完璧な令嬢の日常と、裏目に出続けるおばさん力(りょく)
「お嬢様! 大変でございます! 大変なことが起きましたのよ!!」
朝の清々しい光が差し込む寝室に、メイドのマリアが悲鳴のような声をあげながら飛び込んできた。銀のトレーの上には、色とりどりの封筒が山のように積まれている。その豪華な装丁と、押された蝋封の紋章を見るだけで、それが只者ではない相手からの手紙であることは明白だった。
私はフワリとベッドの上で体を起こし、小さな口元を手で覆いながら、優雅に小さく欠伸を噛み殺した。中身が五十三歳の主婦とはいえ、朝の寝起きは誰だって少しボーッとするものだ。前世なら「お父さん、朝新聞取ってきて〜」と寝ぼけ眼で言っている時間帯である。
「おはよう、マリア。朝からそんなに慌てて、どうかしたのかしら? 廊下を走ると転んでしまいますよ。落ち着いて深呼吸をしなさいな」
「〜〜〜ッ!!」
マリアは一瞬胸を強く押さえ、感極まったように目頭を熱くさせた。
(ああ、またこのお顔ね……)
私は内心で苦笑した。ただ単に「転ぶと危ないから気をつけてね」という、前世で娘が幼かった頃に毎日百回くらい言っていたお小言を口にしただけなのだが、この屋敷の使用人たちはどういうわけか、私の言葉一つひとつに「なんというお優しさ……!」「なんと配慮に行き届いたお方……!」と過剰に感動してしまう癖があるのだ。
「す、申し訳ございません、リナ様! ですが、これをご覧になってくださいませ! 今朝一番で、グランヴェル伯爵家から直々に使いの者が参りまして……!」
マリアが差し出してきたトレーの最上段には、一際重厚感のある濃紺の封筒が鎮座していた。銀色で刺繍された狼の紋章——それは間違いなく、昨夜出会ったあの生意気な銀髪少年、ルーカス・フォン・グランヴェル伯爵令息の家紋だった。
「グランヴェル伯爵家から……?」
「はい! 昨夜の夜会でのリナ様の洗練されたお振る舞いに、あのグランヴェル伯爵様が大変感銘を受けられたそうで……『ぜひとも両家の交友を深めたく、定期的に交流の場を設けたい。まずは近々、我が息子のルーカスを貴家の屋敷へ伺わせたい』とのことでございます!」
「……は?」
私は思わず、完璧に作り込んでいた「可憐なお嬢様スマイル」を素で崩しそうになった。
(ちょっと待って。なんで??)
昨夜の私の立ち回りを頭の中で高速プレイバックする。
「うちには腐るほど金があるから、あなたの地位なんて興味ないわ」「肩の力を抜きなさいな、タルトでも食べなさい」と言って、差し出しただけである。
前世の感覚で言えば、「近所のちょっとイキってる中学生のボクちゃんに、おせんべいあげてあしらった」程度の対応だ。
普通なら「生意気な女だ!」と怒って二度と顔も見たくなくなるか、良くて「ふん、興味のないフリをしおって」とスルーされるはずである。なぜ「お宅の娘さん素晴らしいから定期的に遊ばせたい」になるのか。
「さらに、それだけではございませんの! グランヴェル伯爵家様が動き出された噂を聞きつけた他の貴族様方からも、リナ様へのお茶会のご招待や、お友達になりたいとの申し出が、このように山のように……!」
トレーの上に山積みされた手紙を見つめ、私は遠い目をした。
(アカン……完全に計算が狂ってるわ)
私の目標はただ一つ。
学園に入学するまでの九年間、この腐るほどあるバレンタイン家の資産に守られ、誰にも邪魔されず、優雅で自堕落な「第二の老後生活」を満喫すること。
学園に入ってからも、背景のモブとして「若い子が恋愛ドラマを繰り広げてるわねぁ」と高みの見物決め込むこと。
それなのに、なぜ攻略対象筆頭のグランヴェル伯爵令息と、その取り巻き貴族たちから注目の的になっているのか。
「お父様とお母様は……?」
「旦那様と奥様は、あまりの嬉しさにサロンで抱き合って号泣しておられます!『我が娘が、あのグランヴェル家に認められた! 奇跡だ、バレンタイン家の誇りだ!』と……」
(ダメだわ、あの親バカ二人じゃストッパーにならないどころか、アクセル全開で喜んじゃう……!)
