王子と氷の貴公子の視察、そして『主婦の知恵』が引き起こす更なる狂乱
バレンタイン領の領都は、お祭り騒ぎの真っ只中にあった。
街のあちこちからは香ばしい油の匂いが漂い、揚げたてのポテトフライを手にした子供たちの笑顔が弾けている。ドブ川の悪臭は消え去り、ゴミ一つ落ちていない石畳の道路を、夜間割引の恩恵を受けた物流馬車がスムーズに行き交っていた。
そんな「奇跡のモデル都市」へと変貌を遂げた街の入り口に、豪華絢爛な王家の紋章が刻まれた馬車と、重装騎士団の一隊が到着した。
馬車の扉が開き、降り立ったのは二人。
輝く金髪と碧眼を持つ王国の第一王子、エドワード・ル・クレール(十歳)。
そして、冷徹な氷の眼差しを周囲に向けつつも、どこか焦燥感を滲ませた銀髪の少年、ルーカス・フォン・グランヴェル(十歳)。
「……信じられん」
エドワード王子は、眼前に広がる光景に息を呑んだ。
「治安が良く、庶民の顔に陰りがない。物流は滞りなく流れ、街全体が生き生きとしている……。我が王都の城下町よりも、遥かに先進的で美しいではないか。これを……これをすべて、あの六歳のリナ令嬢が発案したというのか!?」
「殿下」
隣に立つルーカスが、アイスブルーの瞳を冷たく光らせて口を開いた。
「驚くのはまだ早いです。リナは……あの方は、私たちが想像するような浅はかな『天才』などではありません。己の功績をひけらかすこともなく、ただ他者の幸せのために静かに知恵を授ける……まさに真の聖女。殿下であっても、リナを政治の道具として利用なさることは許しません」
「利用などするものか! 僕はただ、将来の我が国をともに導く『王妃』として、彼女の気高さをこの目で確かめに来たのだ!」
二人の少年(攻略対象たち)の間に、ピリピリとした緊迫感が走る。
彼らを迎えるバレンタイン男爵家の屋敷では、その頃——。
◇
「……胃が痛いわ」
自室のドレッサーの前で、私はげっそりと頬を寄せながら鏡を見つめていた。
中身は五十三歳。前世では「自治会の役員決め」や「PTAの予算会議」で胃を痛めることはあっても、国家の第一王子と次期伯爵当主の「視察」という名の訪問を受けるなんて経験はあるはずもない。
「リナ様、お召し替えの準備が整いましたわ! 本日はエドワード殿下とルーカス様をお迎えするのですから、バレンタイン家の総力を挙げた最高級のドレスをご用意いたしました!」
マリアが目を輝かせて提示してきたのは、宝石がジャラジャラと縫い付けられた、歩くたびに重そうな豪華絢爛なドレスだった。
「……マリア。そのドレス、とっても素敵だけれど……少し重そうね。今日は領内のご案内(視察)もするのでしょう? もっと動きやすくて、シンプルで、清潔感のあるドレスにしてちょうだい」
「あ……! なんと……!『派手な装飾で着飾るよりも、お客様へのもてなしと実用性を重んじる』というお考えですね!? さすがリナ様、真の気品とは何かをご理解しておられます……!」
(いや、ただ肩が凝るから嫌なだけなんだけどね!?)
