三章 相生と唆し
最初に「それ」を提案したのは、玄武だった。
庭の北端。
深い霧に包まれた玄武の領域には、鏡のように滑らかな水面を湛えた湖がある。炎の気が立ち込める朱雀の岩場とは真逆の、冷えた静謐が支配する場所だ。
そこへ青龍が飛び込んだ。
バシャっ、と大きな水音が静寂を打ち破る。豪快な水飛沫が上がり、水辺の植物たちが青龍の気に当てられて一気に背を伸ばしていく。
「ねえ、青龍ちゃん。水遊びよりもも~~っと楽しいこと教えてあげようか?」
玄武が鈴を転がすような声で切り出した。
「え~なになに?」
目を輝かせながら、青龍は言葉を待つ。
玄武から与えられる知識は、いつだって楽しいものばかりだから。
「抱きしめてもらえば?」
「……なんで?」
「抱きしめるとね、とても気持ちいいんだって」
「そうなのか?」
「うん。人の世ではね、恋人同士では手を繋いだり抱きしめたり、もっとすごいことだってするんだよ? すごく気持ちいいんだってさ……」
青龍は頭の角をポリポリとかいた。
玄武が何を言わんとしているのか、いまいちよく分からない。
「だからね、してみればぎゅーって。気持ち良かったらその先もしてみて……」
「んーでも朱雀は照れ屋だしなあ……」
「それは朱雀ちゃんが青龍ちゃんのこととっても大好きだからよ! 人の世では、照れ隠しって言うのっ」
「はえー」
物知りな玄武に、青龍はただただ感心する。
「どう? ぎゅっ~~ってしてみない?」
「分かった! やってみる!」
迷いのない返事だった。
それが——追いかけっこの始まりである。
◇
相剋の庭に、時間という概念はない。
昼も夜もなく、四神たちはいつからここに居るのかさえ覚えていない。青龍も、朱雀といつから恋仲になったのかさえも曖昧だ。
事実としてあるのは——この庭があるから朱雀といられる、ということだけだ。
「頑張ってね、青龍ちゃん」
「おうっ!」
親指を立てる玄武に、青龍も親指を立てた。
◇
「抱擁?」
紅蓮の断崖へ足を運んだ玄武に、朱雀は視線すら合わせない。
「そう、青龍ちゃんがね、さみしい~って」
「……」
「ね、だからたまには恋仲らしいことしてみてよっ!」
「……玄武」
呆れにも似た声色で、少女の名を呼ぶ。
「お前は、あいつのことをなにも分かってないな」
「わぉっ! いきなりノロケ?!」
「……あいつはさみしいとかほざくキャラじゃない」
朱雀は確信していた。
この庭の中で、青龍はいつも無邪気で前向きだ。そんな彼女が、さみしいなどと口にするはずがない。だから玄武の発言は的外れであり、確かめるためだけに抱擁をするなんてバカげている——と。
「とにかくあいつに変なことを吹き込むのはいい加減に——」
「お~い朱雀~っ!!」
その言葉は、底抜けに明るい声色に掻き消されてしまう。
「朱雀っ! ぎゅーっ!!」
ドォン。
地鳴りのような低い轟音と同時に、朱雀の身体は青龍によって抱きしめられた。
「ひゃあっ!? おいッバカ離せ……っ!」
青龍は朱雀の首に腕を回す。宝物でも抱きしめるかのように、その身の熱を、柔らかさを確かめるように。
もがく朱雀を、大蛇に絡みつかれたかのようにびくともしない腕が、しっかりと包んでいた。
「お、おぃっ! 青龍……っ!」
二人の熱が交じり合い、みるみるうちに上昇していく。
朱雀の身体の内で——パキリと大きな音が鳴った。
白い首筋から炎が迸る。
まるで血のように赤く、熱く、瞬時に青龍の腕を舐めた。
「あっちっ……!」
突然の熱に、青龍が飛び退いた。
その隙に朱雀は距離をとり、炎を沈下させる。
「……だから離せと」
「ん~全然へーきだって。むしろなんか気持ち良かったし。あっ、これが玄武が言ってた気持ちいいことかっ!」
「……何を言っているんだ、お前は」
衣服は焼き焦げ、瑞々しい肌には火傷の跡が刻まれている。
だというのに、青龍は鼻歌交じりに笑顔を向けていた。
「次はもっと長くしようぜ!」
火傷は、もう既に再生していた。
「誰がするかっ!」
◇
「と、いうわけなの~っ!」
嬉々として語り終えた玄武に、白虎は呆れて言葉を失った。
「お前……また余計なことを……」
「余計なことじゃないわよぉ」
玄武は白虎に向き直り、細い人差し指を一本立てて見せた。
「これは『相生』よ。朱雀ちゃんと青龍ちゃんの相性の良さがなせる業。恋愛は楽しい方がいいじゃない? 青龍ちゃんたちも、ボクたちもっ、ね!」
「お前なあ……」




