五十三歳おばさん、腐るほどの金と圧倒的勘違いの中で目覚める
「……まあ、なんということでしょう」
白を基調とした豪奢なベッドのうえで、私は自身の小さく白い手をじっと見つめていた。
ふくふくとした丸みを帯びた指先、透き通るような白磁の肌。どこからどう見ても、何十年間も家事と加齢に晒されてきた五十三歳の主婦の手ではない。
「お嬢様! お目覚めになられましたのね! ああ、神様……熱はお下がりになったようですわ!」
豪勢なドレスに身を包んだメイドが、涙を浮かべて私に駆け寄ってくる。その背後には、まるで中世ヨーロッパの城郭を思わせる天井の高い部屋と、美術品のような調度品の数々。
鏡に映った自分の姿を確認した瞬間、私はすべてを理解した。
(私……死んだのね。そして、あのゲームの世界に転生したんだわ)
前世の私は、どこにでもいる五十三歳の専業主婦だった。
娘がドハマりしていた乙女ゲーム『星降る学園と七つの恋』——通称『星恋』。娘から熱弁を振るわれ、キャラグッズの購入に付き合わされ、挙句の果てにはストーリーの攻略情報まで暗記させられるほど叩き込まれていた、あの学園恋愛ファンタジーゲーム。
そして、今の私の名前は、リナ・ド・バレンタイン。
御年六歳。
「お嬢様、お顔色がまだ少し青白くあられます。すぐにお医者様をお呼びいたしますね」
慌ただしく部屋を飛び出していくメイドの後姿を見送りながら、私は深々とため息をついた。
(さて……ポジションの確認ね)
乙女ゲームの世界に転生するパターンといえば、だいたい相場が決まっている。
悲惨な末路を辿る負け犬令嬢か、痛々しい悲劇のヒロインか、あるいは学園を裏で支配する高スペックな悪役令嬢(裏ボス)か。
だが、私——リナ・ド・バレンタインは、そのどれでもなかった。
「バレンタイン公爵家」ではなく「バレンタイン男爵家」。
魔力も低く、政治的な影響力も皆無。学園のシナリオにおいては、背景に映り込むだけのモブ。
しかし、唯一にして最大の特徴がある。
「腐るほどお金がある」
バレンタイン家は、新興の貿易商人から一代で成り上がった超絶大富豪。王国随一の資産を誇り、金に物を言わせて男爵位を買い取ったという、いわゆる「金持ち枠」の超脇役だった。
「完璧じゃない……!」
私は思わずベッドの上で小さくガッツポーズをした。
悪役令嬢のように断罪イベントに怯える必要もない。ヒロインのように攻略対象たちの重い感情を受け止める必要もない。負け犬令嬢のように惨めな思いをすることもない。
ただただ、親の遺した莫大な資産に守られ、美味しいものを食べ、優雅にお茶を飲み、平々凡々と暮らしていけばいいのだ。
娘の推しだったイケメン王子? 知ったことではない。
冷徹な魔導師? 勝手に攻略されていればいい。
私には関係ないわ、と私は爽やかに匙を投げた。人生二周目、五十三歳の中年おばさんの精神を得た私にとって、十代の甘酸っぱい恋愛模様など「若者が何かやっておるわい」という程度の生温かい鑑賞対象でしかないのだ。
「よし、第二の人生は徹底的に楽をして生きよう。金はある。権力争いには絡まない。最高じゃないの」
そう決意を新たにした私だったが、一つだけ、致命的な計算違いをしていることに、この時の私はまだ気づいていなかった。
それは——中身が五十三歳の熟練おばさんである私の「普通」の振る舞いが、この世界の人間にとってどれほど異常に見えるか、ということだった。
◇
「リナ、体調はもう良いのかい? 我が家の宝物、愛しい私の天使……!」
部屋のドアが勢いよく開き、豪華絢爛な服を着た太っちょの男性が転がり込んできた。この屋敷の主であり、私の現・父親であるバレンタイン男爵だ。
後ろからは、派手だが上品なドレスをまとった母親が、ハンカチを濡らしながら続いて入ってくる。
娘を心から愛しているが、成金ゆえに貴族社会からは「下品な成り上がり」と蔑まれている両親。
前世の私なら「まあまあ、お父さん落ち着きなさいな」と煮物でも出しながら宥めるところだ。
「お父様、お母様。ご心配をおかけして申し訳ありません。熱はすっかり下がりましたわ。どうぞ、お掛けになってください」
