第一話 労働はクソである
労働はクソである。
いきなり何を言うのか、と思うかもしれない。
ほんとうのことなので仕方がない。
尊い労働。社会を支える労働。自己実現としての労働。人間を成長させる労働。
やかましい。
そういう言葉は、たいてい安全な部屋で椅子に座っている人間が言う。現場で冷却液を浴び、焦げた配線を剥がし、三日寝ていない手でボルトを締めている人間は、そんなことを言わない。
労働はクソである。
少なくとも、カイ・ミナトにとってはそうだった。
銀河外縁造船株式会社、第三整備課、事故対応補助係。
名前だけは硬い。
実態は、壊れた艦の穴を塞ぎ、燃えた機械を直し、上が決めた無茶な納期を現場でなんとかする係だった。
なんとかする。
これがよくない。
部品がない。
人員がいない。
時間がない。
設計図が古い。
マニュアルが間違っている。
発注部品の型番が違う。
そもそも前工程が失敗している。
そういう全部を、最後に現場へ持ってきて、
「そこをなんとか」
と言う。
言った奴の舌を抜いて、冷却配管に詰めたい。
その日も、カイは帝国向け補助輸送艦の推進ノズルの前にいた。
真空整備服を着て、磁気ブーツで艦体に貼りつき、左手で焼けた外装板を押さえ、右手で亀裂に補修材を流し込んでいた。
ノズルの内側には、穴が空いていた。
穴というか、裂け目だった。
裂け目というか、向こうの星が見えていた。
推進ノズルの内側から星が見えるのは、ロマンではない。故障である。かなりまずい故障である。
『ミナト君、そこ、今日中に頼むよ』
ヘルメット内に上司の声が響いた。
トダ主任だった。
管制室からの通信である。
管制室は暖かい。酸素もある。椅子もある。
こちらは真空である。
同じ会社の同じ時間に存在しているとは思えない格差だった。
「無理です」
カイは言った。
『また無理って言う』
「外殻フレームが歪んでます。ノズルだけ塞いでも、推力を上げたら根元から裂けます」
『そこをなんとか』
「なんとかした結果がこれです」
『言い方』
「現象の説明です」
『社会人なんだからさ』
出た。
社会人。
便利な言葉である。
会社が人を雑に扱うときは業務命令。人が嫌だと言うと社会人。だいたい棒である。殴るための棒。
カイは黙って、補修材の圧を下げた。
画面に警告が出る。
《補修材残量、十二パーセント》
足りない。
そもそも足りない。
昨日の時点で申請した。補修材が足りません、フレーム交換が必要です、推進試験を延期してください、と三回送った。
返ってきた答えは、
《確認します》
だった。
確認します。
あれは何もしていない人間が、何かしているように見せるための呪文である。
『あとさ、例の事故処理だけど』
トダの声が、少し低くなった。
『君の確認漏れでまとめるから』
「俺は止めました」
『うん。でも止め方が弱かった』
「止め方が弱い?」
『現場として、もっと強く言えたよね』
「強く言ったら、昨日、主任が“現場判断で遅延させるな”って言いました」
『記録には残ってないよ』
カイは、工具を握る手に力を入れた。
記録には残っていない。
そうだ。
会社では、都合の悪いものは記録に残らない。
残業時間。
口頭指示。
欠陥部品の再利用。
安全確認の省略。
主任の命令。
人間の疲労。
全部、消える。
消えたものは、最初からなかったことになる。
『ミナト君さ』
トダが言った。
『替えの利く整備士が、あまり難しいこと言わない方がいいよ』
替えの利く整備士。
その言葉は、真空より冷たかった。
カイは笑った。
笑うしかなかった。
ヘルメットの中で、笑いが自分の耳に戻ってきた。乾いた音だった。
「分かりました」
『分かってくれると思ってたよ』
「今日で辞めます」
『は?』
「辞めます」
『いや、今それ言う?』
「今です」
『現場が困るよ』
「俺もずっと困ってました」
『感情的になってるだけでしょ』
「感情がなかったら、とっくに動けなくなってます」
カイは補修材のホースを外した。
磁気ブーツの固定を切る。
ばこん、と足が艦体から離れた。
いい音だった。
会社との接続が切れた音だった。
◇
退職処理は早かった。
人を助ける判断は遅いくせに、人を切る判断だけは異様に速い。
カイがドックへ戻ると、ロッカーはすでに開けられていた。端末には契約解除画面が出ていた。
《解除理由:現場指示違反》
《備考:協調性に難あり》
協調性。
協調性とは、雑な命令に黙って従う能力のことである。
カイはサインした。
退職金はなかった。
未払い残業代もなかった。
代わりに、社内食堂の未精算分が差し引かれていた。
《合成プロテインバー:三十二本》
《栄養ペースト:十四袋》
《カフェインゼリー:九個》
最後まで取る。
すごい。
人間から肉を削って、骨まで来たら、骨を粉にして請求する。その精神力だけは立派だった。見習いたくはない。
カイはロッカーから私物を出した。
工具箱。
予備手袋。
折れたスパナ。
密封された小さな種袋。
地球産トマトの種。
母親が昔くれたものだった。
