第九話 守るための剣
ヴァルドのもとで暮らし始めてから、さらに数か月が過ぎた。
アルジェナは毎日のように剣を振り続けていた。
以前とは違い、木剣を振る姿にも少しずつ力強さが出てきている。
「せいっ!」
木剣が空を切る。
「もう一度」
「うん!」
アルジェナはすぐに構え直した。
ヴァルドとの鍛錬は厳しかった。
けれど、その分だけアルジェナの剣は少しずつ成長していた。
第五級の魔物であれば、一人でも戦える。
もちろん、油断をすれば危険だ。
それでも、半年前のアルジェナとは明らかに違っていた。
「今日はここまでだ」
「……はぁ……」
アルジェナは木剣を下ろした。
「ちょっと休んでいい?」
「ああ」
アルジェナが木陰で息を整えていると――
「……ん?」
ヴァルドが顔を上げた。
「どうしたの?」
「……今、何か聞こえなかったか?」
アルジェナも耳を澄ます。
遠くから、何かが木々を揺らすような音が聞こえてくる。
「……なんだろう?」
「分からんな」
ヴァルドは立ち上がった。
その直後、森の奥から鳥たちが一斉に飛び立った。
「鳥が……」
「何かに驚いたんだろう」
ヴァルドは森の奥へ目を向ける。
「少し様子を見てくる」
「私も行く」
「……分かった。ただし、俺の後ろから離れるな」
「うん」
二人は音のした方向へ歩き始めた。
しばらく進むと、木の幹に新しい爪痕が残されているのが見えた。
ヴァルドが足を止める。
「……魔物だ」
「魔物……?」
「ああ。しかも、かなり新しい」
ヴァルドは周囲を見渡した。
「この辺りに、普段はいない魔物が入り込んだようだ」
その時だった。
今度は、はっきりと馬車の音が聞こえてきた。
ガラガラと車輪が地面を削る音。
「……馬車?」
アルジェナが耳を澄ます。
ヴァルドは眉をひそめた。
「この森に馬車が入ってくるとはな」
「珍しいの?」
「ああ」
ヴァルドは音のする方へ目を向ける。
「町へ向かうなら、普通は街道を使う」
「じゃあ、どうして?」
「近道をしようとしているんだろう」
「近道?」
「この森を抜ければ、街道を大きく迂回せずに済む」
ヴァルドは剣に手をかけた。
「だが、この森には魔物がいる」
「……!」
二人がさらに進むと、木々の向こうに一台の馬車が見えた。
馬を操っているのは一人の男。
その隣には、幼い子供が座っている。
「お父さん……」
「大丈夫だ。もう少しだけ頑張れ」
男はそう言って、手綱を握り直した。
どうやら親子で町へ向かっているようだった。
その時――
森の奥から、低い唸り声が響いた。
「……!」
馬が突然、足を止める。
「どうした!?」
男が慌てて手綱を引く。
「お父さん……今の、何?」
子供が不安そうに父親を見る。
ヴァルドの表情が変わった。
「……まずい」
アルジェナも剣へ手を伸ばす。
「魔物……?」
「ああ」
ヴァルドは森の奥を睨んだ。
「しかも、近い」
次の瞬間。
茂みから、一匹の魔物が飛び出した。
大きな身体。
鋭い爪。
第五級の魔物だった。
馬が怯えて嘶く。
「うわっ!」
男が必死に手綱を握る。
「アルジェナ!」
「うん!」
「俺は奥を確認する!」
ヴァルドは森の奥へ視線を向けた。
「この魔物より、厄介な気配がある」
「え?」
「こいつは任せる!」
そう言い残し、ヴァルドは森の奥へ駆けていった。
アルジェナは魔物を見る。
「……任せるって……」
魔物が唸り声を上げる。
アルジェナは剣を構えた。
「私にできるってことだよね」
魔物が飛びかかってくる。
アルジェナは横へ踏み込んだ。
爪が目の前を通り過ぎる。
「……よく見る」
ヴァルドに教えられた言葉を思い出す。
足の動き。
身体の向き。
呼吸。
アルジェナは魔物の動きを見極める。
そして――
剣を振り抜いた。
魔物が地面へ倒れる。
アルジェナは荒い息を吐きながら、剣を握り直した。
「……倒した」
男と子供が呆然とアルジェナを見る。
「今のを……一人で?」
「はい」
アルジェナはすぐに二人へ向き直る。
「早く! 街道まで行きましょう!」
「街道へ?」
「はい! そこまで行けば、助けを求められます!」
男は頷いた。
「分かった!」
親子が馬車を離れ、街道へ向かって走り出す。
アルジェナもその後を追う。
その時――
森の奥から、凄まじい轟音が響いた。
「……!」
アルジェナが振り返る。
木々が大きく揺れている。
「ヴァルドさん……?」
次の瞬間。