私は小さく頭を抱えた。だが、ここで取り乱しては五十三歳の年輪が廃る。
PTAの役員決めや、自治会の面倒くさい人間関係を何十年も生き抜いてきたのだ。予期せぬトラブルなど日常茶飯事である。
「……分かったわ、マリア。手紙はあとで確認します。まずは顔を洗って、着替えをさせてちょうだい」
「はいっ! ただちにご準備いたします!」
私はゆっくりとベッドから降り、姿見の前に立った。
そこに映るのは、透き通るような白磁の肌と、輝く黄金色の髪、そしてクリッとした大きな琥珀色の瞳を持つ、どこからどう見ても可愛らしい六歳の少女だ。
「……まあ、見た目はこんなに可愛い子供なんだから。落ち着いて対処すれば、どうとでもなるわね」
私は自分に言い聞かせるように呟いた。
◇
数日後。
バレンタイン男爵家の応接間に、嵐がやってきた。
「グランヴェル伯爵令息、ルーカス様がお越しになられました」
執事の重厚な声とともに、応接間のドアが開く。
入ってきたのは、つやつやとした銀髪を綺麗に切り揃え、仕立ての良い濃紺のジャケットを着た少年——ルーカス・フォン・グランヴェルだった。
六歳とは思えないほど凛とした立ち姿、そして氷のように冷ややかで、同時にどこか緊張で強張った表情。後ろには彼に付き添う厳格そうな老執事が控えている。
ソファーに座っていた私の両親は、あまりの威厳にガタガタと震え、「あ、どうぞお掛けください……!」と腰を浮かせている。成金ゆえに、伝統ある伯爵家の威光には滅法弱いのだ。
(情けないわねぇ、お父さん、お母さん……。しゃんとしなさいな)
私は心の中で苦笑しつつ、ソファーからすっと立ち上がった。
背筋をピンと伸ばし、衣装のドレスの裾を優雅に持ち上げ、寸分の狂いもないカーテシーを披露する。
「ようこそお越しくださいました、ルーカス様。バレンタイン家を代表いたしまして、心より歓迎申し上げますわ」
その完璧な動作と、鈴の転がるような美しい声に、ルーカスに付き添ってきた老執事の目がカッと見開かれた。
『ほう……成り上がりの男爵家に、これほど完璧な礼儀作法を身につけた令嬢が……?』という驚きが手に取るように伝わってくる。
(ふふん、伊達に前世で娘の結婚式のマナー講座や、PTAのお茶会で揉まれてないわよ)
「……立ち上がらなくていい。楽にしてくれ」
ルーカスは少し気まずそうに視線を泳がせながら、私と向かい合うソファーに腰掛けた。
両親は「わ、私どもは席を外しますので、どうぞお二人でご歓談を……!」と言い残し、逃げるように応接間を出て行ってしまった。頼りにならないことこの上ない。
応接間に残されたのは、私とルーカス、そして両家の執事とメイドのみ。
静寂が室内を包む。
ルーカスは腕を組み、不機嫌そうな顔でじっと私を見つめていた。そのアイスブルーの瞳は、まるでこちらの隙を探るかのように鋭い。
(まあ、子供なんてこんなものよね。自分から訪問しておいて、いざとなると何喋っていいか分からないのよ。前世の近所の子もそうだったわ)
私は心の中で「よしよし」と頷き、メイドに目配せをした。
「ルーカス様、本日のティータイムには、当家のシェフが腕によりをかけた特製の焼き菓子をご用意いたしましたの。まずは、温かい紅茶をどうぞ」
運ばれてきたのは、バレンタイン家の財力に物を言わせた最高級の茶葉で淹れた紅茶と、見た目も華やかな焼き菓子の数々だ。
ルーカスは紅茶のカップを一瞬見つめたが、手をつける気配はない。
「……僕に媚びを売るつもりなら、無駄だと言ったはずだ」
ボソリと、硬い声でルーカスが呟いた。
「父上に『バレンタイン家に行け』と言われたから来ただけだ。昨夜の君の言葉……『お金があるから地位など要らない』という言葉が、本当に本心かどうか、確かめるためにな」
(うわぁ……やっぱりトゲトゲしてるわねぇ。十歳前後の男の子の「俺は誰も信用しない」モード、本当に懐かしいわ。前世の甥っ子もこんな時期があったわねぇ)
私は怒るどころか、どこか愛おしいような、生温かい気持ちになってしまった。
前世で五十三年間生き、子育てを終えた身としては、こういう背伸びをした子供の態度はただただ可愛らしく見えるのだ。
