18-3:過去と出会い
「君は…」
そこから声帯をキュッと閉められたかのように後が続かなかった。開けた口は閉じる機会を失い、ふわふわと無意味に空気を食べるだけだった。
『さっきも僕と会ったよね?』『ここまで逃げてきたの?』『悪い事でもしたの?』
続けたい言葉が一体どれなのか分からない。もしかしてそのどれでも無いのかも知れない。
(ねえ、僕と……)
意識は凄まじい早さで駆け巡り、シルヴァン自身にも追いつくことが出来ず過ぎて行く。片手は何かを思い出したかのように無意識にポケットを探るが、そこに何の感触も無い。
真黒のフードから覗く、眩いばかりの金髪。そのコントラストが脳内の速度に拍車をかける。街でぶつかったあの時、彼のこの強烈な印象に取り憑かれてしまったのだろうか。
(僕と……)
(僕と……僕は……君と……)
(君は……僕に……?)
(ああ、この髪と同じ、金色の……あの鍵……返そうって思ったのに)
シルヴァンの視界と思考を黒と金が奪い去って行った。
少年はシルヴァンの頭を押さえつけまま息を殺し、真剣な表情で草陰からジッと遠くの何かを見つめていた。その横顔を眼前にシルヴァンは石のように動けなくなっていた。
どうしてこんなに目が離せない。鋭く、力強い瞳。
フードの下から少し覗く瞳は街でぶつかった時も今と同じ表情を湛えていたのだろうか。
シルヴァンには今、少年しか存在していなかった。やがて少年が視線を向けている方向から微かにガチャガチャと金属が擦れるような音と数人の声が聞こえ、次第に大きくなり、程なく遠くに消えて行った。それはシルヴァンのつんと尖った耳にも入ってきたが、奪い去られた脳内では処理されることなくまた出て行ってしまう。一体だれだったのか、どこに行ったのか、何があったのか。もし少年と同じ方向を見て居たら、シルヴァンにもきっとすぐに分かっただろう。少年が何者か、どうして隠れたのか。
声が聞こえなくなってからもしばらく、二人とも丸く伏せたような体勢でじっとしていた。シルヴァンの意識も徐々に少年から外れていったが、どちらも物音ひとつたてずに時が止まったような沈黙は続いた。
上へと目線だけを向けると、暖かな夕空が赤く辺りを包み始めていた。周囲の木々はさわさわと葉を風に揺らし、間から鳥のさえずりが聞こえる。かすかに聞こえる子どもたちの笑い声や遠くの出店のざわつき。毎日定時に鳴る教会の鐘の音がカーンカーンと5回、耳心地よい低音で響く。
気づかなかったが、普段の世界はこんなにも賑やかだったらしい。
それなのに、シルヴァンと少年のほんの近くだけが音さえも固まっているようだった。遠くの音は聞こえるのに近くの音だけが無であった。ここに居るただ2人のみが世界の時間に取り残されたのだ、と思えた。それがシルヴァンには不思議と心地良かった。
未だ自分の頭上を離れない小さな手の暖かさに懐かしさを感じながら、シルヴァンはゆっくりと目を閉じた。
動かない世界はどうやら悠久では無かったらしい。
無理な体勢だ。やがて自身の体重のせいで手足がじんと痺れ始めた。そうなるともう、音だの世界だのがどうでも良くなり、心地よさなどもふっとんでいた。夢の中へ行きかけていた意識も目も覚醒した。ただただこの体勢が辛く、早く楽になりたくて仕方ない。
この体勢になってどれ位が経ったのだろう。頭を抑えられた事で力のかかった首も懲って辛いし、重い。手ってこんなにも重いんだと気が付けばじわじわと腹が立ってきた。なんだったのかは知らないが少年の警戒する嵐は去りきったのでは無いか。もうこんな風にしていなくても良いのではないか。だいたいさっきもぶつかってきたしどうして自分がこんな目に遭わなければならないのだと眉間にシワが寄る。
体の辛さと苛立ちからシルヴァンは少年へ大きく顔を向けた。その勢いで窮屈だった上半身がぐいと斜め上へ伸びた。弾みで、かけられた少年の手はシルヴァンの頭から大きく振り落とされた。先ほどは抑えられた頭を動かす事も出来なかったのに、この時はなんの抵抗も無かった。
「うえっ」
