王国の誤算と、断れない伯爵位〜男爵家の躍進と、こたつの拡大〜
デビュタント夜会での「シャルロット改心事件」から数週間。
王立学園は、かつてない静けさと……かつてない狂気に包まれていた。
かつて『星降る学園と七つの恋2』の腹黒ヒロインとして社交界を揺るがすはずだったシャルロット・フォン・ローゼンベルク伯爵令嬢は、今や『聖バレンタイン教会』の最高企画参謀として、その悪知恵のすべてを「リナ教の布教」と「衛生管理の徹底」へと注ぎ込んでいた。
「マリアンヌさん! まだ手洗いの時間が二秒足りませんわよ! 爪の間までアルコール消毒を行き届かせなさい!」
「うるさいわねぇシャルロット! 私だって元・仮聖女よ!? アンタこそ葛湯の温度管理が甘くてリナ様の口内炎を予防できてないじゃないの!」
かつてお互いを陥れようとしていたはずの新旧ヒロイン二人が、今やリナの「健康管理」の覇権を巡って切磋琢磨している。
王立学園は、完璧なディストピア的平和を維持していた。
そんなある日。
バレンタイン男爵家の屋敷に、王室から巨大な金色の大紋章が押された特筆級の親書が届けられた。
◇
「リナ……大変なことになったぞ……」
バレンタイン男爵家の豪華なリビング。
魔導こたつでぬくぬくと『自家製のみかんのシロップ漬け』を食べていた十五才のリナの前に、父であるバレンタイン男爵が膝をガクガクと震わせながら現れた。
その手には、国王陛下の直筆サインと玉璽が押された凄まじい羊皮紙が握られている。
「どうされたのですのお父様? そんなに青いお顔をして……また血圧が上がっていらっしゃいませんか? はい、玉ねぎの皮茶をお飲みなさいな」
「お茶を飲んでいる場合ではないのだリナ! み、見ろこれを! 国王陛下より……我がバレンタイン男爵家に対する『伯爵位への昇爵内示』だ!!」
「まあまぁ、伯爵位」
リナはパチパチと可憐に瞬きをした。
「伯爵というと、男爵よりも二つ上のお位ですのねぇ。すごいことですわ」
「すごいどころの騒ぎではない!!」
男爵……いや、間もなく伯爵となる父親は頭を抱えて叫んだ。
「我が家はもともと貿易商人から成り上がり、莫大な富に物を言わせて男爵位を買い取った『金持ち枠の超脇役』に過ぎんのだぞ!? 魔術の血統もなければ、伝統的な政治的功績もない! そんな成金男爵家が、一気に二階級特進で『伯爵』に昇格するなど、王国史上前代未聞なのだ!」
「あら、でもお父様。何か理由があってのことなのでしょう?」
リナがのんびりと尋ねると、男爵は羊皮紙に書かれた恐ろしい功績目録を読み上げ始めた。
「理由だと……? 山ほど書いてあるぞ!
