娯楽のない世界でおばさん、創作(沼)の扉を開く
「……暇。恐ろしく暇だわ」
豪華絢爛なバレンタイン男爵家の自室で、私は天蓋付きのベッドにひっくり返り、天井の優美なフレスコ画をじっと見つめていた。
前世で五十三年間を生きた私にとって、この異世界は致命的な問題を抱えていた。
テレビがない。ラジオもない。スマートフォンも、インターネットも、YouTubeも、動画配信サービスもない。娘が「ママ、このアニメめっちゃ面白いの!」と見せてくれた動画も、今となっては遠い昔の出来事だ。
あるのは、分厚くて難解な歴史書や哲学書、そして貴族同士のドロドロした社交の噂話だけ。
「金はあるのに……腐るほど金はあるのに、暇つぶしの娯楽がないなんて……!」
これが二十代の若者なら、乗馬や剣術、魔法の訓練に精を出すのかもしれない。だが、私の中身は酸いも甘いもかみ分けたアラフィフのおばさんだ。今さら激しい運動などしたくないし、魔法の練習で冷や汗をかくのも御免である。
しかも、前回のルーカス少年との一件以来、私はすっかり「奇跡の淑女」として社交界で噂になってしまっていた。外に出れば「あのお方がバレンタイン家の……!」と熱い視線を浴び、他家の令息たちが引きも切らずお茶会に誘ってくる。
(もう嫌。外に出たくない。お家でゴロゴロしながら、面白いお話でも読んで過ごしたいのよ……!)
だが、待てよ、と私は思考を巡らせた。
「本がないなら、自分で書けばいいんじゃないかしら?」
そうだ。前世の私には、ささやかな趣味があった。
娘が中高生の頃、同人誌即売会やウェブ小説にハマっていた時期があり、私も娘の推し活に付き合ううちに、様々な小説や漫画を読み漁っていたのだ。自身で描いたことはなかったが、面白いストーリーの展開や、読者を惹きつける「沼」の作り方は、長年の読者経験で嫌というほど頭に叩き込まれている。
「よし。小説と漫画を描きましょう!」
目標はただひとつ。「自分が家で暇をつぶすための究極の娯楽を作ること」。
誰かに見せるつもりなど一切ない。完全に自分用の、自分による、自分のための趣味だ。
そうと決まれば行動は早かった。
◇
「リナ様、ご注文になられた最高級の羊皮紙と、特製のインク、そして絵の具各種でございます」
メイドのマリアが、うやうやしく机の上に文房具を並べる。
バレンタイン家の潤沢な資金力をフル活用し、私は王国で手に入る最高品質の紙と画材を大量に買い込ませた。
「ありがとう、マリア。しばらく部屋に籠もって『お勉強』をしたいの。必要な時以外は、誰も部屋に入れないで頂戴ね」
「まあ! お勉強でございますか! なんと熱心な……! かしこまりました。誰一人としてリナ様のお邪魔をさせはいたしません!」
マリアは目を輝かせて部屋を出て行った。相変わらず勘違いのスピードが早いが、集中できる環境が整ったのはありがたい。
「ふふふ……さあ、開幕よ!」
私は腕まくりをした(もちろん心の中で)。
まず着手したのは、小説だ。
この世界の小説といえば、英雄の無味乾燥な武勇伝か、格式ばった退屈な恋愛劇ばかり。感情の機微やドロドロした人間模様、胸キュン展開など皆無に等しい。
そこで私は、前世で培った知識を注ぎ込み、王道のファンタジーロマンスを書くことにした。
タイトルは——『愛と裏切りのシンデレラ〜冷酷な公爵様が私を離してくれません〜』。
ヒロインは不遇な家庭で育つが、持ち前の明るさで困難を乗り越える少女。
ヒーローは、誰も寄せ付けない冷徹な公爵(どこかの銀髪少年をうっすらモデルにしたが、本人が特定できないよう属性を盛った)。
二人がすれ違い、誤解し合いながらも、ドラマチックに愛を深めていくストーリーだ。
「そうそう、ここで『壁ドン』を入れて……あ、この世界には壁ドンなんて概念ないわね。よし、心理描写を丁寧にいこう」
カリカリカリ……と、羽ペンが紙を滑る音が部屋に響く。
五十三年の人生で培った「人の心の機微」と「おばちゃん特有のドラマチックな妄想力」が爆発した。
昼夜を忘れて書き進めること三日。
一冊の小説が完成した。