相変わらずの高速勘違いに脱帽しつつ、私はシンプルな水色のワンピースドレスに着替えた。髪も結い上げず、ハーフアップにして控えめなリボンを飾るだけにする。
スキンケアはもちろん、自家製の「化粧水+乳液クリーム+真珠粉のプレストパウダー」だ。素肌の透明感が際立ち、どこからどう見ても「無垢で愛くるしい小さな貴婦人」の出来上がりである。
(よし……落ち着きなさい、リナ(五十三歳)。相手は十歳の男の子二人よ。前世で言えば、小学生の男の子がうちに遊びに来るようなものじゃない。おやつを出して、適当に話を聞いてあげればいいのよ)
私は自らにそう言い聞かせ、重い足取りで応接間へと向かった。
◇
応接間のドアを開けると、そこには二人の少年と、彼らの護衛騎士、そして恐縮しきってガタガタ震えている我が父親(バレンタイン男爵)がいた。
「お待たせいたしました、エドワード殿下、ルーカス様。バレンタイン男爵が娘、リナ・ド・バレンタインにございます」
私は完璧な角度でカーテシーを披露した。
無駄のない所作、可憐でありながらどこか母性すら感じさせる落ち着いた微笑み。
「「……ッ!」」
エドワード王子とルーカスが、同時に息を呑んだ。
華美な装飾を削ぎ落としたシンプルなドレスは、彼女の肌の美しさと気品をより一層引き立てていた。権力や財力を誇示しようとする他の貴族の令嬢とは一線を画す、圧倒的な「洗練」。
「よ、よく届いてくれた、リナ令嬢……! 楽にしておくれ!」
エドワード王子が少し緊張した面持ちで立ち上がった。
「本日は、君が発案したというバレンタイン領の『大改革』の成果を視察に来た。……いや、正直に言おう。僕は疑っていたのだ。六歳の少女が、これほど完璧な構造改革を行えるはずがないと。誰か裏で知恵を授けた者がいるのではないかとね」
「まあ……」
私はパチパチと瞬きをした。
(当たり前じゃない。裏で知恵を授けたのは『前世の日本の社会システム』よ。私自身が天才なわけないじゃない)
「ですが殿下」と、私は柔らかく微笑んだ。
「私は何も特別なことはしておりませんのよ。ただ……街で暮らす方々の『困った』のお声に耳を傾け、当たり前のことを当たり前に整えただけに過ぎませんわ」
前世で言えば「近所の苦情要望を自治会に提出した」レベルの話である。
しかし、エドワード王子には、その言葉が『民の痛みに寄り添い、名誉を求めず、当たり前のように善行を行う聖者』の言葉として響いてしまった。
「な……なんという謙虚さ……! 己の偉業を誇ることもなく、ただ民のために……!」
エドワード王子の瞳が、熱を帯びて輝き始める。
一方、ルーカスはフッと口元を緩め、どこか誇らしげに胸を張った。
「言ったでしょう、殿下。リナはそういう方です。……リナ、君の作ったあの『ポテトフライ』という料理、僕も王都へ向かう途中で食べたよ。安価で、腹持ちが良く、何より……とても美味しかった」
「あら、ルーカス様。お気に召していただけて光栄ですわ。あれは揚げたてに少しお塩を振るのが一番美味しいのですのよ」
「ああ……本当に美味しかった。君はいつも、僕たちの『お腹』と『心』を満たしてくれる」
(重い重い重い! ポテトフライ食べただけでなんでそんな愛の告白みたいなトーンになるの!?)
