毒の白粉(おしろい)と、おばさんの知恵が起こすスキンケア革命
王立の夜会への招待状——それが、国家からの「創作活動応援」という名の無言の圧力とともにバレンタイン男爵家に届いたのは、漫画と小説の空前の大ヒットから一ヶ月が経った頃だった。
「リナ、ついに王宮からの招待状だよ! 我が家の『奇跡の淑女』を世界にお披露目する時が来たんだ!」
父親のバレンタイン男爵は、額に汗を浮かべながら大興奮で招待状を掲げていた。
成金の我が家にとって、王宮主催の夜会など本来なら末席のさらに端っこに追いやられるレベルのイベントだ。しかし、いまやバレンタイン家は「文芸革新を起こした大富豪」として貴族社会の注目の的。断るという選択肢など存在しなかった。
「……はぁ。分かりましたわ、お父様。準備を進めましょう」
私は前世の「法事の準備をするお母さん」並みの手際の良さで受け答えたが、内心ではゲンナリしていた。
(面倒くさいわねぇ……。ドレスを着て、お辞儀をして、愛想笑いを振りまくのね。まあいいわ、美味しい王宮料理でも食べて、影を薄くして帰ってきましょう)
しかし、その「ドレスの準備」を始めた段階で、私はこの異世界の最悪すぎる美容事情を目の当たりにすることになったのだ。
◇
「リナ様、お顔のお化粧をさせていただきますね」
そう言って専属のお化粧係が持ってきたのは、銀の小箱と筆だった。
箱の蓋が開けられた瞬間、私の鼻を刺すような金属臭と、かすかな違和感が襲った。
箱の中に入っていたのは、驚くほど真っ白な粉末——白粉だ。
「……マリア。この白粉は何でできているの?」
私が何気なく尋ねると、マリアは誇らしげに胸を張った。
「こちらは最高級の『鉛白粉』でございますわ! 貴族の淑女たるもの、肌を病的なまでに白く見せるのが美の嗜みとされておりますの。この白粉を水で溶いて、お顔全体に分厚く塗るのです!」
(……はい? いま、なんて言ったの?)
私の脳内で、前世で学んだ歴史と科学の知識が警報を鳴らした。
鉛。
鉛白粉。
「ちょっと待ちなさい! それ、鉛が入っているの!?」
「はい! 鉛を酢で蒸して作る、伝統と格調ある化粧品でございますわ! 少し肌が荒れたり、長年使っていると頭痛や目眩がしたり、顔が黒ずんでくることもございますが……美しさを保つための『貴族の嗜み』として、皆様お使いになられています!」
(毒じゃないのよーーーーーっ!!??)
私は心の中で絶叫した。
前世の歴史の授業で習ったやつだ! 江戸時代や中世ヨーロッパで大流行し、多くの女性や歌舞伎役者を鉛中毒に陥らせ、皮膚をボロボロにし、最悪の場合は命まで奪ったあの『毒の白粉』!!
「だ、ダメ! 絶対ダメ! そんな恐ろしいものを顔に塗るなんて正気の沙汰じゃないわ!」
「えっ……? ですがリナ様、白粉を塗らなければ、社交界では『身だしなみができていない』『素肌を晒す野蛮人』と笑われてしまいます……!」
マリアや化粧係は困惑した表情を浮かべている。
この世界では、「毒であること」をうっすら感づいていながらも、「美しく白くなるためには耐えるべき代償」として当たり前に受け入れられていたのだ。まさに無知が生む悲劇である。
さらに私は、姿見の前に置かれた他の化粧品やスキンケア用品を検分して、二度目の絶望を味わうことになった。
「……ちょっと待って。顔を洗ったあと、何を塗っているの?」
「洗顔ですか? 固い石鹸でゴシゴシと洗った後は、何も塗りませんが……?」
「化粧水は? 乳液は? 美容液や保湿クリームは!?」
「け、けしょうすい……? にゅうえき……? それは一体どのような薬品でございますか……?」
化粧係が首を傾げている。
(基礎化粧品が……存在しないの……!?)