『第一の功績:バレンタイン男爵令嬢リナによる、王立学園内における伝染病・風邪の完全撲滅(※手洗いとうがいの徹底)』
『第二の功績:第一王子エドワード、第二王子アルフレッドの精神的安定および王位継承権闘争の無血解決(※こたつでの骨抜き)』
『第三の功績:隣国ガゼル王国との永久不可侵同盟の締結(※ガゼル王子の全財産寄進)』
『第四の功績:領内における物流改善、ゴミ問題の解決、自家製葛湯および発酵食品による全国民の平均寿命の底上げ』……!!」
男爵はハァハァと息を荒げた。
「国民の平均寿命を底上げした男爵家なんて聞いたことがないわ!! お前が『近所のごみ拾い』だの『美味しい納豆の作り方』だのを領民に教えていたせいで、王国の税収が前年比三〇〇%に跳ね上がっているのだぞ!」
「あらまあ。領民の皆さんが元気になってくださったなら、それが一番ですわぁ」
リナはほっこりと微笑んだ。前世でのベテラン主婦としての知恵——生ごみのコンポスト化、適切な分別、発酵食品による腸内環境の改善、塩分の控えめな食事の推奨——をただ教えただけである。
だが、中世レベルの衛生観念しかなかったこの異世界において、それは「国家の基盤を揺るがす神レベルの技術革新」であったのだ。
「だがなリナ!」男爵は真剣な顔で娘を見つめた。
「貴族社会には格というものがある。我が家のような新興の成金が伯爵などになれば、伝統ある大貴族たち……特にグランヴェル伯爵家のような歴史ある古参の伯爵家から、激しい嫉妬と反発を買うのは目に見えている! 『金に物を言わせて伯爵位まで買ったか』と笑いものにされ、社交界から陰湿な攻撃を受けるやもしれんのだ!」
「まあ……他人の成功を嫉むのは、健康に良くありませんわねぇ」
リナは困ったように首をかしげた。
「でも、お断りすることはできないのですの?」
「できるはずがなかろう! 裏で糸を引いているのは、エドワード殿下とアルフレッド殿下、そしてルーカス公爵令息だ! あの男たちが国王陛下に詰め寄り、『リナ様が男爵令嬢のままでは身分が低すぎて、王妃としてお迎えする際の儀礼上の手続きが煩雑になる! 今すぐ伯爵……いや、公爵にしろ!』と刃物を突きつける勢いで迫ったらしいのだから!」
「あらあら……殿方ったら、相変わらず気が早いですわねぇ」
リナはふぅと温かいお茶を啜った。王妃になるつもりなど1ミリもないリナとしては、身分が上がろうが下がろうがどうでもよかったが、父親が胃を痛めているのは見過ごせない。
「わかりましたわ、お父様。では、叙爵式と祝賀会には、私も一緒に出席いたしますわね」
◇
数日後。王都の最上級迎賓館において、バレンタイン男爵家の『伯爵昇格祝賀パーティー』が執り行われた。
会場には、王国の高位貴族たちが一堂に会していた。
豪華な衣装に身を包んだ公爵、侯爵、伯爵たち。だが、その空気は極めて冷ややかなものであった。
「見たか……あのバレンタイン男爵を。いや、今日からは『バレンタイン伯爵』か。笑わせるな」
「金で買った男爵位から、娘が王子たちをたぶらかしたおかげで伯爵だと? 恥を知らんのか」
壁際でワイングラスを片手に悪口を囁き合っているのは、古参の伝統貴族であるグランヴェル伯爵とその一派であった。
グランヴェル伯爵は、長年にわたり王国の軍務と政治を支えてきたという自負がある。それだけに、商人上がりの成金が自分たちと同格の「伯爵」に並ぶことが、許しがたい屈辱であったのだ。
「フン、どれほど金を持っていようと、男爵家上がりの田舎者に本物の貴族の気品と格などあるはずもない。今日の夜会で、あの男爵令嬢の無知と無教養を暴き、大恥をかかせてやる」
グランヴェル伯爵は、冷酷な笑みを浮かべてリナのもとへと歩み寄った。
その傍らには、グランヴェル伯爵家の若き跡取りであり、王立学園の優秀な生徒でもある息子のジュリアンが控えていた。
「初めまして、バレンタイン『伯爵』令嬢殿。私はグランヴェル伯爵である」
「あら、グランヴェル様。初めまして、リナ・ド・バレンタインと申しますわ」
リナは上品にスカートの裾を持ち上げ、完璧な淑女の礼を披露した。
前世の主婦の経験と、バレンタイン家の莫大な家庭教師費用によって叩き込まれた作法は、隙がなかった。
「ふむ……作法だけは形になっているようだな」
グランヴェル伯爵は鼻を鳴らし、嫌味たっぷりに言い放った。
「しかし、貴女がたバレンタイン家は、金と奇妙な『お茶』の力で王子たちを惑わし、この栄誉を手に入れたと聞く。だが、伯爵位とは単なる称号ではない。領民の命を預かり、領地の産業を育成し、国家に貢献する重責が伴うのだ。商人上がりの貴女がたに、真の領地経営などできるのかな?」
「領地経営、ですの?」
リナは首を傾げた。
グランヴェル伯爵は勝ち誇ったように胸を張った。
「そうだ!我がグランヴェル伯爵領は、王国一の羊毛の産地であり、伝統的な職人技による織物産業で国を支えている!それに比べて、バレンタイン男爵……いや、伯爵領は急激な商業発展で人口が膨れ上がり、食料は不足し、街にはゴミが溢れていると聞く!そのような不衛生で混乱した領地しか持たぬ者が、我らと同格を名乗るなど笑止千万!」
グランヴェル伯爵の威圧的な言葉に、周囲の大貴族たちからクスクスと嘲笑が漏れた。
リナの父親であるバレンタイン男爵は、顔を真っ赤にして青ざめている。
(勝った……! これで成金男爵家のメッキは剥がれた!)