私はベッドの上で背筋をすっと伸ばし、やわらかな微笑みを浮かべて二人を迎えた。
長年の主婦生活で培われた「客を迎える際の上品かつ無駄のない立ち振る舞い」、そしてPTAの集まりや近所付き合いで極められた「相手を不快にさせない絶妙な表情管理」。それが自然と表に出てしまったのだ。
「「……ッ!?」」
両親がピタリと動きを止めた。
目を見開き、信じられないものを見るような顔で私を見つめている。
「リ、リナ……? お前、今なんと……?」
「お熱のせいで、少しご迷惑をおかけしてしまいましたでしょう? 看病してくださったメイドの皆様にも、後でお礼を申し上げなければいけませんね。……お父様? どうなさったのですか?」
呆然と立ち尽くす父親に、私は首を傾げた。六歳の幼女らしく、可愛らしく首を傾げてみせたのだが——それがかえって火に油を注ぐことになったらしい。
「ああ……神様! 我が娘が、なんと健気で、なんと慈悲深く、なんと洗練されたお方になられたのだ……!」
「リナちゃん! 我が家の天使が、まるで大公妃様のような品格を……!」
二人は抱き合って号泣し始めた。
(いや、なんで!?)
単に「熱を出して心配かけたね、ありがとう」と言っただけである。だが、成金バレンタイン家の我儘に育つはずだった幼女が、病上がり開口一番に感謝と配慮の言葉を完璧なマナーで口にしたのだ。両親にとっては「我が家に奇跡の聖女が舞い降りた」レベルの衝撃だったらしい。
その日を境に、屋敷の空気は一変した。
「リナ様、お茶をお持ちいたしました」
「ありがとう、マリア。今日のスコーン、とても良い焼き色ね。調理場のみんなにも『とても美味しい』と伝えてくれるかしら?」
「〜〜〜ッ!! はいっ! 喜んでお伝えいたします!!」
メイドのマリアが胸を熱くして去っていく。
私はただ、前世で近所の奥さんに「このお煎餅美味しいわねぇ」と世間話をする感覚で褒めただけなのだが、使用人たちの間では「幼くして配下を慈しみ、正当な評価を下さる素晴らしいお嬢様」として神格化され始めていた。
(……まあいいわ。使用人さんたちと良好な関係を築くのは、平穏な引きこもり生活の基本だものね)
私は優雅に紅茶を啜りながら、今後の人生設計を練っていた。
学園に入学するのは十五歳。あと九年ある。
それまでに、私は圧倒的な「無害な金持ち」としての立場を確立するのだ。学園に入っても、目立たず、騒がず、図書室の隅で美味しいお菓子を食べながら、ヒロインと攻略対象たちのドロドロした恋愛模様を「若いっていいわねぇ」と遠目から眺める。それこそが私の理想の老後——いや、第二の人生である。
しかし、運命の歯車は、私の意図とは全く違う方向へと狂い始めていた。
◇
数日後。
バレンタイン男爵家は、成り上がりとはいえ圧倒的な資金力を有しているため、領内の貴族や商人たちが集まる小規模な夜会(交流会)を主催することになった。
私はまだ六歳なので、挨拶程度で引っ込む予定だったのだが……。
「リナ、今日のパーティーには、我が家と取引のある伯爵家のお坊ちゃんもいらっしゃるんだ。無理に仲良くしなくてもいいからね」
父親が恐縮そうに私に話しかけてくる。
伯爵家といえば、我が家よりもずっと格上の貴族だ。成り上がりの我が家を内心見下しているのだろう。
「大丈夫ですよ、お父様。私は私のできる範囲で、失礼のないようおもてなしいたしますわ」
私はふっと微笑んだ。五十三年の人生経験からすれば、マウントを取ってくる相手の受け流しなどお手の物だ。PTAの会長選や自治会の班長決めなどで鍛え上げられた「生温かいスルー力」を舐めてもらっては困る。
会場に入ると、煌びやかな衣装を身にまとった大人たちが歓談していた。
その一角に、不機嫌そうにポツンと立っている少年がいた。
(あ……)
私は思わず目を見開いた。
つやつやとした美しい銀髪に、吸い込まれそうなアイスブルーの瞳。幼いながらも整いすぎている顔立ち。そして、周囲を威嚇するような刺々しい空気。
(『星恋』の攻略対象の一人……ルーカス・フォン・グランヴェル伯爵令息……!)