ガーン、と頭を殴られたような衝撃だった。
この世界には、肌を整え、水分を与え、油分で蓋をするという「基礎化粧品」の概念が一切存在しなかったのだ。
強い石鹸で皮脂を根こそぎ奪い取られ、乾燥してカサカサになった肌の上に、鉛たっぷりの毒白粉をぶっ叩く。
そんなことを続けていれば、二十代、三十代になった女性たちの肌がボロボロになるのは目に見えている。
(信じられない……! なんて野蛮な世界なの! 美しくなるための化粧で、体を壊して肌を壊すなんて本末転倒じゃないのよ!!)
前世の私——五十三歳のおばさんは、基礎化粧品には人一倍こだわりがあった。
歳を重ねるごとに失われていく水分と油分。ドラッグストアの安い化粧水から、デパコス(デパートコスメ)の高級保湿クリームまで、自分の肌を守るためにあらゆるスキンケア知識を叩き込んできたのだ。
「私、こんな毒を塗るくらいなら、素顔で夜会に行くわ!!」
「そんなっ! リナ様、お戯れを……! 素顔で夜会に出れば、バレンタイン家の恥となってしまいます!」
マリアたちが蒼白になって泣きついた。
「……分かったわ。じゃあ、作るわよ」
「……はい?」
「毒じゃなくて、肌を綺麗にする『本物の化粧品』を、私が今から作るわ!!」
五十三歳のおばさんの「スキンケア愛」と「健康第一精神」に、火がついた。
◇
決意した私は、即座に行動を起こした。
バレンタイン家の莫大な資金力を使い、領内の薬草医、錬金術師、そして高級油を扱う商人を屋敷に呼び寄せた。
「リナ様、お呼びでしょうか。一体どのような薬品をお作りになりたいので……」
集まった専門家たちに、私は机をバンッと叩いて言い放った。
「いい? 今から私の言う材料を集めて、精製しなさい! まずは、植物由来の保湿成分! グリセリンよ!」
「ぐ、ぐりせりん……? 植物油や豚脂から石鹸を作る際に出る、あの甘い廃液のことでございますか?」
「そうよ! それを精製して不純物を取り除くの! さらに、ローズウォーター(バラの蒸留水)に、純度の高いグリセリンを数滴垂らす! これが水分を補給する『化粧水』よ!」
薬草医たちがメモを取りながら目を見張る。
「さらに、水分を補給しただけではすぐに蒸発してしまうわ! 上から油分で蓋をしなければ意味がないの! ホホバオイルやスクワラン……無ければ純度の高い精製オリーブオイルと蜜蝋を極限まで精製して混ぜ合わせ、肌に優しい『保湿クリーム』を作るのよ!」
前世で手作りコスメ(DIYスキンケア)にはまっていた時期の知識が、ここに来て炸裂した。
「そして白粉! 鉛なんて毒物は今日限りで全面禁止! 代わりに使うのは、精製したカオリン(白土)や、米ぬかを極細かく粉砕した米粉、あるいはパールパウダー(真珠粉)よ! これらに微量の植物油を加えて、肌に密着する『プレストパウダー』を作るわ!!」
専門家たちは、最初こそ「六歳の令嬢が狂ったか」という目で見ていた。
しかし、実際に私のアドバイス通りに抽出・精製を開始すると、その表情は驚愕へと変わっていった。
「な……なんだこの液体は……!? 肌につけると、スーッと染み込んで、まるで赤ん坊の肌のようにモチモチになるぞ!?」
「このクリーム……ベタつかないのに、水分を完全に閉じ込めている! 今まで私たちが使っていた油とは全く違う!」
「それに、この米粉と真珠粉の白粉……! 毒性が一切ないどころか、肌を優しく保護し、光を反射して自然な透明感を出している……!!」
数日の試行錯誤の末。
この世界で初となる、『完全無毒・天然由来の基礎化粧品&ナチュラルコスメセット』が完成したのだ!