袋には古い字で、品種名が書かれている。
《桃太郎》
強そうな名前である。
ただ、中身は小さな種だった。風が吹けば飛ぶ。水がなければ死ぬ。土がなければ始まらない。
カイはそれを胸ポケットに入れた。
ブラック会社時代の食事は、ほとんど合成プロテインと栄養ペーストだった。
トマト味。
ビーフ味。
海老チリ味。
母の味。
母の味だけは許せなかった。
銀色の袋から出る茶色い泥を、母の味と呼ぶな。
カイはずっと思っていた。
生のトマトを食いたい。
自分で土を触って、苗を植えて、水をやって、赤くなった実をもいで、そのままかじりたい。
皮が歯で破れて、汁が飛んで、種が舌に残るやつ。
それだけでよかった。
銀河を救いたいわけではない。
英雄になりたいわけでもない。
巨大艦を手に入れたいわけでもない。
トマト。
ただ、それだけだった。
◇
退職した翌日、カイは廃棄宙域行きの安い作業艇に乗っていた。
理由は簡単だった。
金がなかった。
家もなかった。
まともな再就職先もなかった。
廃棄宙域には安い居住区画があった。
区画というか、残骸だった。
残骸というか、早い者勝ちだった。
契約書にはこう書いてあった。
《廃棄構造物帯における任意占有権》
分かりにくい。
要するに、宇宙のゴミ捨て場で、使えそうな場所を見つけたら住んでいい、ということだった。
危険である。
安い。
人間は疲れていると、危険より安さを見る。
だから駄目になる。
カイはその駄目になる道を、まっすぐ進んでいた。
《指定宙域に到着》
作業艇の古いAIが言った。
前方スクリーンに、廃棄宙域が映る。
壊れた輸送コンテナ。
折れた太陽光パネル。
穴の空いた燃料タンク。
誰のものか分からない居住リング。
焼けた船首。
半分だけ残ったドック。
それらが、星明かりの中でゆっくり回っていた。
宇宙のゴミは、地上のゴミより偉そうに見える。
落ちないからである。
カイは小さな窓から外を見ていた。
その奥に、黒い影があった。
最初は小惑星だと思った。
次に、違うと思った。
小惑星にしては、直線が多い。
平らな面がある。
装甲板の継ぎ目がある。
塔のような突起がある。
長い谷のような溝がある。
巨大な円筒が横倒しになっている。
近づいても、全体が見えない。
さらに近づく。
まだ端が見えない。
「でか」
思わず声が出た。
ライトを最大にする。
闇の中から、装甲の山脈が現れた。
船だった。
いや、船というには大きすぎる。
都市だった。
だが都市にしては、折りたたまれた腕のような構造物が艦腹に埋まっている。
側面に、かすれた文字が残っていた。
《ARK-NOAH》
アーク・ノア。
作業艇の測定画面が表示を出す。
《推定全長:二十・二キロメートル》
「二十キロ?」
《二十・二キロメートル》
「細かい訂正いらん」
カイは操縦桿を握ったまま、しばらく動けなかった。
全長二十キロの廃棄艦。
ただの船ではない。
外殻には、港のような開口部がある。居住区らしき窓列がある。農業ドームの骨組みらしい透明材が、割れた肋骨みたいに並んでいる。中央には管制塔らしき高い構造物が、折れて斜めに沈んでいた。
止まった都市。
完全には止まっていない。
外壁の奥で、青白い光が一度だけ瞬いた。
作業艇の画面に、古い公的登録情報が割り込んできた。
《照合完了》
《構造物名:アーク・ノア》
《指定:危険廃棄物》
《回収禁止期間:百二十七年》
「回収禁止?」
《本艦は回収・解体・売買を禁止されています》
《ただし、旧移民船法により、生命維持復旧を目的とした緊急立入は例外扱いです》
「例外って、俺みたいな無職も入るのか」
《外部作業者として登録可能です》
「便利な法律だな」
《外部解体申請、三千四百十二件。すべて拒否》
「なんで誰も拾ってないのかと思ったら、拾えなかったのか」
《理由:生命維持区画内に民間登録あり》
カイは窓の外を見た。
黒い艦体の奥に、割れた居住区の窓列が見える。
「まだ誰かいるのか」
《最後の生体反応は百十年前に消失》
「じゃあ、もういない」
《民間登録の解除には、本艦管理AIの承認が必要です》
《管理AI沈黙により、行政処理は停止したままです》
「止まってるかもしれない船の、沈黙したままのAIが返事しないから、百年以上放置か」
《はい》
「役所って宇宙でもクソなんだな」
《否定材料なし》
カイは操縦桿を握り直した。
危険廃棄物。
百年以上、誰も合法的には手を出せなかった二十キロの船。
普通なら帰る。
普通なら、ここで管制局へ通報して終わりである。
ただ、作業艇の残燃料は少なく、カイの預金はもっと少なく、胸ポケットにはトマトの種があった。
そして、この船には農業ドームらしきものが見える。
「……空調、生きてる場所あるか?」
《不明》
「じゃあ見る」
《危険です》
「危険じゃない仕事をくれ」
《ありません》
「知ってた」
カイは作業艇を近づけた。
第三補助格納庫、と読める場所があった。
扉は半分開いている。氷と金属片が噛み込んで、閉じることも開くこともできなくなっていた。