間違いない。ゲームの初期設定資料集で娘に見せられた、あの「氷の貴公子」だ。
幼少期に母親を亡くし、人間不信に陥っているため、誰に対しても心を閉ざしているという面倒くさい属性の男の子である。
(うわぁ……生で見ると、本当に綺麗な顔をしてるわねぇ。フィギュアみたい。……でも、関わらないでおこう。攻略対象と関わるとろくなことがないわ)
私は回れ右をして、デザートコーナーへ向かおうとした。
しかし、運悪くルーカス少年とバッチリ目が合ってしまった。
逃げるのも不自然だ。私は前世で培った「近所のクソ生意気なガキに対する、余裕たっぷりのオバちゃんスマイル」を炸裂させることにした。
歩み寄り、完璧なカーテシー(淑女の礼)を披露する。
「初めまして、グランヴェル伯爵様。バレンタイン男爵が娘、リナ・ド・バレンタインと申します。我が家のお茶会へようこそお越しくださいました」
完璧な角度、完璧な発声、無駄のない所作。
周囲の大人たちが「ほう……」と息を呑むのが分かった。
ルーカス少年は、私を冷ややかな目で見下ろしてきた。六歳にしては出来すぎた、刺すような視線だ。
「……成り上がりのバレンタイン家か。僕に擦り寄って、何を得ようとしている? 金か? 地位か?」
(うわ〜〜〜〜、青い! 青いわ〜〜〜! 十歳くらいかしら? イキってるわね〜〜〜!)
内心で大爆笑しながらも、私は顔には一切出さず、慈愛に満ちた(というか、孫を見るような)笑顔を維持した。
「擦り寄るなど、とんでもございません。私はただ、遠方からお越しいただいたお客様に、心地よく過ごしていただきたいだけでございます」
「ウソをつけ。誰も彼も、僕の家柄と顔しか見ていない。お前もどうせ、僕に気に入られてバレンタイン家の地位を上げたいのだろう」
ハッ、と鼻で笑うルーカス少年。典型的な「誰も僕を理解してくれない」モードに入っている。
前世の私なら、こういう生意気な子には「ボクちゃん、そんなにトゲトゲしてると美味しいご飯がマズくなっちゃうわよ〜」とみかんでも押し付けるところだ。だが、ここは貴族社会。私は大人の対応を貫くことにした。
「グランヴェル様」
私は静かに語りかけた。
「お言葉ですが、我がバレンタイン家には、地位を求める必要がないほどの『お金』がございます」
「……は?」
「名誉や地位は素晴らしいものですが、お腹を満たすことはできませんわ。我が家はお金がたくさんございますので、美味しいものを食べ、温かい服を着て、穏やかに暮らすことができます。ですから、あなた様から何かを奪おうなどとは、露ほども思っておりません」
事実である。私には野心などゼロだ。ただお金を使ってダラダラしたいだけなのだから。
「それに……」
私は少しトーンを落とし、ルーカス少年の顔を覗き込んだ。
「そんなに肩に力を入れていらっしゃっては、せっかくの美味しいタルトが台無しになってしまいますわ。あちらの苺のタルト、とても美味しいのですよ。宜しければ、おひとついかがですか?」
そう言って、私は給仕から受け取っていた小皿のタルトを、両手でそっと差し出した。
「……ッ!?」
ルーカス少年は、弾かれたように目を見開いた。
