冷徹な毒舌王子と、唯一の温もり~第二王子アルフレッドの密かな執着~
僕の名前はアルフレッド・フォン・クレール。
このクレール王国の第二王子にして、王宮の誰もが「触らぬ神に祟りなし」と恐れる、ひねくれた厄介者だ。
物心ついた頃から、僕の周囲には「嘘」と「打算」しか溢れていなかった。
側近も、貴族たちも、そして血の繋がった父親である国王でさえも、僕の目を見るときは「第一王子エドワードの引き立て役」として、あるいは「利用価値のある駒」としての打算的な光を宿していた。
『第二殿下は、お体がお弱い』
『少し神経質で、気難しいお方だ』
周囲はそう言って僕を遠ざけ、腫れ物に触るように扱った。
だから僕は、心を閉ざした。誰も信じない。誰も愛さない。すべてを冷笑し、毒を吐き散らすことで、自分の内側にある脆い心を頑丈な鎧で覆い隠した。
どうせ、この世界にあるものはすべて腐っている。
そう信じて疑わなかった。——あの「規格外の男爵令嬢」に出会うまでは。
◇
初めて彼女を見たのは、王都離宮で開かれたあの地獄のようなお茶会だった。
転校生の令嬢マリアンヌとかいう頭の悪そうな女が、魔力を盛った下品なマカロンを差し出して騒いでいたとき、僕は心底うんざりしていた。
ああやって自分の美貌と権力にすり寄り、裏で何を企んでいるか分かったものではない。女という生き物は、総じて自分の欲のために他者を欺く生き物なのだと、僕は冷笑を浮かべて切り捨てた。
だが、その直後だった。
「アルフレッド殿下。お腹が空いていらっしゃるのに、我慢なさるのは体に毒ですわよ?」
鈴を転がすような、しかし妙に落ち着き払った声が聞こえた。
振り返ると、そこにいたのは——噂の「飛び級生」、男爵家の八歳の娘、リナ・ド・バレンタインだった。
(なんだ、このチビは……? 僕にまですり寄って媚びを売るつもりか?)
警戒心から、僕はいつものように鋭いトゲのある言葉を投げつけた。
しかし、彼女は怯えるどころか、まるで「反抗期の孫を叱る祖母」のような、底抜けに温かく、呆れを含んだ慈愛の目を向けたのだ。
差し出されたのは、『リンゴと生姜の焼きタルト』。
そして温かいハーブティー。
「お砂糖を控えめにし、リンゴの自然な甘みと、胃腸を温める生姜を隠し味に使っておりますの」
ふざけるな、と思った。
僕をなんだと思っているんだ。こんな子供だましのお菓子で、僕の心がほぐされるとでも——。
——胃袋が、裏切った。
朝から何も口にせず、ストレスでキリキリと痛んでいた胃袋が、タルトの香ばしい匂いに反応して、盛大に音を鳴らしたのだ。
顔が沸騰するように熱くなった。死にたかった。消えてしまいたかった。
プライドのすべてが粉々に砕け散る感覚の中で、僕はヤケクソになってそれを口に含んだ。
……衝撃だった。
甘すぎない。重すぎない。
傷ついた僕の胃の腑に、まるで母の腕の中に抱かれるような、優しい温もりが染み渡っていく。
あれほど固く閉ざしていた僕の警戒心が、たった一口の焼き菓子によって、いとも簡単に溶かされてしまったのだ。
『美味しい……』
喉まで出かかったその言葉を、かろうじて僕はプライドで飲み込んだが、彼女はそのすべてを見透かしているかのように、優しく微笑んでこう言った。
「あらあら、元気な音ですこと。育ち盛りですもの、恥ずかしがることはありませんわ」
その瞬間、僕の中で何かが音を立てて崩壊した。
——この女は、僕を「第二王子」として見ていない。ただの「お腹を空かせた、ちょっと生意気な子供」として扱っている。
誰もが僕の肩書や権力におびえ、あるいは利用しようとする中で、こんな無防備な優しさを向けられたのは、生まれて初めてだった。
◇
それからというもの、僕の日常は狂い始めた。
王宮に戻っても、頭からリナの姿が離れない。
彼女が僕に向けたあの温かい笑顔、そして「お野菜も召し上がるのですよ」というお説教。
今まで誰も僕にそんな小言を言ってくれた者はいなかった。みんな僕の機嫌を損ねないように、僕の我儘をすべて肯定してきたのだから。
「……くそっ、あんなチビの作ったお菓子ごときに……!」
自室のベッドで枕に顔を埋めながら、僕は何度も悶絶した。
だが、心のどこでは認めざるを得なかった。
僕は、あの男爵令嬢に——リナに、強烈なまでの執着を抱き始めていた。
◇
そして、学園の音楽祭の準備期間。
我が国の第一王子であり、僕の「完璧すぎる兄」であるエドワードが、最近やけに機嫌が良い。
理由は明白だ。あいつもまた、リナに骨抜きにされているからだ。
あろうことか、兄上はリナの作るおにぎりやハーブティーを自慢げに語り、あわよくば婚約者にしようと虎視眈々と狙っている。
(ふざけるな……! 兄上にリナをやられてたまるか!)