グランヴェル伯爵がそう確信した、その時であった。
「あら?」
リナが、ほのぼのとした声を上げた。
「グランヴェル様。グランヴェル領の羊毛産業、素晴らしいですわねぇ。でも……今年の羊毛の品質、少し『ダニ』と『湿気によるカビ』の被害が出ていらっしゃいませんか?」
「……なっ!?」
グランヴェル伯爵の顔色が、一瞬で変わった。
「な、なぜそれを……!?」
「まあ、当たり前ですわ」
リナは親身な目つきで、グランヴェル伯爵の豪華な羊毛のコートをそっと指さした。
「羊毛の保管倉庫の換気が不十分で、羊たちの飼育環境における衛生管理が甘いのですわ。羊の皮膚病予防のための『薬湯消毒』を怠っていらっしゃいませんか? それに、毛を刈り取ったあとの洗浄工程で、アルカリ性の強い石鹸を使いすぎているため、繊維が傷んでゴワついておりますわ」
「な……ななな……!?」
グランヴェル伯爵は絶句した。
それは、グランヴェル伯爵家が極秘裏に抱えていた、今年の最大のアキレス腱であった。羊毛の品質低下により、織物ギルドからのクレームが相次ぎ、経営を圧迫し始めていたのだ。なぜ、男爵家の少女がそれをひと目で見抜く!?
「それに、領地の食料不足とおっしゃいましたけれど……」
リナは可愛らしく指を顎に当てた。
「我がバレンタイン領では、先月から『大豆の輪作』と『自家製堆肥による土壌改良』を導入いたしましたの。お陰様で、収穫量は昨年の二倍以上。余った大豆で味噌と醤油、豆腐を大量生産しておりますので、食料不足どころか、他領への輸出が追いつかないほどですのよ?」
「た……大豆の輪作……!? 味噌……!? なんだそれは!聞いたこともない農法だぞ!?」
「ゴミ問題も、分別回収とハーブを用いた除菌消臭システムで解決いたしましたわ」
リナは誇らしげに胸を張った。前世で主婦として培った環境保護とリサイクルの知恵である。
「今や我が領地は、王国で最も病気の少ない『健康モデル都市』として、全土から見学者が訪れておりますの。グランヴェル様の領地でも、もし羊のダニ駆除や倉庫の除菌でお困りなら、我が家の特製『酢とハーブの除菌スプレー』をお分けして差し上げましょうか?」
「くっ……! 戯言を……ッ! そんな怪しい農法やスプレーなど……ッ!」
グランヴェル伯爵が怒りに震えて叫ぼうとした、その時。
「——黙れ、グランヴェル」
地獄の底から響くような、冷徹な声が会場を支配した。
「ひっ!?」
会場の空気が凍りついた。
現れたのは、第一王子エドワード殿下、第二王子アルフレッド殿下、そしてルチア公爵家のルーカス、魔導院のシオン、ガゼル王子であった。
エドワード殿下の瞳には、かつてない殺気が宿っていた。
「我がバレンタイン伯爵家のリナ様に対し、無知だの成金だのと暴言を吐いたな……グランヴェル」
「エ、エドワード殿下……!? 私めはただ、貴族としての矜持を……!」
「矜持だと?」
アルフレッド殿下が軍刀の柄に手をかけた。
「リナ様が考案された衛生管理と新農法は、我が国の国力を二倍に引き上げたのだ。それを『戯言』と吐き捨てるとは、国家に対する反逆と同義である」
さらに、人込みを割って現れたのは——【聖バレンタイン教会・最高大司教】の衣装を着たルチア公爵令嬢クラリスと、企画参謀のシャルロットであった。
「グランヴェル伯爵」
クラリス様が冷酷な笑みを浮かべた。
