第二十五話 旅立ちの前
それから、二年の月日が流れた。
アルジェナは、十四歳になっていた。
剣を握る姿には、もう幼い頃の面影はほとんど残っていない。
森を歩く足取りも、魔物を見据える目も、かつてとは比べものにならないほど落ち着いていた。
それでも、アルジェナが剣を握る理由だけは変わっていなかった。
人を守るため。
そのために、強くなる。
その思いだけを胸に、アルジェナは十四歳の春を迎えていた。
この二年間、アルジェナは何度か聖剣選別を受けた。
一度だけではない。
選別を受ける機会が訪れるたびに王都へ向かい、聖剣の前に立った。
けれど――
その結果が変わることはなかった。
聖剣は、アルジェナを選ばない。
擬聖剣の選別にも、何度か挑戦した。
だが、どの擬聖剣もアルジェナを選ぶことはなかった。
最初の頃は、選別から戻るたびに悔しかった。
なぜ自分は選ばれないのか。
自分には何が足りないのか。
何度も考えた。
それでも、アルジェナは剣を置かなかった。
選ばれなくても、人を守ることはできる。
それは、ヴァルドから教わったことだった。
そして今では、それを自分自身の経験として理解していた。
「そこだ!」
ヴァルドの声が森に響く。
アルジェナは地面を蹴った。
目の前には、一匹の第五級魔物。
以前なら、正面から斬りかかっていた。
だが、今は違う。
魔物の足。
呼吸。
視線。
その一つ一つを見ながら、次の動きを読む。
魔物が踏み込んだ瞬間、アルジェナは横へ身をかわした。
鋭い爪が、目の前を通り過ぎる。
そのまま懐へ入り込み、剣を振り抜いた。
魔物が地面に倒れる。
アルジェナはすぐに周囲を見回した。
他に魔物はいない。
それを確認してから、ゆっくりと剣を下ろした。
「……終わった」
「そうだな」
少し離れた場所で見ていたヴァルドが歩いてくる。
「どうだった?」
「前より、ずっと楽に戦えた」
「そうだろうな」
ヴァルドは倒れた魔物を見る。
「お前はもう、第五級相手なら一人でも問題ない」
「……本当に?」
「ああ」
アルジェナは少し嬉しそうに笑った。
それからも、二人は森で戦い続けた。
十三歳になった頃には、アルジェナが一人で第五級魔物を倒すことも珍しくなくなっていた。
町へ向かう途中で魔物と遭遇すれば、自分から前に出る。
旅人を見つければ、周囲を警戒する。
誰かが怪我をしていれば、まず安全を確認してから助ける。
ただ魔物を倒すだけではない。
どうすれば誰も傷つかずに済むのか。
どこで戦えば、人に被害が及ばないのか。
戦うべきなのか、それとも逃げるべきなのか。
アルジェナは、一つずつ自分で考えるようになっていた。
「……変わったな」
ある日の夕方。
森から戻る途中、ヴァルドがぽつりと言った。
「私が?」
「ああ」
ヴァルドは前を向いたまま続ける。
「昔のお前は、魔物を見れば倒そうとしていた」
「……そうだったね」
「今のお前は違う」
アルジェナは少し考える。
「……守るために、どうするかを考えるようになった」
「そういうことだ」
アルジェナは自分の剣を見る。
父から教わった剣の基礎。
ヴァルドから教わった技術。
そして、自分自身で積み重ねてきた経験。
そのすべてが、今のアルジェナの剣になっていた。
その夜。
ヴァルドの家の外で、アルジェナは一人で剣を振っていた。
何度も、何度も。
最後の一振りを終えると、静かに剣を鞘へ収める。
そこへ、ヴァルドが家の扉から出てきた。
「まだやっていたのか」
「うん」
「もう十分だ。今日は休め」
「……ねえ、ヴァルドさん」
「なんだ?」
アルジェナは少しだけ迷ってから口を開いた。
「私、もう十四歳だよね」
「ああ」
「だったら……」
アルジェナは森の向こうを見る。
その先には、まだ見たことのない場所がある。
まだ知らない人々がいる。
まだ見たことのない魔物もいる。
「私、もっといろんな場所を見てみたい」
ヴァルドは何も言わず、アルジェナを見る。