「出来たわ……! これよ、これ!!」
私は完成した透明な瓶に入った化粧水と、淡いピンク色の真珠白粉を抱きしめた。
さっそく、前世の経験を活かして、自分の顔に『スキンケア&メイク』を施してみる。
固形石鹸で優しく洗顔した後、たっぷりの化粧水で肌に水分を補給し、手のひらで包み込むようにハンドプレス(前世でおばさんが毎日やっていた保湿法だ)。
さらにクリームで蓋をして、肌をプルプルにする。
その上に、薄く真珠粉の白粉をはたき、紅花から抽出した天然のリップグロスを唇にちょんちょんと乗せる。
姿見の前に立った私は、思わず自分で感嘆の声を漏らした。
「……完璧だわ」
姿見に映っていたのは、鉛白粉を塗りたくったお化けのような白塗り少女ではない。
肌の奥から発光するようなツヤと透明感を持ち、頬には自然な血色が差し、唇はぷるんと潤った——まさに『天使のような美少女』だった。
「リナ様……!? あ、あああ……なんと可憐な……! まるで女神様の幼少期でございます……!」
後ろで見守っていたマリアやメイドたちが、感動のあまりその場に崩れ落ちた。
「よし、これで夜会に行けるわ! 毒も塗らなくて済むし、お肌もツヤツヤ! 大成功ね!」
私は大満足で頷いた。
しかし。
私はまたしても、重大な過ちを犯していた。
中身が五十三歳の私にとって、保湿やスキンケアは「当たり前の健康管理」に過ぎない。だが、この異世界において、それは「美の概念を根底から覆す、天地がひっくり返るほどの衝撃」だということに、気づいていなかったのだ。
◇
そして、王宮夜会の当日。
絢爛豪華な大広間には、王国中のハイソサエティな貴族たちが集まっていた。
男性貴族たちは豪華な衣装を纏い、女性貴族たちは……皆、一様に顔を白く塗りたくり、無理な白粉のせいで肌が乾燥してシワが目立ち、どことなく青白い顔をしていた。
そこに、バレンタイン男爵家が到着する。
「バレンタイン男爵、並びに令嬢リナ・ド・バレンタイン様、ご入場!」
執事の朗々とした声とともに、私たちが大広間へ足を踏み入れた瞬間。
ザーッ……と、会場のざわめきが、潮が引くように静まり返った。
全員の視線が、私に集中する。
(え……? 何事? 私、何か変かしら……?)
私は不安になり、着ているドレス(バレンタイン家の財力で作った、シンプルだが上質な淡いブルーのドレス)を見下ろした。特に乱れはない。
だが、周囲の貴族たちが息を呑んでいたのは、ドレスのためではなかった。
私の「肌」だった。
会場のどんな公爵令嬢よりも、どんな王妃様よりも。
私の肌は、透き通るような透明感を放ち、光を浴びて内側から発光しているかのようにモチモチと輝いていた。白粉で無理に塗った死人のような白さではない。生き生きとした生命力と、洗練された品格を感じさせる「本物の美肌」だ。
「な……なんだあの美しさは……!?」
「白粉を塗っているのか……? いや、違う! 白粉特有の厚塗り感が一切ない! まるで真珠そのものが肌になったかのようだ……!」
「あれが……噂の『RINA先生』……バレンタイン家の奇跡の令嬢……!」
貴族の婦人たちの目が、嫉妬と驚愕と憧れで血走り始めた。
女性にとって、肌の美しさは命だ。毒の白粉で肌をボロボロにしながら「美」を競い合っていた彼女たちにとって、私の肌はまさに「神の祝福を受けた奇跡」に他ならなかった。
(やだ……なんでみんなそんな怖い顔で私を見てるの……!?)
私が後ずさりしそうになったその時。
「リナ」
人込みを割って、ひとりの美しい少年が歩み出てきた。
銀髪をなびかせ、アイスブルーの瞳を輝かせた——ルーカス・フォン・グランヴェルだ。
彼は私の前に立つと、会場の誰もが注目する中で、深々と頭を下げた。
「今夜の君は……いつにも増して、神々しいほど美しい。まるで天から舞い降りた光の精霊のようだ」
(ボクちゃん、相変わらずポエムな挨拶ね! っていうか、目立つからやめて!)