「我がバレンタイン教会の聖域たるリナ様に不敬を働いた罪、グランヴェル伯爵領に対する『全商品の不買運動』および『除菌ハーブスプレーの供給停止措置』を決定いたしますわ」
「な、なんだと……!? そんなことをされたら、我が領地の衛生環境が破壊され、織物ギルドが倒産してしまう!!」
「自業自得ですわ」
シャルロットが腹黒い笑みを浮かべて前に出た。
「リナ様の優しさに付け込み、男爵家上がりと見下した愚かさに絶望しなさい。……シオン様、グランヴェル領の羊毛倉庫に『消毒用葛湯』を大量搬入する準備を」
「了解した。羊毛の繊維をすべて葛湯で固め、健康的な和菓子に変換する」
「やめろぉぉぉぉっ!我が家の伝統ある羊毛が和菓子になってしまうぅぅぅっ!」
グランヴェル伯爵はその場に崩れ落ち、頭を抱えて泣き叫んだ。
◇
「あらあら……皆さん、またそんなに怒って……」
リナは困ったように微笑み、崩れ落ちたグランヴェル伯爵の前まで歩み寄った。
「グランヴェル様。大丈夫ですわよ。お怒りになると、血圧が上がって脳の血管に負担がかかってしまいますからね」
リナは隠しポケットから、温かい魔法瓶を取り出した。
「はい、これをお飲みなさいな。『バレンタイン家特製・柿の葉茶』ですわ。ルチンとビタミンCが豊富で、高血圧予防に劇的な効果がありますのよ」
「あ……あ……」
グランヴェル伯爵は震える手で、リナから差し出されたお茶を受け取った。
一口飲むと——渋みの中に、爽やかな甘みが広がり、荒れ狂っていた胸の動悸が嘘のように鎮まっていく。
(な……なんだこのお茶は……!? 心が……心が洗われていく……! 私が抱いていた醜い嫉妬やプライドが、スーッと消えていく……!?)
グランヴェル伯爵の目から、涙が溢れ出した。
「お……お命頂戴いたしました……! バレンタイン伯爵令嬢様……いや、リナ女神様……っ! 我がグランヴェル家は今日限りで羊毛産業を全廃し、リナ様のための『除菌用ハーブ園』へと領地を改修いたしますぅぅぅっ!」
「あらまあ。ハーブ園ですの? それは助かりますわぁ。カモミールがたくさん採れると嬉しいですわねぇ」
こうして、反発するはずだった伝統大貴族の筆頭・グランヴェル伯爵までもが、たった一杯のお茶で「リナ教」の熱狂的な信徒へと落ちていったのである。
◇
祝賀会が終わり、新しく『バレンタイン伯爵家』となった屋敷への帰り道。
豪華な馬車の魔導こたつの中で、リナはふぅと大きな溜息をついた。
「はぁ……今日は少し疲れましたわねぇ」
「リナ……お前というやつは……」
父親であるバレンタイン伯爵が、呆れと感動が入り混じった顔で娘を見つめた。
「我が家は男爵家から伯爵家へと一気に昇格し、大貴族たちの反発を抑え込むどころか、王国全土の貴族を完全に従えてしまったぞ。これでもう、我が家に逆らう者などこの国に一人もいらん……」
「まあ、お父様。爵位が上がっても、やることは変わりませんわよ」
リナはこたつの中で干し柿をかじりながら、ほっこりと微笑んだ。
「朝はちゃんと起きて、手を洗って、美味しいご飯を食べて、夜は温かくして寝る。それが一番の幸せですもの」
(バレンタイン伯爵家になっても、私の目標は変わらないわぁ。この豊かな資産で一生遊んで暮らし、静かにモブとして老後を過ごすのよ)
十五才のベテラン主婦リナ・ド・バレンタインのささやかな老後願望は、バレンタイン伯爵家の巨大な権力と、全土を巻き込む狂信の波によって、さらにスケールアップしながら永遠に続いていくのであった。