「ふぅ……面白かった! やっぱり自分で書く小説は好みにドンピシャで最高ね!」
自分で書いて自分で読むという完全自給自足の娯楽に、私は大満足だった。
だが、文字ばかりでは少々目が疲れる。
次は、漫画(絵物語)に取りかかることにした。
コマ割り、吹き出し、効果音、視線誘導——日本の漫画文化の技術は芸術の領域だ。私は羊皮紙に枠線を引き、前世で娘のマンガの描き方本をチラ見した記憶と、圧倒的な読書体験を元に絵を描き始めた。
六歳の幼女の小さな手でペンを握り、真剣な眼差しで描いていく。
ストーリーは、異世界転生ものの王道コメディ。
『転生したらスライムじゃなくて金持ちの令嬢だった件について』。
(あ、これ私のことじゃない。ま、いっか)
デフォルメされた可愛いキャラクター、コミカルなリアクション、ドタバタ劇。
絵を描くのは思った以上に楽しかった。インクで手を黒く汚しながら、私は時間を忘れて描き続けた。
こうして、私だけの「秘密の娯楽部屋」が完成したのだ。
◇
数日後。
私があまりにも部屋に引きこもり、何かを熱心に作業していることを心配した父親——バレンタイン男爵が、そっと部屋を訪ねてきた。
「リナ、入るよ……。最近ずっとお部屋に引きこもっているようだが、体調は大丈夫かい?」
「あ、お父様」
私は慌てて、デスクの上の原稿を隠そうとした。
しかし、時すでに遅し。デスクの上には、完成した小説の冊子と、描きかけの漫画の原稿が散らばっていた。
「おや……? これは何だい? リナ、何か書いていたのかい?」
「え、ええ……あの、ただの思いつきの落書きでございます。お気になさらないで……」
「どれどれ、少し見せてごらん」
男爵は娘の作ったものを愛おしそうに微笑みながら、小説の第一冊目を手にとった。
『どうせ、子供が書いたおままごとのようなお話だろう』——男爵の顔にはそう書いてあった。
だが。
ページをめくった瞬間、男爵の目が点になった。
「……え?」
一行目から広がる、圧倒的に洗練された文体。
登場人物たちの繊細な心理描写。鮮やかに目に浮かぶような景色の情景描写。そして、冒頭から読者をぐいぐいと引き込む、圧倒的なストーリーテリング!
男爵は立ったまま、夢中でページをめくり始めた。
「な……なんだこれは……!? 公爵が……公爵がここでそんなことを言うのか!? ああっ、すれ違っている! なぜ素直になれないんだ公爵!! ヒロインがかわいそうだろ!!」
(お父さん、声が大きいわよ……)
男爵は完全に物語の「沼」に落ちていた。
四十五歳のオッサンが、六歳の娘が書いた乙女向けロマンス小説に本気で一喜一憂している。
「り、リナ……! この続きは!? この『二巻』はあるのかい!?」
「あ、はい。そちらの棚に……」
男爵は二巻をひったくるように奪うと、そのまま部屋のソファーに深々と腰掛け、猛烈な勢いで読み始めた。
「う、嘘だろ……ここで裏切りが……!? ああああっ! 切ない! 切なすぎる!! うおおおん!」
男爵が号泣し始めた。
(ちょっと、お父さん泣かないでよ! おばさんが暇つぶ書いたラノベで大の大人が号泣しないで!)
さらに、男爵の目はデスクの上の「漫画」の原稿にも留まった。
「む……? これは絵……か? だが、絵の中に文字が書かれている……? 順番に読んでいくと……な、なんだこれはぁぁぁ!?」
絵と文字が組み合わさり、コマを追うごとにキャラクターが生き生きと動き出す「漫画」という未知の媒体。その破壊力に、男爵は雷に打たれたような衝撃を受けていた。
「絵が……動き跳ねて見え……ストーリーがダイレクトに脳に飛び込んでくる……! なんだこの革新的な表現技法は!? 面白い! 面白すぎるぞ!!」
「お父様、落ち着いてください……」
「リナ!!」
男爵が私の両肩をガシッと掴んだ。その目は血走り、興奮で興奮で震えている。
「お前は……お前は天才だ!! いや、奇跡だ!! こんな物語、こんな素晴らしい本、私は生まれて初めて読んだ!! これを……これを我が家だけのものにしておくのは罪だ!!」
(……はい? 今なんて?)
