第二十七話 残された場所
アルジェナが旅立ってから、三日が過ぎた。
森は、いつもと変わらなかった。
鳥の声。
木々を揺らす風。
遠くから聞こえる魔物の気配。
何も変わっていない。
それなのに――
ヴァルドには、いつもより静かに感じられた。
「……静かすぎるな」
誰に言うでもなく呟く。
家の中へ戻る。
いつもなら、アルジェナが剣を振っている音が聞こえていた。
朝早く起きれば、庭にいる。
食事を作っていれば、隣で何かを手伝っている。
森へ行けば、少し先を歩いている。
そんな日々が、当たり前になっていた。
だが今は――
家の中に、ヴァルド一人しかいない。
「……そうか」
ヴァルドは椅子に腰を下ろす。
アルジェナが使っていた椅子は、空いたままだった。
最初に出会ったときのことを思い出す。
まだ八歳だった。
小さな身体で剣を握り、魔物を倒すと言っていた。
父親から剣の基礎を教わっていたらしく、構えや足運びにはすでに基礎があった。
それでも、実際に魔物と戦うための経験はなかった。
ヴァルドが教えたのは、そこから先だった。
魔物との距離。
相手の動きを読むこと。
攻撃を受けないための動き。
そして――
生き残るための剣。
あの頃のアルジェナは、まだ知らないことが多かった。
それでも、教えればすぐに吸収した。
何度失敗しても、立ち止まらなかった。
最初の魔物との戦い。
聖剣に選ばれなかったとき。
擬聖剣にも選ばれなかったとき。
悔しくて泣いたこともあった。
それでも、剣を置かなかった。
「……あの頃から、変わってないな」
人を守りたい。
その気持ちだけは、今も変わっていない。
ヴァルドは立ち上がり、庭へ出る。
そこには、アルジェナが何度も剣を振った場所がある。
地面には、長い間使われた跡が残っていた。
最初の頃は、父親から教わった基礎を土台に、ヴァルドの動きを必死に吸収していた。
少しずつ動きが速くなった。
魔物の動きを見るようになった。
ただ斬るのではなく、相手の次の動きを考えるようになった。
そしていつの間にか――
ヴァルドが教えた動きを、そのまま真似するのではなくなっていた。
「自分の剣を見つけたか」
ヴァルドは小さく呟いた。
ふと、家の壁に立てかけてある木剣が目に入る。
アルジェナが昔使っていたものだった。
ヴァルドはそれを手に取る。
軽い。
今のアルジェナなら、もう軽すぎると感じるだろう。
「これを振っていたんだよな」
小さく笑う。
最初は父親から教わった剣だった。
その続きを自分が教えた。
だが、いつからか――
アルジェナは自分の剣を振るようになっていた。
ヴァルドは木剣を元の場所へ戻した。
「俺が教えたことより……」
少しだけ間を置く。
「自分で見つけたもののほうが、ずっと多いかもしれんな」
アルジェナはもう、ヴァルドの弟子というだけではない。
自分で考え、自分で判断し、自分の剣を振ることができる。
だからこそ、ヴァルドは送り出した。
それでも――
心配ではあった。
十四歳。
一人で旅をするには、まだ若い。
強くなったとはいえ、世界には自分が知らないほど強い魔物もいる。
人間だって、すべてが善人というわけではない。
そして、もう一つ。
ヴァルドには、気がかりなことがあった。
アルジェナの中にある、魔物への憎しみだ。
故郷を奪われたあの日から、アルジェナは魔物を倒すことを望んでいた。
人を守りたいという気持ちは本物だ。
それでも、その奥には――
自分の両親や故郷を奪った魔物への、消えない怒りがある。
「……あいつは、まだ忘れていないだろうな」
ヴァルドは小さく呟く。
剣を握る理由が、人を守るためだけならいい。
だが、もし憎しみに引っ張られれば――
強くなった剣は、守るためではなく、復讐するための剣になってしまうかもしれない。
「……アルジェナ」
ヴァルドは森の向こうを見る。
あの子は、自分が思っている以上に強くなった。
だからこそ、心配だった。
強さは、人を守ることもできる。
だが――
使う者の心次第で、別のものにもなってしまう。
ヴァルドは、アルジェナが旅立つ前の言葉を思い出す。
『人を守るために』
あの言葉を信じたい。
いや――
信じている。
それでも、願わずにはいられなかった。
「……どうか、憎しみに呑まれるなよ」
誰にも届かない声が、静かな森へ消えていった。
それでも、ヴァルドは思う。
いつかアルジェナが、自分の剣ではどうにもならないほどの壁にぶつかる日が来るかもしれない。
そのとき、あの子は何を選ぶのだろう。
守ることか。
それとも――
憎しみか。
「……まあ、あいつなら大丈夫か」
ヴァルドは小さく笑った。
そう思いたかった。
いや。
そう信じることにした。
アルジェナは言った。
『今度は、自分の足で歩いてみたい』
あの言葉を聞いたとき、ヴァルドには分かっていた。
もう、自分が引き止める理由はない。
アルジェナはずっと、ここから先へ進むために剣を学んできた。
いつか、自分のもとを離れていく日が来る。
それは分かっていた。
それでも――
「いつでも帰ってこい」
あの言葉だけは、本心だった。
旅に疲れたなら帰ってくればいい。
傷ついたなら帰ってくればいい。
何かを失って、どうすればいいのか分からなくなったなら――
それでも帰ってくればいい。
ここには、帰る場所がある。
ヴァルドは窓の外を見る。
森の向こう。
そのさらに先には、アルジェナが歩いている。
「……アルジェナ」
小さく名前を呼ぶ。
返事はない。
それでも、ヴァルドは続けた。
「自分の剣を信じろ」
「それから――」
少しだけ笑う。
「無茶だけはするなよ」
風が吹いた。
木々が揺れる。
ヴァルドはしばらく森を眺めていた。
かつて、自分もここを離れた。
聖騎士を辞めたとき。
自分にはもう、人を守る資格がないと思っていた。
聖剣に選ばれなかった。
それだけで、自分の価値まで失ったような気がしていた。
だが――
アルジェナと過ごした時間が、その考えを変えてくれた。
選ばれなくても、剣は振れる。
聖剣がなくても、人を守ることはできる。
そして――
誰かに選ばれなくても、自分自身で進む道を選ぶことはできる。
「……俺も、教えられたのかもしれんな」
ヴァルドは空を見上げた。
アルジェナは、もうここにはいない。
それでも、この家には彼女が過ごした時間が残っている。
庭にも。
森にも。
そして――
ヴァルドの中にも。
「行ってこい」
今度は、誰にも聞こえないほど小さな声だった。
「アルジェナ」
「お前の旅を、お前自身の足で歩いてこい」
ヴァルドは家の中へ戻る。
空いた椅子を見て、少しだけ足を止める。
それから――
いつものように、椅子を元の位置へ戻した。
アルジェナがいつ帰ってきてもいいように。
森の家には、今日も静かな時間が流れていた。




