第二十二話 積み重ねたもの
春が過ぎ、夏が来た。
森の木々は青々と葉を茂らせ、朝になると鳥たちの声が響いていた。
木々の隙間から差し込む日差しも、少しずつ強くなっている。
アルジェナがヴァルドのもとで暮らし始めてから、四度目の夏だった。
あの日、魔物に故郷を奪われた少女も、十二歳になった。
八歳だった頃よりも背は伸び、手足もすらりと伸びている。
肩まで伸びた銀色の髪が、夏の風に揺れていた。
幼さの残る顔立ちは少しずつ変わり、以前よりも大人びた表情を見せるようになっている。
それでも、その瞳に宿る強さだけは、あの日から変わっていなかった。
今では毎朝、自分から剣を手に取る。
朝露の残る森の中。
アルジェナは一人、木剣を振っていた。
「……っ!」
一振り。
二振り。
三振り。
額に汗が浮かぶ。
それでも、アルジェナは手を止めない。
足を踏み込み、身体を回し、木剣を振り抜く。
以前なら、何度も振れば腕が疲れていた。
今では疲れを感じても、自分で動きを修正しながら続けられる。
「……もう一回」
アルジェナは息を整え、再び構えた。
少し離れた木の陰から、ヴァルドがその姿を見ていた。
何も言わず、ただ静かに見守っている。
しばらくして、アルジェナが木剣を下ろした。
「……ふぅ」
汗を拭う。
「今日はここまでにするか」
「まだできます」
「無理をするな」
「でも……」
「強くなることと、無茶をすることは違う」
「……はい」
アルジェナは少しだけ不満そうな顔をした。
ヴァルドはそんな彼女を見て、わずかに笑う。
「休むのも修行だ」
「……分かりました」
二人は森の中を歩き始めた。
夏の森には、春とは違う匂いがあった。
湿った土。
青々とした草。
木々の間を吹き抜ける、少し暖かな風。
鳥の声が遠くから聞こえる。
アルジェナは歩きながら、周囲を見渡した。
「夏って、こんなに暑かったっけ?」
「去年も暑かっただろう」
「そうだっけ?」
「覚えていないのか」
「修行のことばっかり考えてたから」
「……それはそれで問題だな」
「え?」
「季節くらい覚えておけ」
「ふふっ」
アルジェナが笑う。
ヴァルドも小さく笑った。
そんな二人の前に――
ガサッ。
茂みが揺れた。
アルジェナの表情が変わる。
すぐに足を止めた。
「……魔物?」
ヴァルドも周囲を見る。
「いるな」
二人が慎重に進む。
すると、木々の間から魔物が姿を現した。
第五級。
四本の脚。
灰褐色の毛。
額から伸びた一本の角。
鋭い牙と爪を持つ獣のような魔物だった。
アルジェナは剣を抜く。
「私がやります」
ヴァルドは頷いた。
「任せる」
魔物が低く唸る。
アルジェナは構えた。
以前なら、魔物が動いた瞬間に自分も動いていた。
だが今は違う。
相手を見る。
足。
呼吸。
視線。
身体の向き。
魔物が右前脚を引いた。
「……来る」
次の瞬間。
魔物が地面を蹴った。
アルジェナは正面から受け止めない。
身体を横へ滑らせる。
爪が目の前を通り過ぎた。
そのまま魔物の横を抜ける。
「そこ!」
アルジェナが剣を振る。
魔物がよろめく。
すぐに振り返り、再び襲いかかってくる。
アルジェナは一歩下がる。
そして、魔物が踏み込んだ瞬間――
横へ。
また横へ。
真正面から戦わず、相手の動きを利用して位置を変える。
魔物が苛立ったように吠えた。
「……焦ってる」
アルジェナは魔物の動きを見る。
大きく身体を振った。
その瞬間。
「今!」
アルジェナが踏み込む。
剣が魔物を捉えた。
魔物は数歩よろめき、そのまま地面に倒れた。
アルジェナは剣を下ろした。
荒い息を整える。
「……倒せた」
ヴァルドが歩いてくる。
「よく見ていたな」
「うん」
「以前なら、最初の攻撃を受けていただろう」
「……そうだね」
アルジェナは倒れた魔物を見る。
「私、強くなったかな?」
「ああ」
ヴァルドは即答した。
「確実にな」
アルジェナは少し驚いたように目を開いた。
そして、嬉しそうに笑った。
「……そっか」
ヴァルドは森の奥へ視線を向ける。
「だが、強くなったからこそ、これからはもっと厳しい相手とも戦うことになる」
「第四級とか?」
「ああ」
アルジェナは少しだけ緊張した顔になる。
以前、第四級の魔物と戦うヴァルドを見た。
自分とはまるで違う強さだった。
「私も、いつか倒せるかな」
「いつかはな」
「……いつか」
アルジェナは、その言葉を噛みしめるように呟いた。
そして、自分の剣を見る。
聖剣ではない。
擬聖剣でもない。
父から教わったものを土台にして、ヴァルドから学び、自分自身で積み重ねてきた剣。
「私、この剣でどこまで行けるんだろう」
ヴァルドは答えなかった。
ただ、アルジェナの隣を歩いた。
森を抜けると、強い夏の日差しが二人を照らした。
遠くでは虫の声が響いている。
アルジェナは空を見上げた。
「……夏だね」
「ああ」
「また来年も、一緒に夏を見られるかな」
ヴァルドは一瞬だけ黙った。
そして――
「さあな」
「え?」
「未来のことは分からん」
「なんだ、それ」
アルジェナが笑う。
ヴァルドも、ほんの少しだけ笑った。
「だが――」
ヴァルドは前を向いた。
「今は、今できることをやればいい」
「……うん」
アルジェナも前を向く。
春に芽吹いた木々は、今では深い緑に包まれている。
季節が変わるたびに、森の景色も変わっていく。
そして――
アルジェナもまた、少しずつ変わっていた。
八歳の頃より背は伸びた。
剣を握る手も強くなった。
魔物を前にしても、ただ恐れるだけではなくなった。
それでも、まだ十二歳。
一人で世界を歩けるほど強くはない。
だからこそ、今はまだ。
師の背中を追いながら、自分の剣を磨いていく。
父から受け継いだ剣を握り。
ヴァルドから学んだことを胸に刻み。
自分自身の力を積み重ねていく。
その先に、どんな未来が待っているのか。
この時のアルジェナは、まだ知らなかった。




