雪華の聖域と狂信の讃歌〜仮聖女マリアンヌの洗礼と、女神リナ・ド・バレンタインの日常〜
冬の訪れは、クレール王国に静寂と厳しい冷気をもたらした。
王立学園の広大な敷地、歴史ある石造りの校舎や回廊は、一面の白銀世界へと姿を変えている。空からは絶え間なく、綿雪が静かに舞い降りていた。
学園の中庭、普段であれば生徒たちの憩いの場となる中央広場には、今や大勢の生徒や教師、さらには王都の新聞記者たちまでもが集まり、異様な熱気に包まれていた。
その狂騒の中心に立っていたのは、あの転校生——マリアンヌ・フォン・ルチアである。
「ご覧なさい! これぞ天から授かりし、真の愛と救済の光……【聖なる治癒】ですわーっ!」
マリアンヌが甲高い声を響かせ、空へ向けて両手を掲げる。
すると、彼女の手元から可憐な桃色の光が放たれ、雪景色の中に暖かな光の粒子が散らばった。
その光が、訓練中に腕を骨折した男子生徒を包み込むと、骨折の痛みが瞬く間に引き、傷が綺麗に塞がっていく。
「おお……! 痛みが消えた! 傷が治っていくぞ!」
「すごい……! あれが、教会から正式に『仮聖女』の称号を授けられたという、マリアンヌ様の治癒魔法か!」
「失われたはずの伝説の聖女の力……! まさに彼女こそ、この国を救う真のヒロインだ!」
歓声と拍手が広場を揺らした。
マリアンヌは胸を張り、ドヤ顔でドリル髪を揺らしながら、高らかに高笑いを上げる。
「おーほっほっほ! 当然ですわ! わたくしこそがこの世界の中心、誰もが愛さずにはいられない可憐な聖女! 教会もわたくしのこの力にひれ伏し、仮聖女として認めたのですもの! さあ、殿方! わたくしの足元にひれ伏し、愛を誓いなさいなーっ!」
かつての音楽祭での大暴走と大失態を経て、一時は学園内で孤立しかけていたマリアンヌであったが、この冬、突如として目覚めた「治癒魔法」によって、一気に形勢を逆転させた気になっていた。
王都の国教会は彼女の力を「数十年に一度の聖女の再来」と認定し、正式な聖女認定の前段階として『仮聖女』の称号と聖十字のペンダントを授与したのである。
「これで……これでついに、わたくしが逆転勝ちですわ! エドワード殿下も、アルフレッド殿下も、あんな地味な大富豪の娘なんて忘れて、わたくしのもとへ……」
マリアンヌが勝利の確信に酔いしれていた、その時である。
周囲の喧騒を切り裂くように、硬質で冷ややかな、しかし狂おしいまでの情熱を秘めたヒールの音が、静かに雪を踏みしめて近づいてきた。
「——相変わらず、虫唾の走るような下品な大騒ぎですわね。我が一族の面汚し、マリアンヌ」
観客の人波が割れ、一人の少女が歩み出てくる。
氷のように美しい顔立ち、一切の乱れもない完璧な立ち振る舞い。公爵令嬢クラリス・フォン・ルチアであった。
マリアンヌはピクリと眉をひそめ、扇子をバッと広げた。
「あら、クラリスお姉様? 相変わらず可愛げのないお顔ですことですわ。嫉妬なさるのも無理はありませんわね。お姉様には何の特別な力もないけれど、わたくしは教会に認められた『仮聖女』なのですから! これでもう、バレンタイン家の金に物を言わせたあの女の天下も終わりですわ!」
「クスクス……アハハハハハ!」
クラリスは突然、気品ある淑女らしからぬ、どこか壊れたような笑い声を上げた。
雪空に響くその笑い声に、周囲の生徒たちが慄いて一歩後退する。
「お笑いぐさですわ、マリアンヌ」
クラリスは扇子を閉じ、冷酷極まりない瞳でマリアンヌを見下ろした。
「国教会の古いジジイどもに『仮聖女』などという安っぽい肩書きを貰った程度で、調子に乗るのも大概におしなさい。貴女が振りまいているその桃色の光……ただの『細胞の活性化を促す魔力現象』に過ぎませんわ。そのような小細工で、あのお方の『神域』に届くとでも思っていらっしゃるの?」
「小細工ですって!? これは治癒魔法ですわよ! 怪我を治す聖なる力ですわ!」
「怪我を治す? ふん、浅い。浅すぎるわ!」
クラリスは一歩踏み出し、胸の前で強く両手を組むと、うっとりと天井(雪空)を見上げた。
