第五十六話 束の間の安堵
ベルネア町の北門では、戦いの後始末が始まっていた。
崩れた城壁の周辺では騎士たちが被害を確認し、負傷者は町の中へ運ばれていく。
倒れた三級魔物の周囲にも騎士たちが集まり、慎重にその状態を調べていた。
町は大きな被害を受けた。
それでも、守り抜いたのだ。
騎士たちの顔には疲労が浮かんでいたが、そこには確かな安堵もあった。
*
その頃、アルジェナとリリアは、町の人々とともに指定された避難場所にいた。
周囲では不安そうに話す住民たちの声が聞こえる。
子供を抱きしめる母親。
家族の無事を確かめるため、何度も辺りを見回す老人。
それぞれが、先ほどまでの恐怖から立ち直ろうとしていた。
「アルジェナさん、怪我はありませんか?」
「私は大丈夫。リリアは?」
「私も大丈夫です」
リリアはほっとしたように微笑んだ。
「よかった……」
アルジェナも小さく息を吐いた。
突然の鐘の音。
三級魔物の襲来を知らせる声。
そして、避難するように告げられた騎士たちの指示。
何が起きているのか分からないまま、二人はここまで来た。
城壁の向こうで何が起きているのか、詳しいことは分からない。
ただ、町の人々の表情から、事態が深刻だったことだけは伝わってきた。
「……三級魔物って、そんなに危険なんですね」
リリアが不安そうに呟く。
「うん。町の騎士団だけで対処するのは難しい相手だよ」
アルジェナは、以前ヴァルドから聞いた話を思い出していた。
魔物の危険度は、見た目の大きさだけで決まるわけではない。
動きや特殊な能力によっても、危険性は大きく変わる。
三級ともなれば、十分な準備もなしに挑むべき相手ではなかった。
そのとき、避難場所の近くを数人の騎士が通りかかった。
負傷者の搬送や、各所への報告に追われているらしい。
「北門の被害はどうなった?」
「城壁の一部が崩れた。バリスタも一基やられたらしい」
「魔物は?」
「倒されたそうだ。聖徒様と聖騎士様が仕留めてくださったらしい」
その会話に、周囲の住民たちが耳を傾けた。
「倒したのか……!」
「よかった……!」
安堵の声が、少しずつ広がっていく。
リリアも、ほっと胸を撫で下ろした。
「よかったですね、アルジェナさん」
「うん。町の人たちも、これで安心できるね」
アルジェナはそう答えたものの、まだ気を抜くつもりはなかった。
魔物を倒したからといって、すべてが終わったとは限らない。
負傷者もいる。
壊れた城壁もある。
まずは、町がどれほどの被害を受けたのか確かめる必要があった。
そのとき、別の住民が興奮した様子で話し始めた。
「聞いたか? 出てきた魔物、五メートル近くもあったらしいぞ」
「五メートル!?」
「しかも、口から光線を吐いたんだと。城壁もバリスタも、それで吹き飛ばされたらしい」
「そんな魔物を、本当に倒したのか……?」
住民たちの間に、驚きの声が広がった。
アルジェナは、その言葉に反応した。
口から放たれる光線。
それが何を意味するのか、頭では分かっている。
けれど、その話を聞いた瞬間、脳裏に浮かんだのは別の光景だった。
崩れた家々。
逃げ惑う人々。
立ち上る煙。
そして、目の前で失われていった故郷。
――あの日も、自分には何もできなかった。
「……アルジェナさん?」
リリアの声に、アルジェナは我に返った。
「……ううん。なんでもない」
そう答えたものの、胸の奥に残った感覚は消えなかった。
あの日の記憶は、今も心の奥に残っている。
忘れたことなど、一度もなかった。
だからこそ、アルジェナは剣を手に取った。
もう二度と、誰かが自分と同じ思いをしなくて済むように。
誰かの故郷が失われるところも。
大切な人を失うところも。
もう二度と、見たくなかった。
「でも、エレナ様とガルド様が倒してくださったんですよね?」
リリアが尋ねた。
「……うん。そうみたいだね」
アルジェナは頷いた。
さらに話を聞くと、二人は互いに連携しながら魔物を追い詰め、最後には額の大きな角を砕いて倒したらしい。
「すごいですね……」
リリアの声には、憧れが滲んでいた。
「エレナ様は風の力で魔物の動きを崩して、ガルド様は炎の剣で攻撃されたんでしょうか」
「話を聞く限り、そうみたいだね」
「お二人とも、本当に強いんですね……!」
リリアは嬉しそうに微笑んだ。
「私も、いつかあんなふうに人を守れるようになりたいです」
「まずは神官になること、だね」
「はい!」
リリアは力強く頷いた。
その笑顔を見て、アルジェナも小さく笑った。
旅の途中で、何度も見てきた表情だった。
困っている人を見つければ、放っておけない。
誰かが傷つけば、自分にできることを探そうとする。