さらに、氷の貴公子と呼ばれるルーカスや、野生児のガゼル、引きこもりのシオンに至るまで、奴ら全員がリナの周りを犬のようにうろついている。
見ているだけで、胃の腑が嫉妬と怒りで黒く焼け焦げそうなほど煮えくり返った。
そんなイライラを抱えて迎えた、音楽祭の合唱練習の帰り道。
大ホールの裏の庭園で、僕は一人、苛立ちを鎮めるためにベンチに腰掛けていた。
そこへ、現れたのだ。
「あら、アルフレッド殿下。お稽古の帰りですか?」
声の主を見上げると、そこには涼しげな顔をしたリナが立っていた。
彼女は手に持った二重構造の奇妙な筒(魔法瓶というらしい)から、シュワシュワと心地よい音を立てる液体をコップに注いでいた。
『梅シロップの炭酸割り』。
彼女が差し出したその飲み物を、僕は半信半疑で受け取り、一気に飲み干した。
——天国への扉が開いたかと思った。
酸味と甘み。炭酸の強烈な爽快感。
日々のストレスと、音楽祭の合唱練習の面倒臭さで澱んでいた僕の脳髄が、一発でクリアに洗浄されたような感覚だった。
「……美味い……。美味すぎる……!」
思わず素直な感想が口から飛び出てしまった。
しまった、と思った時にはもう遅い。リナはクスクスと楽しそうに笑っていた。
「お気に召していただけて光栄ですわ」
その笑顔が、あまりにも眩しくて、僕は心臓の音がうるさくなるのを必死に隠しながら、精一杯の強がりを吐いた。
「おい、リナ! これをもっと出せ! 僕の専属『飲料調合係』になれ! 王宮の料理人どもの淹れる重苦しいお茶など、もう飲めたものではない!」
我ながら、子供っぽくて傲慢な言い草だと思った。
だが、リナは怒るどころか、まるで手のかかる弟をあやすように、優しく微笑んでこう言ったのだった。
「あらあら、専属だなんて滅相もございませんわ。これは家庭の味ですもの。……でも、お稽古を頑張ったら、また作って差し上げますわね」
——「また作って差し上げますわね」
その言葉が、僕の胸の奥深くに、甘い蜜のように染み込んだ。
「……約束だからな。僕を裏切ったら……承知しないからな……っ!」
僕はそれ以上そこにいると顔の赤さがバレてしまいそうで、恥ずかしさを誤魔化すようにダダダッと走り去った。
遠ざかる背中に向かって、彼女が「走ると危ないですよー」と呆れたような声をかけていた気がするが、もうどうでもよかった。
◇
自室に戻った僕は、ベッドの上で大の字になり、天井を見上げていた。
「……くそっ。あんなチビのくせに……」
口元が、どうしてもニヤけてしまうのを止められなかった。
あんなに人を信用せず、誰も彼もを敵だと思って生きてきた僕が、たった一人の少女の作るお菓子と飲み物に、これほど心を奪われている。
だが、悪くない、と思った。
王位継承権なんてどうでもいい。
エドワード兄上がこの国をどうしようと知ったことではない。
僕が欲しいのは、王宮の冷たい玉座ではなく——あの温かいお茶の香りがする、リナの隣の席だ。
「音楽祭……か」
僕はふと、鏡に映る自分の顔を見た。
いつもなら不機嫌に歪んでいるはずの唇が、少しだけ柔らかく引き締まっている。
「……あいつが『お稽古を頑張ったら』と言ったな」
なら、やってやろうじゃないか。
音楽祭の合唱だって、完璧にこなしてやる。あの生意気なチビを驚かせて、もっと美味しいお菓子とドリンクを言わせるなり要求してやるんだ。
「待ってろよ、リナ。僕をそこまで狂わせた責任を、一生かけて取ってもらうからな」
僕は冷徹な第二王子としての仮面を剥ぎ取り、部屋の隅に置いてあった合唱の楽譜を手に取った。
そこには、リナが丁寧に鉛筆で書き込んだ「呼吸のタイミング」や「発音のコツ」が、几帳面な文字で記されていた。
その文字を指でそっと撫でながら、僕は静かに微笑んだ。