「真の救済とは、傷を治すことなどではありません! 病原そのものを寄せ付けぬ『正しい衛生概念』、魂を浄化する『腹式呼吸と喉飴』、そして万物の健康を足元から支える『圧倒的な資本力と自家製生姜葛湯』……! これらを惜しみなく全人類に下賜されるお方——【慈悲と調和の女神】リナ・ド・バレンタイン様の御業こそが、唯一無二の神跡なのですのよ!!」
「な、なんですってぇ!? またあの女の話!? あんなのただの富豪の小娘じゃないの!」
「無礼者が!!」
クラリスの叫びが中庭に轟いた。その眼光には完全なる狂信の炎が宿っている。
「貴女のような偽りの聖女がどれほど治癒魔法を振りまこうと、リナ様が下さる『大根ハチミツシロップ』一口の価値にも及びませんわ! 良いですか、マリアンヌ。貴女が教会から貰ったそのペンダントなど、リナ様が新設される【聖バレンタイン教会】の神前においては、ただの落書きされた石ころも同然ですのよ!!」
「せ、聖バレンタイン教会……!? なによそれ、聞いたこともないわよ!」
「これから創るのですわ!!」
クラリスは断言した。
「我がルチア公爵家の全権力と、バレンタイン家の国家予算を超える莫大な資産、そして……リナ様に狂わされた攻略対象の男たちの狂愛をすべて注ぎ込み、この国の腐敗した旧国教を廃して、リナ様を唯一の主神とする『聖バレンタイン大聖堂』を王都の中心に打ち立てますの! 貴女のような『仮』の聖女など、その大聖堂の床を拭く雑巾以下の存在ですわ!」
「狂ってる……! この女、完全に頭がおかしくなってますわーっ!?」
マリアンヌは思わず叫び、悲鳴を上げて後ずさった。
周囲の生徒たちも「聖バレンタイン教会……?」「公爵家が新興宗教を……?」「でもバレンタイン家の金と公爵家の権力があれば本当に国教を潰せるのでは……」とガタガタと震え上がっている。
◇
まさにその時。
「——おい、クラリス。僕たちの女神の聖域で、あまり下品な大声を出すな」
重々しくも冷徹な声が響き、生徒たちの人波が再び割れた。
現れたのは、第一王子エドワード殿下、第二王子アルフレッド殿下、公爵嫡男ルーカス様、魔導師シオン様、そして異国のガゼル王子——学園が誇る【攻略対象】の男たちであった。
彼らの登場に、マリアンヌの瞳がパッと輝いた。
「あっ……殿下方! エドワード殿下! お助けくださいまし! クラリスお姉様が恐ろしい狂信的なことを言い出して……わたくし、治癒魔法に目覚めて仮聖女になりましたの! わたくしのこの力で、殿下方の傷も心も癒して差し上げますわ!」
マリアンヌは可憐な笑みを浮かべ、エドワード殿下へと駆け寄ろうとした。
しかし。
「寄るな、雑音」
エドワード殿下の声は、氷よりも冷たかった。
その瞳には一滴の温度もなく、ただ暗い執着と狂熱の炎だけが燃え上がっている。血走りそうな眼光で、エドワード殿下はマリアンヌを泥でも見るような目で見下ろした。
「な……殿下……?」
「僕の視界に入るなと言っているんだ」エドワード殿下は低く吐き捨てた。「怪我を治す? そんなものが何だ。僕が求めているのは、僕の傷を癒す力などではない。僕の魂のすべてを侵食し、僕を完全な狂気へと陥れた……リナのあの温かいハーブティーと、優しいお説教だけだ……!」
「へ……?」
「兄上の言う通りだ」アルフレッド殿下が、狂気を孕んだ薄笑いを浮かべながら歩み寄る。「仮聖女だの治癒魔法だの、ヘドが出るほど浅はかだな。僕たちが求めているのは救いではない。リナという絶対的な存在に、永遠に囚われ続ける絶望的な至福だ。あいつが僕に差し出した梅炭酸水の刺激、僕を『手洗いを怠る困った子』として見下ろすあの聖母の瞳……! あれ以外のものに、僕の心が動くと思うか?」
「私の計算でも」シオン様が血走った眼鏡の奥の瞳をギラつかせながら言った。「マリアンヌ候補生の治癒魔法による波長は、師匠の『科学的衛生管理』の美しさに比べて0・0001%の価値も検出されません。師匠の細胞、師匠の吐息、師匠の淹れるお茶の分子構造こそが、この世の唯一の真理です。私を狂わせた責任を、師匠には生涯かけて取っていただかねばならない……!」