そんなリリアだからこそ、アルジェナは一緒に旅をしてきた。
これからも、できることなら――。
「……アルジェナさん?」
「ん?」
「どうかしましたか?」
「ううん。なんでもないよ」
アルジェナは首を振った。
今は、そんな先のことを考えていても仕方がない。
まずは、この町で何が起きているのかを確かめなければ。
そう思って視線を戻したとき、すぐそばに立つ女と目が合った。
淡い色の長い髪。
旅人のような簡素な服装。
先ほど再会したときと変わらず、女は穏やかな表情を浮かべていた。
「大変なことになったわね」
女が静かに口を開いた。
「ええ。でも、魔物は倒されたみたいです」
リリアが答える。
「そう。それならよかったわ」
女は微笑んだ。
その声は穏やかだった。
ただ、アルジェナは女の表情に、ほんの僅かな違和感を覚えた。
魔物が町に迫り、城壁が壊れ、負傷者まで出た。
それなのに、女はまるで他人事のように落ち着いている。
もちろん、恐怖の表し方は人それぞれだ。
それだけで怪しむのは、考えすぎかもしれない。
「あなたも、怪我はありませんでしたか?」
リリアが尋ねる。
「ええ。私は大丈夫よ。ありがとう」
「よかったです」
リリアは安心したように微笑んだ。
アルジェナは、それ以上女を問い詰めなかった。
今は、町の状況を把握することのほうが先だ。
そのとき、近くを通りかかった住民が、興奮した様子で話し始めた。
「北門にいた騎士から聞いたんだが、聖徒様と聖騎士様の連携は見事だったらしいぞ!」
「本当か?」
「ああ! 風で魔物の動きを崩して、そこへ炎の剣を叩き込んだんだと!」
リリアの顔がぱっと明るくなる。
「やっぱり、すごい方たちなんですね!」
「そうだね」
アルジェナも頷いた。
リリアは、聞いたばかりの二人の活躍について話し始めた。
風で魔物の動きを崩し、炎を纏った剣で攻め立てる。
詳しい戦いの様子は分からなくても、二人が力を合わせて町を守ったことは伝わっていた。
アルジェナも相槌を打ちながら、リリアの話に耳を傾ける。
その間に、女は静かに二人のそばを離れていた。
アルジェナは気づかなかった。
リリアもまた、話に夢中になっていた。
*
やがて、二人は避難場所から宿へ戻ることを許された。
町の騎士たちが、危険が去ったことを住民へ伝えて回っていたからだ。
通りでは、少しずつ人々が動き始めていた。
店先では片付けが始まり、避難していた住民たちも家へ戻り始めている。
まだ不安そうな表情の人もいたが、先ほどまでの混乱は落ち着きつつあった。
「今日は大変な一日でしたね」
リリアが呟く。
「うん。でも、二人とも無事でよかった」
「はい」
リリアは頷いた。
そして、またエレナとガルドの話を始めた。
どれほど強かったのか。
どんな戦い方をしたのか。
自分もいつか、あんなふうに人を守れるようになりたい。
アルジェナは相槌を打ちながら、周囲へ目を向けていた。
町の人々は、少しずつ普段の生活を取り戻そうとしている。
誰もが、今日の危機を乗り越えたのだと思っている。
明日になれば、またいつもの日常が戻ってくる。
そんなふうに考えているのだろう。
「アルジェナさん?」
「……ん?」
「聞いてますか?」
「聞いてるよ。エレナ様とガルド様がすごかったって話でしょ?」
「もう! そこだけじゃありません!」
リリアが頬を膨らませる。
アルジェナは思わず笑った。
「ごめん、ごめん」
「まったく……」
リリアも、すぐに笑顔を取り戻した。
その姿を見て、アルジェナは少しだけ安心した。
今日は大変な一日だった。
けれど、二人とも無事だった。
それだけで、今は十分だった。
――そのときだった。
轟音が、町の中心部に響き渡った。
「きゃっ!?」
突然の衝撃に、リリアが身をすくめる。
建物の向こうから、黒煙が立ち上った。
遅れて、窓ガラスの砕ける音や、人々の悲鳴が聞こえてくる。
「な、何……!?」
アルジェナは、すぐさま腰の剣に手をかけた。
先ほどまでの安堵は、跡形もなく消えていた。
三級魔物は倒されたはずだ。
それなのに、何が起きた?
「アルジェナさん……!」
「リリア、私の後ろに!」
アルジェナは爆発が起きた方向を見つめた。
黒煙の向こう。
その中に、淡い髪の女の姿が見えた気がした。
「……まさか」
次の瞬間。
再び、空気が震えた。
女の周囲に、異様な力が渦巻いている。
それは、アルジェナがこれまで感じたことのない力だった。
女の表情から、穏やかさは消えていた。
その顔に浮かんでいたのは、焦りと、切実な願い。
「……お願いだから」
女の声が、震える。
「今度こそ……帰らせて」
その瞬間、女を包む力が一気に膨れ上がった。
――ベルネア町の悲劇が、始まった。