嫌な予感がした。背筋に冷たい汗が伝う。
「お父様、何をおっしゃって……」
「出版だ!! 我がバレンタイン家の資金力と流通網をすべて使って、この本と『マンガ』を印刷し、王国中に広めるのだ!!」
「はいぇぇぇぇぇ!?!?!?」
私は素で変な声をあげた。
「ダメですお父様! これはただの私の暇つぶし、落書きですわ! 世に出すようなものでは……!」
「何を言うんだリナ! 謙虚すぎるぞ! この物語は、間違いなく文芸界に革命を起こす! 我がバレンタイン家の誇りにかけて、世界中の人々に届けるのだ!」
男爵は私の制止も聞かず、原稿を大切に抱え込むと、「印刷職人を集めろ! 製本工場を買い占めろー!」と叫びながら部屋を飛び出して行った。
「あっ……待って! お父さん待ってぇぇぇぇ!!」
私の悲痛な叫びは、虚しく部屋に響き渡るだけだった。
◇
バレンタイン男爵の行動力は、金の力も相まって異常なほど早かった。
わずか数週間後。
バレンタイン商会から、二冊の本が出版された。
ひとつは、小説『愛と裏切りのシンデレラ』。
もうひとつは、人類史上初の漫画単行本『転生したら金持ちの令嬢だった件』。
作者名は、私の希望により匿名のペンネーム『RINA』とされた。(本名そのままじゃないかというツッコミは、興奮した父親によって押し切られた)。
そして、その結果は——
王国中を巻き込む、空前絶後の大ブームとなった。
「ねえ、読んだ!?『シンデレラ』の最新話! 公爵様がカッコ良すぎて夜も眠れないわ!」
「あの『マンガ』という本を見たか!? 絵が動いて見えるんだ! 信じられない技術だぞ!」
「作者の『RINA』様とは一体何者なんだ……!?」
王都の書店には連日長蛇の列ができ、本は刷れば刷るほど即日完売。
貴族の婦人たちの間では「シンデレラごっこ」が流行し、子供たちは漫画のコマ割りを真似て落書きを始めた。
娯楽の少なかった異世界に、突如として投げ込まれた最高峰のエンターテインメント。人々は喉の渇きを潤すように、私の作った物語に狂喜乱舞したのだ。
バレンタイン家には、本と漫画の売り上げによって、山のような金貨となだれのようなファンレターが押し寄せた。
「どうしてこうなったの……」
自室で、私は頭を抱えて頭を打ち付けていた。
暇つぶしに、自分だけで楽しむはずだった趣味が、なぜか「国家レベルの文芸革新」として世界を揺るがしている。
しかも、最悪なことに。
「リナ様、グランヴェル伯爵令息のルーカス様がお見えです。『RINA先生の原稿について熱く語りたい』とおっしゃっておられます」
「……うそでしょ」
応接間に向かうと、そこには全巻揃えた私の本を大事そうに抱えたルーカス少年が待っていた。
彼の目は、以前にも増してギラギラと輝いている。
「リナ……! 君だったんだね」
「……え?」
「バレンタイン家から出版されたあの本……挿絵のタッチ、そして行間に漂う圧倒的な気品と包容力。作者の『RINA』とは、君のことだろう?」
(バレてるぅぅぅぅぅぅ!! 隠す気ゼロのペンネームだったから一発でバレてるぅぅぁぁ!!)
「あ、あの……ルーカス様、それは……」
「隠さなくてもいい」
ルーカスは胸を張り、真剣な眼差しで私を見つめた。
「君は……本当に恐ろしい令嬢だ。完璧なマナーと深い慈悲だけでなく、これほどまでに人の心を揺さぶる物語を生み出す才能まで持っているなんて……! この『シンデレラ』に出てくる冷酷な公爵……彼は僕だね? 君は僕の孤独を理解し、物語の中で救おうとしてくれたんだね!?」
(違う! 完全に属性を盛っただけのテンプレヒーローよ! あなたをモデルにしたわけじゃないのよ!!)
心の中で叫ぶも、ルーカスの「超絶勘違いフィルター」は既に限界突破していた。
「僕は確信した。君こそが、僕の生涯を捧げるべき唯一の女性だ」
「……はい?」
「僕は必ず、この物語に出てくる公爵以上の男になってみせる。そして、君を誰にも渡さない」
(重い! 重すぎる!! そしてボクちゃん、まだ十歳でしょ!? なんでそんな昼ドラみたいなセリフがスラスラ出てくるの!?)
ルーカスは私の手を強く握り締めると、満足そうに(しかし瞳に炎を宿らせて)去って行った。
応接間に一人取り残された私は、ガクッと膝をついた。
「平穏な……平穏な引きこもり生活が……遠のいていく……」
自分が描いた創作物によって、自ら攻略対象のフラグをゴリゴリにへし折り、代わりに「超・激重執着フラグ」を打ち立ててしまったのだ。
「もう何も描かない……絶対に描かないわ……!」
そう誓った私だったが、翌日。
「リナ! 国王陛下から『RINA先生の次回作を心待ちにしている』とのお言葉を賜ったぞ! 国を挙げて応援するとのことだ!」
父親が嬉しそうに報告してきた。
「……」
詰んだ。完全に詰んだ。
退職後の第二の人生を、平々凡々と金持ち令嬢として過ごすはずだった五十三歳のおばさん、リナ・ド・バレンタイン。
彼女の意図とは裏腹に、彼女は「奇跡の淑女」として、そして「時代のカリスマクリエイター」として、異世界の歴史にその名を刻み始めていくのだった。




