第五十七話 町を呑む力
黒煙が、ベルネア町の空へと立ち上っていた。
ベルネア町は、リュネス王国の街道沿いにある中規模の町だ。
町を囲む石造りの城壁。その内側には、石と木材を組み合わせた家々が軒を連ねている。
通りに面した商店は木組みの壁に色とりどりの看板を掲げ、二階には人々の暮らす部屋があった。雨を流すために傾斜をつけた屋根が並び、石畳の道には荷車が通れるだけの幅がある。
町の中心には小さな広場があり、そこから伸びる通りに宿屋や食堂、商店が集まっていた。
朝から夕方まで人の声が絶えない、ありふれた町。
そこには、いつもと変わらない暮らしがあった。
店を開く者。
家族のために買い物をする者。
仕事を終えて、家路を急ぐ者。
ほんの少し前まで、誰もが明日も同じ日常が続くと思っていた。
――その日常が、突然壊された。
町の中心部で起きた爆発。
石造りの建物の壁が砕け、木組みの商店は屋根ごと崩れ落ちた。
石畳がめくれ上がり、通りに並んでいた露店は跡形もなく吹き飛ばされていた。
崩れた建物から木材が突き出し、商品や家具が瓦礫の間に散らばっている。
立ち上る黒煙が、見慣れた町並みを覆い隠していた。
突然の爆発に、人々は何が起きたのかも分からず立ち尽くした。
やがて、あちこちから悲鳴が上がる。
「な、何があったんだ!?」
「建物が……俺の店が……!」
「逃げろ! まだ何か起きるかもしれない!」
人々が一斉に動き始めた。
子供を抱きかかえて走る母親。
倒れた家族を起こそうとする老人。
崩れた建物の前で、必死に名前を呼び続ける男。
逃げようとする者と、誰かを助けようとする者が入り乱れ、通りは混乱に包まれていた。
アルジェナは、煙の立ち上る方角を見つめていた。
建物の向こうから、黒煙が絶え間なく上がっている。
先ほどの三級魔物は倒された。
それは、町の人々が何度も口にしていたことだ。
ならば、何が起きたのか。
「アルジェナさん、どうしましょう……!」
リリアが不安そうに尋ねた。
「まずは、怪我をした人がいないか確認しよう」
「でも、あそこは……!」
「危ないのは分かってる。でも、助けを必要としてる人がいるかもしれない」
アルジェナは剣の柄を握り直した。
恐怖がないわけではない。
何が起きているのかも分からない。
それでも、目の前で誰かが困っているのなら、立ち止まるわけにはいかなかった。
「リリアは無理をしないで。怪我人がいたら、できる範囲で手当てをお願い」
「……はい!」
二人は、煙の立ち上る町の中心部へと走り出した。
*
爆発が起きた場所へ近づくにつれ、町の様子は一変していった。
通りの両側に並んでいた商店は、いくつも壁を失っていた。
ある店では、二階部分が崩れ、屋根が斜めに傾いたまま隣の建物に寄りかかっている。
別の店では、木製の看板が根元から折れ、商品を並べていた棚が石畳に散乱していた。
普段なら食欲をそそる匂いが漂っているはずの食堂からも、今は煙と埃しか流れてこない。
道には割れた陶器や木箱、砕けた石材が散らばり、荷車が横倒しになっていた。
その脇では、逃げ遅れた人々を探す声が響いている。
「こっちだ! 誰か手を貸してくれ!」
「子供がまだ中にいるんだ!」
アルジェナは声のした方へ駆け寄った。
倒れた木材のそばで、男が必死に瓦礫をどかそうとしている。
「どうしたんですか!?」
「店の中に娘がいるんだ! 爆発で入口が塞がれちまった!」
男の手は震えていた。
アルジェナは崩れた入口を見た。
石材と折れた梁が重なり、人が通れる隙間はほとんどない。
建物の上部は大きく傾き、今にも残りの壁が崩れそうだった。
「私も手伝います!」
アルジェナは剣を鞘に収め、男と一緒に瓦礫を動かし始めた。
重い。
ひとつ動かすだけでも、かなりの力が必要だった。
それでも、少しずつ隙間が広がっていく。
「お父さん!」
瓦礫の向こうから、小さな声が聞こえた。
「無事か!」
「うん……! ここにいる!」
男の表情が明るくなる。
アルジェナは、さらに瓦礫を動かした。
やがて、人ひとりが通れるほどの隙間ができた。
「今のうちに!」
男が中へ入り、娘を抱えて出てくる。
女の子に大きな怪我はなさそうだった。
だが、店の奥では、家財道具が倒れ、壁には大きな亀裂が走っていた。
もし、あと少しでも救出が遅れていたら。
アルジェナは、崩れかけた建物を一度だけ振り返った。
「ありがとう! 本当にありがとう!」
男が何度も頭を下げる。
「お礼はいいです。早く、安全な場所へ!」
アルジェナは二人を逃がすと、再び煙の立ち上る方へ目を向けた。
まだ、悲鳴が聞こえている。
助けを求める声がある限り、立ち止まることはできなかった。
*
その頃、リリアも負傷者の手当てを始めていた。
「傷口を押さえてください。今、治しますから!」
彼女は怪我をした男性のそばに膝をつき、両手をかざした。
淡い光が、男性の傷を包み込む。
深い傷を完全に治すことはできない。
それでも、出血を抑え、痛みを和らげることならできる。
「……ありがとうございます」
「いえ。まだ動かないでくださいね」