「ここで教えてもらったことを、自分で試してみたい」
「……そうか」
「怖くないわけじゃないよ」
アルジェナは自分の剣に手を添える。
「でも……もう、いつまでもヴァルドさんの後ろにいるだけじゃ駄目だと思う」
ヴァルドはしばらく黙っていた。
やがて、静かに息を吐く。
「……そうだな」
「ヴァルドさん?」
「お前はもう、自分で考えて、自分の剣を振れる」
ヴァルドはアルジェナを見る。
「俺が教えられることも、ずいぶん少なくなった」
「……じゃあ」
「ああ」
ヴァルドは少しだけ笑った。
「そろそろ、自分の足で歩いてみてもいいだろう」
アルジェナは目を見開く。
そして――笑った。
「うん!」
翌朝。
アルジェナは旅立つための荷物をまとめていた。
必要な食料。
水。
簡単な薬。
そして、普段使っている自分の剣。
一つ一つ確認していく。
最後に、部屋の隅に置いていた一本の剣へ手を伸ばした。
父から受け継いだ剣だった。
村が滅びたあの日から、ずっと大切にしてきた。
父が最後まで握っていた剣。
そして、あの日のアルジェナが瓦礫の中から拾い上げた剣。
今では、普段の戦いに使うことはない。
それでも――
この剣だけは、手放すことができなかった。
アルジェナはしばらく、その剣を見つめる。
「……お父さん」
小さく呟いた。
父に教えてもらった剣。
父が守ろうとしてくれたもの。
その記憶は、今もアルジェナの中に残っている。
アルジェナは父の剣を丁寧に鞘へ収め、荷物の中へしまった。
「忘れ物はないか?」
外からヴァルドの声が聞こえる。
「うん!」
アルジェナは荷物を背負い、家の外へ出た。
ヴァルドが待っている。
「無理はするな」
「分かってる」
「危険な魔物を見つけたら、無理に戦うな。逃げることも剣士の判断だ」
「うん」
ヴァルドはしばらくアルジェナを見る。
「……強くなったな」
「ヴァルドさんのおかげだよ」
「違う」
ヴァルドは首を横に振った。
「ここまで来たのは、お前自身の力だ」
アルジェナは少しだけ目を伏せる。
そして、顔を上げた。
「ヴァルドさん」
「なんだ?」
「私、そろそろ行こうと思う」
「ああ」
「今度は、自分の足で歩いてみたい」
ヴァルドは静かに頷いた。
「……行ってこい、アルジェナ」
「うん」
アルジェナは笑った。
「行ってきます」
ヴァルドは歩き出そうとするアルジェナを呼び止める。
「アルジェナ」
「?」
「いつでも帰ってこい」
アルジェナは振り返った。
「……帰ってきても、いいの?」
「当たり前だ」
ヴァルドは少し笑う。
「ここは、お前の家でもあるんだからな」
その言葉を聞いて、アルジェナはしばらく何も言えなかった。
八歳のあの日。
故郷を失った。
帰る場所もなくなったと思っていた。
けれど――
いつの間にか、自分には帰る場所ができていた。
魔物から逃げて辿り着いた場所。
剣を教えてもらった場所。
何度も笑って、何度も泣いた場所。
そして、ヴァルドが待っていてくれる場所。
「……うん」
アルジェナは小さく笑った。
「ありがとう」
そして、今度こそ歩き出す。
何度振り返っても、ヴァルドはそこにいた。
アルジェナは小さく手を振る。
ヴァルドも、静かに手を上げた。
八歳のあの日。
故郷を失い、何も分からないまま町を目指した少女は――
十四歳になった今、自分自身の意思で歩き始める。
人を守るために。
自分の剣で、誰かを守るために。
まだ見ぬ世界へ。
まだ知らない人々のもとへ。
そして――
この先で待ち受ける、数え切れない出会いと戦いへ。
アルジェナは、まだ知らない。
この旅の先で、自分が何を選ぶことになるのか。
何を失い、何を手にすることになるのか。
そして――
その選択が、やがて世界を大きく変えることになることを。
春の風が、少女の背中を押す。
銀色の髪を揺らしながら、アルジェナは歩いていく。
その先に待つ運命を、まだ何も知らないまま。
――それが、すべての始まりだった。