森の奥から、巨大な影が飛び出した。
「……!」
アルジェナが息を呑む。
そこに現れたのは、先ほどの第五級とは明らかに違う魔物だった。
四本の脚はアルジェナの身体よりも太く、全身を覆う灰黒色の皮膚には、ところどころ黒い亀裂のような模様が走っている。
頭の位置だけでも、アルジェナより高い。
太い牙が口元から覗き、前脚には長く鋭い爪が並んでいた。
そして、その額からは一本の太い角が伸びている。
魔物が低く唸る。
その声だけで、空気が震えた。
アルジェナの手に力が入る。
「……これが……」
ヴァルドが巨大な魔物の前に立っていた。
剣を構え、その目は鋭く魔物を捉えている。
「……第四級か」
その声には、先ほどまでとは違う緊張が混じっていた。
「第五級とは、全然違う……」
「ああ」
ヴァルドは魔物から目を離さない。
「だからこそ、お前が戦う相手じゃない」
魔物が大きく身を低くする。
次の瞬間――
地面を蹴り、一気にヴァルドへ迫った。
ヴァルドが前へ踏み出す。
巨大な魔物と、ヴァルドの剣が正面からぶつかった。
轟音が森に響き渡る。
「アルジェナ!」
ヴァルドが叫ぶ。
「この親子を連れて、街道まで行け!」
「でも――」
「俺はこいつを止める!」
アルジェナは一瞬だけ迷った。
けれど、すぐに頷いた。
「……分かった!」
アルジェナは親子のもとへ駆け寄った。
「こっちです!」
「君はどうするんだ!?」
「私は街道まで一緒に行きます!」
アルジェナは子供の手を引いた。
背後から、魔物とヴァルドがぶつかる轟音が響く。
それでも振り返らない。
今、自分がやるべきことは分かっている。
森を抜け、街道へ出る。
そこまで行けば、この親子は助けを求められる。
アルジェナは二人を連れて、必死に走った。
やがて、木々の隙間から街道が見えてきた。
「……あった!」
街道には、遠くを行き交う馬車の姿も見える。
「ここまで来れば大丈夫です!」
男は息を切らしながら、アルジェナを見る。
「君……本当にありがとう」
「いえ……」
男は深く頭を下げた。
「君がいなかったら、どうなっていたか……」
「お父さん……」
子供がアルジェナの服の裾を掴む。
「お姉ちゃん、ありがとう」
アルジェナは少し驚いた。
「……うん」
「怖かった……」
「もう大丈夫だよ」
アルジェナは子供に笑いかける。
「ここは街道だから。きっと誰かが助けてくれる」
「うん……!」
その時、森の方から足音が聞こえた。
「……!」
アルジェナが振り返る。
木々の間から、ヴァルドが姿を現した。
「ヴァルドさん!」
「無事だったか」
「うん!」
男がヴァルドを見る。
そして、すぐに深く頭を下げた。
「あなたも……本当にありがとうございました!」
「礼はいらん。無事ならそれでいい」
「ですが、あなたがあの魔物を食い止めてくれなければ、私たちは逃げられませんでした」
ヴァルドは小さく頷いた。
「それなら、俺の役目は果たせたな」
男はもう一度、深く頭を下げた。
「本当にありがとうございました」
子供もヴァルドを見る。
「おじちゃんも、ありがとう!」
ヴァルドは少し驚いた顔をした。
「……ああ」
アルジェナが小さく笑う。
男はアルジェナにも頭を下げた。
「お二人とも、本当にありがとうございました」
「気をつけて帰れ」
「はい!」
親子は何度も振り返りながら、街道を歩いていった。
ヴァルドとアルジェナは、その姿が見えなくなるまで見送った。
「……行ったな」
「うん」
アルジェナは小さく息を吐いた。
「ちゃんと帰れるかな」
「街道に出た。あとは他の旅人にも会うだろう」
ヴァルドは静かに頷く。
「大丈夫だ」
「……そっか」
アルジェナは安心したように笑った。
「私、第五級の魔物を一匹倒せた」
「ああ」
「でも、それだけじゃないんだよね」
ヴァルドは頷いた。
「そうだ」
ヴァルドはアルジェナを見る。
「お前は、あの親子も守った」
アルジェナが自分の剣を見る。
「……」
「剣を握る理由は、魔物を倒すことだけじゃない」
アルジェナは剣を握り直した。
「……私、もっと人を守れるようになりたい」
ヴァルドは静かに頷いた。
「ああ。そのために、もっと強くなれ」
夕暮れの森に、二人の影が伸びていた。
アルジェナはまだ知らない。
人を守るということが、魔物を倒すことだけではないということを。
けれど、この日――
彼女は初めて、その意味を知った。