「我が公爵家の財産も、私の命も、すべてはリナを祀る大聖堂の礎だ」ルーカス様が冷ややかに微笑む。「リナを特定の誰かの妻にするのではない。リナを神とし、我ら全員でその神殿を守護し、生涯を捧げる……クラリスの案こそが、我々がリナを永遠に愛し続けるための唯一の聖域なのだから」
「俺の国も全財産を寄進するぜ!」ガゼル王子が拳を握りしめる。「リナ女神様のために生き、リナ女神様のために死ぬ! おい偽聖女、邪魔すんなら俺の国の精鋭部隊で叩き潰すぞ!」
「ひえっ……!? な、なに……!? みんな……みんな頭がおかしくなってるの……!?」
マリアンヌは顔面を蒼白にし、ガタガタと膝を震わせた。
学園の頂点に立つ美形たちが、全員揃って目を血走らせ、一人の少女への「常軌を逸した狂愛」と「新興宗教の樹立」について熱弁しているのだ。もはや恋だの愛だのという甘い次元ではない。完全な狂信者の集団であった。
「さあ、殿方!」クラリスが扇子を掲げ、高らかに叫ぶ。
「聖なる大仏頂……いいえ、聖なる女神リナ・ド・バレンタイン様のもとへ参りましょう! 本日もあのお方は、我々愚民に聖なる安らぎを賜るため、中庭にて降臨されておられますわ!」
「「「おおおおおっ!!」」」
王子たちと男たちが、狂気じみた歓声を上げて中庭の奥へと行進を始めた。
その後ろには、クラリスに先導された生徒たちが「リナ様!」「女神様!」「葛湯を下さーい!」と讃美歌のように叫びながらゾロゾロとついていく。
仮聖女マリアンヌだけが、雪の上にへたり込んだまま、「なんなのよこの世界ぃぃぃぃ目覚めたはずなのにヒロインの扱いじゃないじゃないのぉぉぉぉ!!」と絶叫していた。
◇
一方、その頃。
狂騒の渦中にある中庭の奥——風が遮られる大きな樟の木の下。
当のリナ・ド・バレンタイン(中身:五十三歳のベテラン主婦)はというと。
「ふぁ〜あ……。やっぱり冬は、こたつに限りますわねぇ……」
なんとリナは、バレンタイン家の莫大な資金力をフル活用して特注させた『魔導ポータブルこたつ(防水加工シルク布団付き)』を雪の上に設置し、その中でぬくぬくと温まっていた。
こたつの上には、湯気を立てるお茶の入った急須と、高級な漆塗りの重箱。
中身は、バレンタイン家の領地で採れた最高級の甘芋で作った『自家製焼き芋』と『黒糖生姜湯』である。
「外は雪で寒いですけれど、こうして暖を取れば風邪も引きませんわ。やっぱり『首・手首・足首』の三つの首を温めるのが、冬の健康の基本ですものねぇ」
リナは小さな手でほくほくの焼き芋を割ると、ふーふーと息を吹きかけ、美味しそうに口へと運んだ。
彼女の頭の中には、ヒロインの治癒魔法も、教会の仮聖女認定も、何一つ入っていない。
(前世の日本の冬はこたつとみかんだったけれど、この世界の甘芋もねっとりして美味しく焼けるわねぇ。後でお父様に頼んで、学園の全教室にこたつを寄付してもらおうかしら。寒さで風邪を引かれたら大変だもの)
などと、相変わらず「静かな老後」と「全校生徒の健康管理」のことばかり考えていた。
そこへ——
「リナ様ぁぁぁぁぁぁっ!!」
雪を蹴立てて、地響きのような大歓声と共に、狂信者の群れが雪崩れ込んできた。
先頭を切るのは、両手を広げて恍惚の表情を浮かべるクラリス。
その後ろには、血走った眼光でリナを見つめるエドワード殿下、アルフレッド殿下、ルーカス様、シオン様、ガゼル王子。
そして、彼らに触発された大勢の生徒たちである。
「あらあら……?」
リナは焼き芋を咥えたまま、パチパチと瞬きをした。
「皆さん、そんなに走ってどうされたのですか? 冬の雪道で走ると滑って転んで骨折しますわよ? ほら、呼吸を整えて、お落ち着きなさいな」
「っ……!!」
その一言。
リナが焼き芋を咥えながら放った、あまりにも素朴で、あまりにも母性に満ちたお説教。
それを受けた瞬間、血気盛んに突き進んできた男たちの足がピタリと止まった。
「あ……ああ……っ!」
エドワード殿下が胸を押さえて膝をつく。