「確認、でございますか?」
私は優しく微笑みながら、自分の紅茶を一口啜った。
「ええ、どうぞご自由にお確かめくださいませ。ですが、ルーカス様。確認をなさる前に、ひとつだけお聞きしても宜しいでしょうか?」
「……なんだ?」
「そのようにお身体を強張らせて、お疲れではありませんか?」
「なっ……!?」
ルーカスが言葉を詰まらせた。
「昨夜もお見受けいたしましたが、ルーカス様は常に全身に力を入れ、周囲を警戒していらっしゃいます。それでは、せっかくの美味しい紅茶も、味覚を感じる暇がございませんわ。我がバレンタイン家は、あなた様に何のお約束も、何の代償も求めません。ここはただ、美味しいお茶を飲んで、リラックスしていただくための場所でございますのよ」
私はそう言って、彼の前に小さな焼き菓子の皿をそっと近づけた。
「こちらのバターサブレは、甘さ控えめでサクサクとしていて、とても美味しいのです。一口、召し上がってみてくださいな」
「……僕は、甘いものは……」
「あら、男の子は甘いものが苦手な子も多いですものね。では、こちらの塩気の効いたチーズビスケットはいかがかしら? カリッとしていて、香ばしいのですよ」
私はまるで、放課後に家に遊びにきた娘のお友達に「おやつ食べる?」と親身に勧めるお母さんのような、圧倒的な包容力と「押し出しの良さ」で接した。
ルーカスは気圧されたように目を見開いた。
彼の人生において、大人たちは皆、彼を「グランヴェル伯爵家の跡取り」として扱ってきた。頭を下げて媚びを売るか、重い期待を寄せるか、あるいはその立場を怖がるか。
「ひとりの子供」として、ただ体調や緊張を心配され、好みのおやつを勧められたことなど、母親を亡くして以来、一度もなかったのだ。
「……っ」
ルーカスは躊躇するように手を伸ばし、チーズビスケットを小さく口に運んだ。
サクッ、と心地よい音が響く。
「……美味しい」
「でしょう?」
私は満面の笑みを浮かべた。
「近所の生意気なボクちゃんにおやつを食べさせることに成功した」という、主婦特有の小さな達成感である。
「美味しいものを食べている時は、誰でも笑顔になれるものですわ。ルーカス様、あなた様はまだお若いのですから、そんなに難しい顔をなさらず、子供らしく笑っていらして良いのですよ」
(完璧だわ! これで『この家に来ると、美味しいおやつが食べられて楽できる』と思わせて、無害な親戚のおばさんポジションを獲得する作戦ね!)
私は自分の完璧な立ち回りに自画自賛した。
しかし。
私の目の前で、ルーカスの表情が劇的に変化していたことに、私はまったく気づいていなかった。
ルーカスの白磁のような頬が、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。
彼のアイスブルーの瞳は、驚きと、混乱と、そして今まで感じたことのない激しい衝動で揺れていた。
(な……なんだ、この感覚は……!?)
ルーカスの頭の中で、嵐のような思考が渦巻いていた。
自分を伯爵家の人間としてではなく、ただの『自分』として見てくれる存在。
どんな毒舌を吐いても、冷たい態度をとっても、傷つくことも怒ることもなく、まるで大海原のような広い心で全てを受け止めてくれる包容力。
洗練された立ち振る舞いの中に隠された、圧倒的な慈愛と温もり。
(この子は……リナ・ド・バレンタインは……他の人間とは違う! 僕の地位も、家柄も関係なく、僕自身を見てくれているんだ……!)
ルーカスにとって、世界は冷たく不条理な場所だった。
母親を失い、周囲は野心に満ちた大人ばかり。誰にも心を許せず、孤独の氷の中に閉じこもっていた彼にとって、リナの存在は——暗闇に差し込んだ、あまりにも温かく眩しい太陽そのものだったのだ。
「……リナ」
ルーカスが、掠れた声で私の名前を呼んだ。
「ん? なあに、ルーカス様?」
私は首を傾げた。
ルーカスはソファーから立ち上がると、まっすぐに私のもとへ歩み寄ってきた。そして、私の前に膝をつき、私の幼く小さな手をとったのだ。
「……え?」
ちょっと待って。その体勢は何?
乙女ゲームでよく見る「忠誠の誓い」みたいなポーズじゃない?