彼の頭の中では、激しい混乱が巻き起こっていたことだろう。
自分に群がってくる大人や子供たちは、皆「グランヴェル伯爵家」という権力を求めて媚びを売ってきた。あるいは、彼の冷酷な態度に恐れをなして逃げ出した。
だが、目の前の小さな少女は違った。
権力にも地位にも興味がないと言い切り(実際、金があるから)、自分の刺々しい態度を恐怖するどころか、「肩の力を抜きなさい」と親のような包容力で包み込んできたのだ。
しかも、その所作は王宮の高級貴族すら凌駕するほど洗練されており、瞳には一切の濁りや欲望がない。ただただ、深く、温かい、静寂のような落ち着き。
ルーカス少年の目には、今の私がどう映っていたか。
『幼くして世界の真理を悟り、欲望に惑わされず、ただ純粋な善意と品格をもって他者を包み込む、孤高にして完璧な奇跡の少女』
……重度の勘違いである。
私はただの「お腹いっぱいで眠い五十三歳のおばさん」なのだから。
「……いらない」
ルーカス少年はぷいっと顔を背けた。しかし、その耳たぶがほんのりと赤くなっているのを、私は見逃さなかった。
(あらあら、照れちゃって。可愛いところがあるじゃないの。まあ、これで私にまとわりつくこともないでしょう)
「そうでございますか。では、失礼いたしますね。ごゆっくりお過ごしくださいませ」
私は満足して一礼し、軽やかな足取りでデザートコーナーへと向かった。
しかし、私が去った後。
ルーカス・フォン・グランヴェルは、私の後ろ姿を、まるで生まれて初めて太陽を見たかのような、強烈な眼差しで見つめ続けていたのだった。
「リナ・ド・バレンタイン……。あんな奴……あんな……」
彼の胸の中で、何かが決定的に変わってしまったことに、私はまだ気づいていなかった。
◇
交流会が終わり、自室に戻った私は、豪華なパジャマに着替えてベッドに潜り込んだ。
「ふぅ……疲れたわね。やっぱり大人の付き合い(子どものフリ)は体力を使うわ」
ふかふかの枕に顔をうずめながら、私はフフッと笑った。
今日の対応は完璧だったはずだ。
バレンタイン家の金持ちパワーをアピールしつつ、攻略対象であるルーカス少年とは一定の距離を保ち、「ただの無害な金持ちの娘」として印象付けた。これで彼が私に深く関わってくることはないだろう。
学園に入るまでのあと九年間、私はこの調子で「目立たず、優雅に、金を使って楽をする」を徹底すればいい。
「おやすみなさい、私の素晴らしい第二の人生……」
私は満足感に包まれながら、深い眠りについた。
——しかし。
翌朝、バレンタイン男爵家に、一通の豪華な親書が届くことになる。
差出人は、グランヴェル伯爵家。
内容は、「昨日のお礼と、今後の両家の定期的な交流(という名の、ルーカス少年からの個人的な訪問依頼)」についてであった。
さらには、昨夜の交流会で私の「完璧すぎる淑女の振る舞い」を目撃した他の貴族たちから、「ぜひ我が子のお友達に」「あのような素晴らしい令嬢にお目にかかりたい」というお茶会の招待状が、山のように届くことになるのだが——
この時の私はまだ、何も知らずに幸福な夢を見ていたのだった。




