだけやっても、届かないなんて……」
女の瞳が細められた。
「なら、もっと……」
再び、周囲の光が膨れ上がる。
アルジェナは、その光景を目の当たりにして足を止めた。
人間の力ではない。
少なくとも、普通の人間にできることではなかった。
そして、目の前にいるのは魔物でもない。
人の姿をした何か。
それが、町を破壊していた。
女はアルジェナを見ると、周囲に視線を走らせた。
「……あの子は?」
「……え?」
「あなたと一緒にいた、白い服の子よ」
女の目が細くなる。
「どこにいるの?」
アルジェナは剣の柄を握り直した。
「リリアに何の用?」
「あなたに答える必要はないわ」
女は、もう一度周囲を見回した。
「……せっかく見つけたのに」
その声には、隠しきれない苛立ちが滲んでいた。
アルジェナは悟った。
この女は、町を破壊するだけではない。
リリアを探している。
そして、その目的を果たすためなら、町がどうなろうと構わないのだ。
「……あなたが、この町をこんなにしたの?」
女は、ようやくアルジェナへ視線を戻した。
「そうよ」
あまりにもあっさりとした返答だった。
「どうして……!」
「必要だからよ」
「必要……?」
「そう。私には、やらなければならないことがあるの」
女は当然のことのように言った。
「そのために、この力が必要なのよ」
アルジェナは剣の柄を握りしめた。
「だからって、町の人たちを傷つけていい理由にはならない!」
「……あなたには関係ないわ」
女の声が冷たくなった。
「関係ないって……!」
「私は、あなたに用はないの。邪魔をしないで」
女が手を持ち上げた。
その動きに合わせて、周囲の光が激しく渦巻く。
アルジェナは反射的に身構えた。
次の瞬間、広場の石畳が大きく抉れた。
衝撃が地面を走り、砕けた石片が周囲へと飛び散る。
アルジェナは横へ飛び退いた。
直後、立っていた場所の石畳が崩れ、深い亀裂が走った。
もし反応が遅れていたら、無事では済まなかっただろう。
アルジェナの額に汗が滲む。
速い。
それに、力の規模が違いすぎる。
魔物との戦いとは、明らかに何かが違っていた。
「……っ!」
アルジェナは剣を抜いた。
相手の正体は分からない。
何をしようとしているのかも分からない。
それでも、これ以上好き勝手にさせるわけにはいかなかった。
「止めて!」
女は、面倒そうに眉を寄せた。
「……しつこいわね」
「この町には、あなたと関係のない人たちが暮らしてるんだよ!」
「だから何?」
女の返答に、アルジェナの呼吸が止まった。
「……何、って」
「私が何をしようと、あなたには関係ないでしょう?」
女は一歩、前へ出た。
周囲の光が、さらに強くなる。
「私は帰らなければならないの」
その声には、焦りと苛立ちが混じっていた。
「何を犠牲にしても。どんな手段を使っても」
女の瞳が、アルジェナを射抜く。
「邪魔をするなら、あなたも同じよ」
その瞬間、アルジェナは理解した。
話し合いでは止められない。
目の前の女は、自分の目的のためなら、この町に暮らす人々がどうなろうと構わないのだ。
そして、リリアを探している。
何のために探しているのかは分からない。
けれど、こんなことをする相手に、リリアを近づけるわけにはいかなかった。
「……だったら、私が止める」
女の表情から、わずかな感情が消えた。
「そう」
次の瞬間、女の周囲に渦巻いていた光が、一気に広がった。
広場を囲む建物が震え、残っていた窓が次々と砕けていく。
アルジェナは地面を蹴った。
正面から受ければ、まともに戦うことすらできない。
まずは、相手の動きを見極める。
それから、隙を探す。
ヴァルドに教わったことを、頭の中で組み立てる。
だが。
女が腕を振るっただけで、広場の一角が崩壊した。
石造りの壁が砕け、屋根が落ち、瓦礫が道を塞ぐ。
その向こうで、逃げ遅れた人々の悲鳴が上がった。
アルジェナは、女から目を離した。
崩れた建物のそばに、人がいる。
助けなければ。
考えるより先に、身体が動いていた。
「逃げて!」
アルジェナは人々のもとへ駆け寄り、崩れかけた木材を押し退けた。
男が幼い子供を抱え、必死に這い出してくる。
その背後では、建物の残骸が今にも崩れ落ちそうになっていた。
「早く! こっちへ!」
アルジェナは二人を安全な場所まで誘導した。
振り返ると、女はすでに次の力を集め始めていた。
止まる気など、まるでない。
このままでは、町が壊され続ける。
人々が逃げる時間すら与えられない。
アルジェナは再び剣を握った。
目の前の女を止めなければ。
どれほど危険でも。
自分が傷つくことになっても。
誰かの故郷が失われるのを、もう黙って見ているわけにはいかなかった。
*
女は、向かってくるアルジェナを見つめていた。
剣を持った少女。
身のこなしは悪くない。
それでも、今の自分を止められる相手ではない。
女はそう判断した。
「……邪魔ね」
その瞳が、冷たく細められる。
帰るために必要なものは、まだ手に入っていない。
時間もない。
こんなところで、足止めを食うわけにはいかなかった。
「消えて」
女の周囲に、再び異様な力が集まった。
アルジェナは剣を構える。
町を覆う黒煙。
崩れた建物。
逃げ惑う人々。
その中心に立つ、得体の知れない女。
アルジェナは、まだ知らない。
目の前にいる存在が、人間の常識では測れない力を持つことを。
そして、自分が今、悪魔と呼ぶべき存在に立ち向かおうとしていることを。
女の力が、広場を呑み込もうとしていた。