「これだ……この温かさだ……! 王権も、名誉も、僕のちっぽけな自尊心も……リナのこの言葉一つで溶けていく……! リナ、僕の女神……!」
「う……美味そうだ……」アルフレッド殿下がふらふらと歩み寄り、こたつの前にひざまずいた。「リナ……その焼き芋……僕にもくれ……。あんな偽聖女の魔法なんかより、君の焼き芋の方が……百倍僕の心を癒やす……!」
「師匠……!」シオン様が血走った目でノートを開く。「雪上でこたつを展開し、体温維持と栄養補給を同時に行う……これぞまさに『絶対的生存理論』……! 師匠、どうか私をそのこたつの中に永久に格納してください!」
「リナ、愛している……!」ルーカス様が膝をつき、リナのレジャーシートに額を擦り付ける。「君を神と崇め、この命のすべてを捧げよう……!」
「俺にも焼き芋くれぇぇぇ!」ガゼル王子が叫ぶ。
男たちが全員、リナのこたつの周りにひれ伏し、救いを求める信徒のように重箱の焼き芋を見つめている。
「あらあら……」
リナは困ったように微笑むと、首を傾げた。
「皆さん、お腹が空いていらっしゃったのねぇ。生徒会のお仕事や訓練で大変でしたものね。はいはい、順番ですよ。喧嘩しないで、ちゃんとお手を拭いてから召し上がりなさいな」
リナは巾着袋から特製の『除菌ハーブウェットティッシュ』を取り出し、王子たち一人一人の手に持たせてあげた。
「はい、殿下も。手洗いは基本ですからね」
「う……うん! 僕、ちゃんと手を拭くよ、リナ……!」
エドワード殿下が感涙を流しながら手を拭く。
「アルフレッド様も、ほら。冷えた体には生姜湯が効きますわよ」
「あ……ありがとう、リナ……っ。一生……一生この器を洗わずに宝物にする……!」
アルフレッド殿下が震える手で葛湯を受け取る。
その光景を見ていたクラリスは、胸の前で強く手を組み、ボロボロと聖なる涙を流した。
「ご覧なさい……!」
クラリスは後ろに控える生徒たちに向かって、高らかに宣言した。
「偽りの聖女が振りまく治癒魔法など、何の価値もない!
ご覧なさい、我が国の王子たちを、異国の王を、天才魔導師を……たった一枚のウェットティッシュと温かい焼き芋で従わせ、魂を救済されるあのお姿を!
これぞまさに、現世に降臨された【慈悲と調和の女神】リナ・ド・バレンタイン様の神跡ですのよ!!」
「「「リナ女神様万歳! 聖バレンタイン教会万歳!!」」」
生徒たちが一斉に歓声を上げ、雪の上でひれ伏した。
「え……? きょうかい……? ばんざい……?」
リナは葛湯をすすりながら、ぽかんと口を開けた。
(なにかしら……? なんだか皆さん、とっても楽しそうですけれど……。まあ、みんなが風邪を引きそうにないなら、それで良しとしましょうかねぇ)
リナは深々と溜息をつくと、こたつのぬくもりに身をゆだね、再びほくほくの焼き芋を口へと運ぶのだった。
◇
数日後。
王都の国教会本部は、空前の大混乱に陥っていた。
「大変です、大司教様! ルチア公爵家とバレンタイン家が共同で、新興宗教『聖バレンタイン教会』の設立申請を提出してまいりました!」
「な、何だと!? 公爵家と、国一番の大富豪が手を組んだというのか!?」
「それだけではありません! 第一王子エドワード殿下、第二王子アルフレッド殿下をはじめとする全攻略対象……失礼、国の主要要人たちが、その教会の『第一筆頭信徒』として名を連ね、私財と軍隊の提供を表明しております!」
「ば……バカな! 我が教会が認定した『仮聖女マリアンヌ』はどうなったのだ!?」
「は……仮聖女様は現在、学園の中庭で『誰も私を見てくれないのぁぁぁ!』と叫びながら、一人で治癒魔法の光を空に打ち上げるだけの練習機と化しております……!」
「なんということだ……! 国教会が終わってしまう……!!」
王国の歴史が、一人のベテラン主婦(八歳)の無自覚な母性と、彼女に狂った信徒たちの手によって、大きく塗り替えられようとしていた。
リナの「実家の資産で一生遊んで暮らし、静かにモブとして老後を過ごしたい」というささやかな願いは、舞い散る冬の雪と共に、二度と戻れぬ神話の彼方へと消え去っていくのであった。