私は冷や汗を拭いながら、お茶の準備を促した。
「さあ、殿下もルーカス様も、長旅でお疲れでしょう。本日は当家のシェフが用意いたしました、新しい『軽食』をお召し上がりくださいませ」
運ばれてきたのは、バレンタイン領で収穫された新米で作った『おにぎり(焼きおにぎり)』と、ジャガイモと季節の野菜がごろごろ入った『具だくさんの味噌汁風スープ』だった。
この世界では、米は水煮にしてペースト状にするか、雑穀としてスープに放り込むくらいしか調理法がなかった。
そこに、前世の主婦の知恵である「出汁の文化」と「握り飯」を投入したのだ。
香ばしい醤油風調味料の香りが、応接間に広がる。
「これは……米か? このような食べ方は見たことがないぞ」
エドワード王子が恐る恐る「焼きおにぎり」を手に取った。
パクリと一口齧る。
「……っ!?!?!?」
王子の体が落雷を受けたように硬直した。
外はパリッと香ばしく、中はふっくらとした米の甘みが広がる。そして、後から追いかけてくるスープの深いコクと旨味。
「う……美味い……!! なんだこれは!? パンのようなパサつきがなく、噛めば噛むほど味わいが深まる! それにこのスープ……体が芯から温まり、心がホッと落ち着くような感覚になる……!」
エドワード王子は、王族としてのマナーも忘れて夢中で焼きおにぎりを頬張り始めた。
ルーカスもまた、上品に、しかし確かな勢いでおにぎりを平らげていく。
「……リナ。君はまた、新しい食文化を生み出したのか。これなら、調理器具がない戦場や作業場でも、手軽に栄養を補給できる……」
「あら、ルーカス様ったら。これはただの『おにぎり』ですわ。忙しい朝や、ちょっと小腹が空いた時に握っておくと便利なだけですのよ?」
前世で、部活帰りの子供や仕事で遅くなる夫のために、ラップでキュッキュと握っていたあの日常の知恵である。
だが、エドワード王子の目には、それが「軍糧(軍隊の食料)革命および農民の労働効率を飛躍的に高める国家的大発明」に見えていた。
「素晴らしい……! リナ令嬢、君はどこまで我が国を救えば気が済むのだ……! 物流、衛生、農業、そして軍糧まで……! 君の脳内には、一体どれほどの知識が眠っているのだ!?」
エドワード王子が感極まって私の両手を握りしめた。
「ひえっ……! で、殿下!?」
「リナ令嬢! 僕とともに王都へ来てくれ! 君のその知恵を、国すべての民のために使ってほしい! いや……僕の生涯のパートナー(王妃)として、僕の隣にいてほしい!!」
(出たーーーーーっ!! 乙女ゲームの求婚フラグ!!! 早すぎる! まだ十歳でしょ!?)
私がパニックを起こしかけたその時。
ガタッ!!
ルーカスが激しく椅子を蹴って立ち上がった。その手は腰の訓練用剣の柄にかかっている。
「殿下……! 行き過ぎです! リナはまだ六歳! 政治の道具として王宮に連れ去るなど、私が許しません!」
「なに!? 僕は政治の道具などと言っていない! 彼女の知恵と人柄に心から惚れ込んだのだ!」
「リナが望んでいるのは、このような静かで穏やかな暮らしです! 王宮のドロドロした権力闘争に彼女を巻き込む気ですか!?」
「くっ……! グランヴェル伯爵令息の分際で、僕に意見する気か!?」
二人の少年が、私を挟んでバチバチと火花を散らし始めた。応接間の空気が凍りつく。
お父様は「ひいいいっ! 王子殿下と伯爵令息様が我が家で決闘を……!?」と白目を剥いて倒れそうだ。
(ああもう……!! 面倒くさいわねぇ!!)