リリアはそう告げると、別の負傷者へと向かった。
崩れた家の前では、住民たちが協力して人を運んでいる。
騎士たちも駆けつけ、避難の指示を出し始めていた。
「町の中心部には近づくな! 負傷者を見つけたら、こちらへ運べ!」
「建物の中に人が残っていないか確認しろ!」
「崩れかけている壁には近づくな! いつ倒れてもおかしくないぞ!」
指示が飛び交う。
しかし、混乱は収まらなかった。
誰も、爆発の原因を知らない。
魔物は倒されたはずなのに、町は再び危機にさらされている。
住み慣れた家を失い、店を失い、家族の安否すら分からない人々。
彼らにとって、そこは単なる建物ではなかった。
何年も暮らしてきた家であり、家族を養うための店であり、明日も続くはずだった生活そのものだった。
それが、たった一度の爆発で壊されてしまった。
リリアは手当てを続けながら、顔を上げた。
遠くに見える黒煙。
その向こうから、何かが震えるような音が響いていた。
まるで、空気そのものが揺れているかのようだった。
「……何でしょう、あれ」
リリアの胸に、不安が広がった。
*
町の中心部。
崩れた建物の向こうに、ひとりの女が立っていた。
淡い髪が、風もないのに揺れている。
その周囲では、奇妙な光が渦を巻いていた。
光はひとつの形を保てず、膨らんでは縮み、周囲の空気を歪ませている。
女は、自分の手を見つめた。
「……違う」
唇がわずかに歪む。
「こんなはずじゃなかったのに」
力が暴れている。
それは分かっていた。
だが、止めることができない。
「どうして……どうして、うまくいかないの?」
女の声が徐々に大きくなる。
足元では、崩れた建物から人々の声が聞こえていた。
助けを求める声。
逃げ惑う足音。
女は、そちらへ一瞥を向けた。
そして、すぐに視線を戻した。
「……今は、それどころじゃない」
必要なのは、力を制御すること。
そして、帰ること。
それ以外は、今の女にとって邪魔なものだった。
「もう少しなの……。あと少しで、帰れるはずなのに」
女は再び力を操ろうとした。
周囲に渦巻く光が、一点へと集まっていく。
空気が歪み、石畳に亀裂が走った。
女は構わず、さらに力を注ぎ込んだ。
その瞬間、町の一角が再び破壊された。
建物の壁が砕け、石材が通りへと降り注ぐ。
残っていた屋根が崩れ、木材と瓦が瓦礫の山へと変わった。
逃げ遅れた人々が、崩れた壁の向こうに取り残された。
女は顔をしかめた。
「……邪魔をしないで」
誰に向けた言葉なのか。
崩れた建物か。
自分の力か。
それとも、思いどおりにならない世界そのものか。
女自身にも、もう分からなかった。
ただ、帰らなければならない。
何としてでも。
そのためなら、何を犠牲にしても構わなかった。
*
アルジェナは足を止めた。
再び、町を揺るがす衝撃が走った。
すぐ近くの建物から、石の破片が通りへと転がり落ちる。
人々が悲鳴を上げ、逃げ惑う。
「アルジェナさん!」
リリアが駆け寄ってきた。
「怪我人の手当ては?」
「近くにいた方たちは、ほかの住民の方々が安全な場所へ運んでくれています。でも……」
リリアは町の中心部を見つめた。
そこには、かつて商店が並んでいた通りがあった。
今は建物が崩れ、道の一部が瓦礫で塞がれている。
その向こうでは、誰かが家族の名前を叫んでいた。
「何が起きているんでしょうか……」
「分からない」
アルジェナは正直に答えた。
魔物ではない。
少なくとも、今起きていることは、先ほどの三級魔物の襲撃とは違う。
だが、原因が分からない以上、何が起きてもおかしくない。
「リリア、ここから先は危険かもしれない。騎士たちの指示に従って、避難していて」
「アルジェナさんは?」
「私は、あの先を確かめてくる」
「そんな……!」
リリアは不安そうにアルジェナを見つめた。
「一人で行くんですか?」
「誰かが原因を確かめないと、何も始まらないから」
「でも……」
リリアは言葉を詰まらせた。
アルジェナが危険な場所へ向かおうとしていることは分かる。
止めたい。
けれど、目の前で困っている人を放っておけないのは、リリアも同じだった。
「……分かりました」
やがて、リリアは顔を上げた。
「私も、できることをします。怪我をした人がいたら、必ず助けます」
「うん。お願いね」
二人は一度だけ頷き合った。
アルジェナは剣の柄を握り、煙の向こうへと視線を向けた。
そこには、崩れた家々があった。
人々の暮らしがあった。
誰かにとっての大切な場所が、無残な姿に変わっていた。
その光景が、アルジェナの胸に重くのしかかる。
かつて、自分の故郷もこうして失われた。
もう二度と、同じ光景を見たくなかった。
だからこそ、進まなければならない。
この町で、これ以上誰かが傷つくのを防ぐために。
アルジェナは再び走り出した。
その先に待つものが――
人の理解を超えた、悪魔という存在だとも知らずに。
そして、この日を境に、アルジェナの運命は大きく変わることになる。
ベルネア町の悲劇。
それは、後に世界の歴史に刻まれることとなる、ひとつの転換点だった。