さらに、ルーカスの後ろから、煌びやかな衣装を着た十歳ほどの金髪の少年が歩み出てきた。
その胸元には、王家の紋章が刻まれている。
(……え? まさかあの子は……)
ゲームのメインヒーローであり、この国の第一王子——エドワード・ル・クレール!
第一王子エドワードは、私の顔をじっと見つめると、その頬をぽっと赤く染めた。
「君が……リナ・ド・バレンタインか。ルーカスから話は聞いていたが……まさか、これほど気高く、美しい少女だとは……。僕の母上(王妃)でさえ、これほどの肌の輝きはお持ちでない……!」
「は、はあ……恐縮でございます、王子殿下」
私は慌ててカーテシーをした。
すると、エドワード王子は私の手を取ろうとし——その手を、ルーカスが横からサッと静止した。
「……エドワード殿下。リナは長旅でお疲れです。あまり馴々しく触れられるのはご遠慮いただきたい」
「なんだとルーカス? 僕はただ、挨拶をしようとしただけだ!」
「彼女の美しさは、気安く触れていいものではありません」
二人の少年(攻略対象たち)の間に、バチバチと青い火花が散り始める。
(ちょっと待って!! なんで王子様まで出てきて揉め始めてるの!? 私、ただ保湿して真珠粉はたいただけよ!?)
さらに、その光景を見ていた王妃様や高位貴族の婦人たちが、ぞろぞろと私を取り囲むように押し寄せてきた。
「リナ様! そのお肌の秘密を教えなさい! 一体どのような魔法をお使いなの!?」
「いくらでも払います! そのお肌になれる秘密を、我が家にだけ教えて頂戴!!」
「我が公爵家にお越しなさい! 国家の至宝としてお迎えしますわ!」
「ひえっ……!」
悲鳴をあげそうになる私。
そこに、誇らしげな顔をした父親(バレンタイン男爵)が割り込んできた。
「皆様! お静かに! 我が娘リナが開発いたしました、毒を一切使わない真の化粧品——『バレンタイン・スキンケアコスメ』!! 近々、バレンタイン商会にて限定販売を開始いたしますぞー!!」
「「「買い占めるわぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」」」
貴族の婦人たちの咆哮が、王宮の大広間に響き渡った。
(お父さん余計なこと言わないでぇぇぇぇぇぇ!!)
私は心の中で頭を抱えた。
◇
その夜。
王宮からの帰り道、馬車の中で私はグッタリと座席に沈み込んでいた。
「大成功だな、リナ! 本と漫画だけでなく、今度は『コスメ』で王国中の資金が我が家に集まってくるぞ! 国王陛下も『毒の白粉による中毒被害が減るなら素晴らしい偉業だ』と大絶賛しておられた!」
父親はウハウハで金貨の計算をしている。
確かに、毒の白粉を駆逐し、女性たちの健康を守るという意味では、前世の主婦としての正義感は満たされた。異世界の女性たちが健やかに美しくなれるなら、それは良いことだ。
だが……代償が大きすぎた。
「はぁ……」
ため息をつく私の手元には、さきほどエドワード王子とルーカス少年から渡された「文通のお願い(という名の手紙)」と、王妃様からの「お茶会への招待状」、そして婦人たちからの大量の注文票が握られていた。
平々凡々な金持ち令嬢として、陰でダラダラと老後を満喫するはずだった私の計画は、どこでどう狂ってしまったのか。
小説と漫画で「文化の創始者」となり、
スキンケアで「美の革命家」となり、
攻略対象たちからは「神聖な奇跡の少女」として重すぎる執着を寄せられ……。
「私、ただの五十三歳のおばさんなのに……」
夜空に浮かぶ満月を見上げながら、私は呟いた。
九年後の学園入学までに、私の平穏な生活は取り戻せるのだろうか。
勘違いと無自覚なおばさん力が巻き起こす嵐は、まだまだ収まりそうになかった。