私の中の「五十三歳のおばさん」が限界を迎えた。
前世で、近所のガキ大将たちが公園のブランコを奪い合って喧嘩を始めた時。
あるいは、兄弟がゲームの順番で取っ組み合いを始めた時。
お母さんが取るべき行動は、ただ一つである。
「お二人ともーーーーーっ!!」
私の凛とした、しかしどこか叱りつけるような大声が応接間に響き渡った。
二人がピタリと動きを止めて私を見る。
私は背筋をピンと伸ばし、腕を組んで(幼女の姿なので威厳があるかは謎だが)、二人をジロリと見つめつけた。
「食べ物を前にして喧嘩をするなんて、お行儀が悪いわよ!!」
「「え……?」」
「エドワード殿下! どれほど美味しいお食事でも、争いながら食べたら味がマズくなってしまいます! それに、まだお食事の最中に立ち上がるなんて、王族としてのマナー違反ではありませんか!?」
「あ……う……」
エドワード王子が気圧されたように口を噤む。
「そしてルーカス様! お友達に対して剣に手をかけるなんて、論外ですわ! どんな理由があれ、暴力の示唆はいけません! お二人とも、すぐに仲直りして、ちゃんと座りなさい!」
私のお説教は、完全に「小学生を叱るPTAのお母さん」のそれだった。
貴族としての礼儀でもなく、身分制度を考慮した言葉でもない。ただの「大人から子供への、至極全うなお小言」である。
普通なら、王族に対する不敬罪で首が飛んでもおかしくない。
だが。
「……申し訳、ありませんでした……」
エドワード王子が、しょんぼりと肩を落として席に座り直した。
「……すみません、リナ……」
ルーカスもまた、耳を真っ赤にして俯き、静かにソファー腰掛けた。
二人とも、今まで生きてきて「真剣に、自分のために怒って叱ってくれる大人(同世代)」に出会ったことがなかったのだ。周囲の大人たちは皆、彼らに媚びを売るか、畏怖するか、利用しようとするだけ。
だからこそ、自分の過ちを正面から叱り、正してくれるリナの「圧倒的なお母さん力(品格)」に、ぐうの音も出ないほど平伏してしまったのだ。
(あ……しまった。勢いで怒っちゃったけど、相手は王子様だったわ……。首が飛ぶかしら……?)
冷や汗を流す私に対し、エドワード王子は深く感銘を受けたような顔で呟いた。
「……素晴らしい。僕を……王太子である僕を、身分に関係なく一人の『子供』として正しく導いてくれる……。父上も母上も、こんな風に僕を叱ってくれたことはなかった……。リナ令嬢、君は……君は本当に、特別な存在だ……」
(いや、叱られたのに好感度上がってるの何で!?)
ルーカスもまた、熱い眼差しで私を見つめている。
「リナ……君の言う通りだ。僕が浅はかだった。君の前で暴力をチラつかせるなんて……。君にふさわしい自制心を持った男になるよう、精進するよ」
(だから重いってば!!)
私の「おばさん説教」は、二人の少年の胸に、より一層深く、消えることのない「敬愛と執着」の杭を打ち込んでしまったのだった。
◇
数日後。
エドワード王子とルーカスは、満足しきった(そしてリナへの愛をさらに深めた)様子で王都へと帰っていった。
だが、去り際にエドワード王子が残していった言葉が、バレンタイン男爵家に新たなる衝撃を与えることになる。
『リナ令嬢。君の素晴らしい知恵と品格を讃え、王立アカデミー(学園)への「特待飛び級入学」の推薦状を提出しておいたよ。九年も待つ必要はない。君が八歳になったら、ぜひ学園に来ておくれ!』
「……なんですって?」
自室で推薦状を受け取った私は、絶句した。
学園入学は十五歳のはずだった。
それまでの九年間、引きこもってダラダラ過ごすはずだった私の計画が……学園入学が七年も早まってしまったのだ。
「うそ……うそでしょ……。学園に入ったら、ヒロインとか他の攻略対象とか、面倒くさいイベントが山盛りじゃないのよぉぉぉぉ!!」
頭を抱えてベッドの上でゴロゴロと転がる私。
前世は五十三歳の中年主婦。
異世界では金持ち令嬢。
ただただ平穏に、腐るほどある金を使って老後(二度目の人生)を楽しみたいだけなのに。
おばさん特有の「スルー力」「世間話」「手作りコスメ」「主婦の知恵」そして「お母さん説教」を発揮すればするほど、周囲の勘違いは留まることを知らず、彼女を異世界の中心へと押し上げていく。
「絶対に……絶対に学園では目立たないようにしてやるんだから……!」
涙目になりながら固く決意するリナ・ド・バレンタイン。
しかし、彼女が学園に足を踏み入れた時、さらなる大混乱と「おばさん無双」が待ち受けていることを、彼女はまだ知る由もなかった。




