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第二十九話 生きるための逃走

アルジェナが旅に出てから、四か月ほどが経っていた。


最初の頃は戸惑うことも多かった一人旅も、今では少しずつ慣れてきていた。


宿を探すこと。


食料を買うこと。


旅に必要な金を稼ぐこと。


一人で旅を続けるために必要なことを、アルジェナは少しずつ覚えていった。


そして――旅に慣れてきたからこそ、少しずつ油断も生まれていた。



その日も、アルジェナは街道を歩いていた。


次の町へ向かう途中、街道から外れた森を見つける。


森を抜ければ、街道をそのまま進むよりも早く次の町へ着く。


けれど、森の中は魔物が出やすい。


それはアルジェナも知っていた。



「……どうしようかな」



少しだけ考える。


これまで大きな問題なく旅を続けてこられたことが、アルジェナの判断を少しだけ鈍らせた。



「……大丈夫でしょ」



そう呟いて、森へ入った。



今まで何度も魔物と戦ってきた。


第五級なら、一人でも倒せる。


危険を感じれば、逃げることもできる。



――だから、大丈夫。



そう思っていた。



それが、ほんの少しの油断だった。



森の中をしばらく歩く。


鳥の声が聞こえる。


木々の間から差し込む陽の光。


一見すると、いつもと変わらない森だった。



――その時。



ガサッ。



前方の茂みが揺れた。



アルジェナの足が止まった。



茂みの奥から、一頭の魔物が姿を現す。



――大きい。



四メートル近くはある。


四足で立ったその身体は、熊にも似ていた。


けれど、熊よりも脚は長く、身体は低い。


灰黒い皮膚。


太い前脚には、アルジェナの腕ほどもある鋭い爪が並んでいる。


そして額には、一本の太い角が生えていた。



「……っ」



アルジェナの手に、自然と力が入った。



今まで戦ってきた魔物とは、明らかに違う。



魔物がゆっくりと顔を上げる。



赤い目が、アルジェナを捉えた。



その瞬間。



背筋に、冷たいものが走った。



怖い。



そう感じた。



これまで何度も魔物と戦ってきた。


第五級なら、一人でも倒せる。



けれど――



目の前の魔物から感じる威圧感は、今までとはまるで違った。



アルジェナは、ヴァルドから聞いた魔物の等級を思い出す。



第五級。


その一つ上が、第四級。



大きさだけなら――



「……第四級、くらい……?」



声が、わずかに震えた。



魔物が、一歩前へ出る。



ズンッ。



地面が、わずかに揺れた。



アルジェナは反射的に、一歩下がった。



魔物が低く唸る。



その身体が、ゆっくりと沈んだ。



「……来る」



次の瞬間――



地面を蹴った。



「――っ!」



速い。



アルジェナは咄嗟に身体を横へ投げ出した。


爪が、目の前を通り過ぎる。



「……!」



アルジェナはすぐに立ち上がった。



魔物がこちらを振り返る。


その動きに迷いがない。



アルジェナは剣を構え直した。



一度、斬り込む。



ガキンッ!



刃が弾かれた。



「……っ」



腕に痺れが走る。



距離を取る。



魔物は追ってこなかった。



アルジェナも動かない。



剣を構えたまま、魔物の動きを見る。


右足。


左足。


呼吸。


視線。



魔物が、ゆっくりと身体の向きを変えた。



アルジェナも、それに合わせて動く。



魔物の視線が、自分から外れない。



少しずつ距離を取る。


魔物も動く。



「……どうする」



正面から戦えば、勝てない。


それは、もう分かっている。



けれど、背を向ければ追われる。



どうすれば――。



アルジェナの視線が、腰に下げた小袋へ向いた。



「……これなら」



袋から取り出したのは、強い匂いを放つ乾燥薬草だった。



アルジェナは、それを握りしめた。



魔物の視線は、まだ自分を捉えている。



アルジェナはじりじりと後ろへ下がった。



一歩。


また一歩。



そして――



小袋を地面へ投げつけた。



バサッ!



乾燥した薬草が地面に散らばる。



強い匂いが、風に乗って広がった。



魔物が一瞬、顔をしかめる。



「今だ!」



アルジェナは踵を返した。



森の奥へは向かわない。


来た道を戻り、街道へ向かって走る。



背後から、魔物の唸り声が響いた。



追ってくる。



アルジェナは振り返らない。



木々の間を抜ける。


前方に、光が見えた。



街道だ。



アルジェナは最後の力を振り絞って走った。



森を抜けた瞬間――



魔物の足音が止まった。



「……はぁ……はぁ……」



アルジェナは膝に手をついた。


荒い息を整えながら、ゆっくりと森を振り返る。



魔物の姿はない。



しばらく待っても、出てくる気配はなかった。



「……逃げた」



悔しかった。



魔物と戦って、勝てないと判断して、自分から逃げた。



今までなら、誰かを守るために戦っていた。


けれど今回は違う。



「……生きるために、逃げたんだ」



アルジェナは、自分の剣を見つめた。



悔しさは消えない。



それでも――



「……まだ、死ねない」



その時だった。



アルジェナは、ふとヴァルドの言葉を思い出した。



――一人で旅をするのは、思っているより大変だぞ。



旅立つ前に言われた言葉だった。



あの時は、きっと大丈夫だと思っていた。


剣も使える。


魔物とも戦える。


旅に必要なことも、少しずつ覚えてきた。



けれど。



「……一人って、こんなに大変なんだ」



アルジェナは、小さく呟いた。



今日みたいに、自分より強い魔物と出会うこともある。


怪我をしても、誰かが助けてくれるとは限らない。


怖くても、悔しくても――自分で決めなければならない。



それでも。



アルジェナは、森を振り返った。



そして、ふと思い出す。



第四級以上の魔物を確認した場合は、近くの町や村へ知らせる決まりになっている。


魔物がその場を離れたとしても、放置してはいけない。


再び人里へ現れる可能性があるからだ。



「……町に知らせないと」



自分では倒せなかった。


だからこそ、誰かに伝えなければならない。



アルジェナは剣を鞘へ戻した。



そして、街道へ向かって歩き始めた。



一人で旅をすると決めたのは、自分自身だ。



「……頑張ろう」



アルジェナは、街道の先へ歩き始めた。



悔しさは、まだ消えない。



森を近道に選んだこと。


魔物が出ると分かっていたのに、少し油断していたこと。



「……次は、気をつけよう」



小さく呟く。



それでも――



今は、生きている。



それだけでよかった。

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