「リナ・ド・バレンタイン。僕は……僕は今まで、誰も信用してこなかった。だが、君は違う」
ルーカスの瞳に、揺るぎない熱い光が宿っていた。
「君は僕に何も求めず、ただ僕の心を救ってくれた。君のその気高き品格と、温かな慈悲……僕は一生、忘れない」
(はい??? 救援??? ビスケットあげただけですけど???)
「僕はこれから、君にふさわしい男になるために鍛錬を重ねる。だから……僕がまたここに来ることを、許してくれるか?」
真剣そのものの眼差しで私を見つめてくる攻略対象(幼少期)。
後ろに控えていたグランヴェル家の老執事は、感動のあまりハンカチで涙を拭っている。
(待って待って待って! なんでそうなるの!? 私はただの『おやつをくれる金持ちの近所のおばちゃん』になりたかっただけなのよ!?)
私の脳内アラームがガンガンと鳴り響いた。
だが、ここで「いや、私おばさんだから無理」などと言えるはずもない。六歳の幼女がそんなことを言ったら頭がおかしくなったと思われるだけだ。
「あ、ええと……はい。いつでも遊びにいらしてくださいね……?」
私が引きつった笑顔でそう答えると、ルーカスはパッと表情を輝かせた。普段の冷徹な顔からは想像もつかない、年相応の——しかし、どこか重い執着を孕んだ美しい笑顔だった。
「ありがとう、リナ。君のその笑顔を、僕は生涯守ってみせる」
(重い! 重いわボクちゃん!! 六歳のセリフじゃないのよそれ!!)
心の中で激しいツッコミを入れながらも、私は顔を引きつらせて微笑み続けるしかなかった。
こうして、私のアラヒフ仕込みの「おばさんスルー力と包容力」は、完全な裏目に出てしまったのだった。
◇
ルーカスが満足気な様子で帰宅した後。
私は自分の部屋のベッドに倒れ込み、枕に顔をうずめて足をバタバタとさせた。
「どうしてこうなったぁぁぁぁぁ!!」
おかしい。絶対に何かがおかしい。
私の計画では、バレンタイン家の莫大な資金を使って、毎日美味しいものを食べ、家庭教師から適当に勉強を教わり、将来はどこかの害のない金持ちと穏やかに政略結婚(あるいは一生独身で遊んで暮らす)はずだったのだ。
それなのに、なぜ乙女ゲームのメイン攻略対象である「氷の貴公子」ルーカス・フォン・グランヴェルの激重感情を惹きつけてしまっているのか。
「……はぁ、落ち着きなさい、リナ(五十三歳)。まだ焦る時間じゃないわ」
私はむくっと起き上がり、深く息を吐いた。
「ルーカス少年は、まだ十歳そこそこの子供よ。お母さんを亡くして寂しかったところに、たまたま親切なおばさん(見た目幼女)が現れて、一時的に依存しちゃってるだけだわ。そうよ、きっとそうに違いない!」
時間が経てば、彼も成長して素敵な女性(本編のヒロインとか)と出会い、私への勘違いな感情なんて綺麗さっぱり忘れていくはずだ。
それまでの辛抱である。
「よし! 明日からはもっと引きこもり生活を極めましょう。外に出なければ、これ以上勘違いが広がることもないわ!」
そう決意を新たにした私だったが、世の中そう甘くはなかった。
数日後。
「リナ様! 大変です! 今度は王立魔法アカデミーの若き天才魔導師様から、リナ様宛てに『研究の指導(という名のお茶会)』のご招待が届きました!」
「リナ様! 騎士団長の御嫡男様が『バレンタイン家の令嬢の気高い剣の所作(ただの体操)を見学したい』と門前に詰めかけておられます!」
「リナ様! 隣国の王子様から……!」
「……なんでよぉぉぉぉぉぉ!!」
ルーカスが「あのバレンタイン家の令嬢は、真の淑女であり奇跡の存在だ」と各所で吹聴(という名の純粋な称賛)をした結果、私の評判は爆発的に広がり、他の攻略対象や高貴な人々が次々と私に興味を持ち始めてしまったのだ。
「私はただの!! 金持ちの!! おばさんなのにぃぃぃ!!」
自室で頭を抱えて叫ぶ私。
しかし、周囲の大人や子供たちには、それすらも「己の才能をひけらかさず、どこまでも謙虚であり続ける聖女のような奥ゆかしさ」として解釈されていくのだった。
平々凡々な金持ちライフを目指す五十三歳転生令嬢リナの、怒涛の勘違いファンタジー。
彼女が学園に入学するまでの九年間は、まだまだ波乱に満ちているようだった。