「えっ」
なんの抵抗も無さ過ぎた。手を振り払い睨みつけようと動かした頭は、思ったよりも相手の力がかかっておらずに予想以上に振られてしまった。加えて、痺れた手はバランスの崩れた上半身を支えきれずに崩れ、シルヴァンの体は草の上に再度どさっと横倒しになった。想定外のことに驚くシルヴァンの目に、同じく驚いた表情でシルヴァンを見る少年の顔が映った。
魔法にかかったような時間が今終わったのだった。
「いっ……」
互いに見つめあった数秒の後、シルヴァンに痺れの波がやってきた。
痺れた辛さをやり過ごそうと体を動かさずにぎゅっと目と口を閉じる。『ああ、長い正座の後のあの感覚だ』なんて、日本人らしい感想だよねと心の中で笑ってしまう。最初は手だけが痺れていたが解放された足も追って痺れてくる。
「だっ、大丈夫?」
手足全滅じゃないか、ああ早く終わらないかな、痺れるのって嫌だな。動いた方が治りが早いんだっけ。そんな風に考えながらじっと耐えていたシルヴァンは、かけられた言葉にはっと目を開けた。
体の辛さでしばし忘れていたがそういえば近くに人が、少年が居たのだった。今手足を触られたら確実に叫んでしまう。少年からすれば突然倒れてうめきだしたシルヴァンは病人か怪我人、そうでなくても何らかの異常が発生したことになる。その想定の中に「痺れ」という選択がどれぐらいの割合を占めているか。いや、無い可能性が高い。痺れ自体はよくあることのはずなのに、人は案外痺れを脳内の選択に入れていない。どんな行動をとるだろう、そう、もし人の心があるのなら。
赤い夕焼けを受けてきらきら光る黄金の髪が開いた目に映り込んだ。揺れる炎が頭をよぎる。そしてヘイゼルの……
「いっ、つつううぅぅうううっ!!」
「えっ!?」
容赦ない痺れがシルヴァンの手足を襲った。悲鳴をあげ、跳ねた体を丸めて首まで硬く強ばらせてしまう。そんなシルヴァンに驚き、少年はぱっと手を引く。
「ちょ……と、今触ら、ない、でっ……」
涙目になりながらもなんとか声を絞り出し少年を止める。そしてシルヴァンはまた目を閉じ、嵐が過ぎ去るのを待った。
「ご、ごめん」
そう、どうやら少年は人の心があったようだ。具合の悪そうなシルヴァンを心配して両手で体を揺すり動かしたのだった。すると当然シルヴァンの手足は体に合わせてズレるので、地面に当たり、互いに当たり、大惨事を起こす形となってしまった。
多分少年は本気でシルヴァンを心配してくれたのだと思う。それぐらいの揺すり方だった。人は、倒れている人を見つけると揺する。何故か揺する。意識の有無を確認するためだろうか。具合によっては揺すってはいけないこともあるだろうに、とっさに声をかけて揺すってしまう。人だけでなく、象や狼も倒れた仲間を鼻先で揺り動かすので生き物の本能なのかもしれない。
少年はおろおろしながらもシルヴァンの頼み通りに体に触れずに、しかし横を離れず見守っていた。
しばらくしてやっと痺れの薄れたシルヴァンは体をそのままにゆっくりと目を開けた。やっぱり最初に見えたのはさっきよりも赤く染まった、炎を連想させる髪と心配そうなヘイゼルの瞳であった。
「大丈夫?」
目が合うと少年は遠慮がちに聞いてくる。さっきの惨事が尾を引いているらしい。それはそうか、あそこまで悲鳴を上げられたら誰だって慎重になる。
「大丈夫」
「良かった」
シルヴァンの答えに少年は安堵の声をあげる。心底ほっとしたようで、先ほどまではぎゅっと握られ地面についていた手も、地面に揃えられた膝もすべて投げだして空を向いて息を吐く。
「ちょっと痺れちゃって」
「なんだ、焦った」
「ごめん、ホント痺れてて。ふふっ」
よくわからない緊張が溶けて、よくわからないまま気がゆるんで互いに笑った。
目鼻立ちの良い少年の顔が、年齢相応に無邪気な笑みをたたえている。それに合わせて眩い金髪が太陽のようにゆらゆら揺れた。外界から彼を守るように覆い被さっていた真っ黒いフードがいつのまにか脱げていたことに、シルヴァンはやっと気がついたのだった。




