第9話 「悪気がない」で許される人
第9話 「悪気がない」で許される人
八月二週目の土曜日、さやかは午前五時半に目を覚ました。寝室のカーテンの隙間から薄い朝日が入り、床には前夜、大地が脱ぎ捨てたTシャツと片方だけの靴下が落ちている。今日は澪が企画した一泊二日の協力者招待旅行へ参加するため、七時には家を出なければならなかった。さやかは薄い青色のブラウスとベージュのパンツへ着替え、洗面所で髪をまとめてから、台所でおにぎりを二つ握った。
具は梅干しと焼き鮭で、海苔は湿らないよう別の袋へ入れた。旅行では昼食も用意されると聞いていたが、大地は朝早く起きると空腹を訴えるため、念のため作っておくことにした。冷蔵庫には昨夜の冷やし中華で残ったキュウリが半分あり、切り口が乾かないようラップを二重に巻いた。
「大地、六時よ。起きないと集合に遅れるわ」
「あと五分……。昨日、澪と予定を確認していて寝るのが遅かったんだよ」
「私は何度も、前の日に準備しておいてと言ったわ。着替えも旅行鞄も、自分で用意して」
大地は布団の中でうなり、ようやく体を起こした。旅行用の荷物はまだ空のボストンバッグへ入っておらず、充電器や下着も部屋のあちこちに置かれている。さやかは手を出さず、自分の小さなキャリーバッグだけを玄関へ運んだ。
集合場所の新宿駅西口には、大型バスが止まっていた。車体の前には「協力者感謝旅行 箱根一泊二日」と書かれた札が掲げられ、紺色の制服を着た添乗員が名簿を確認している。バスの横では、白いブラウスに黒いプリーツスカートを合わせた澪が、参加者へ飲み物と名札を配っていた。
澪の髪には黒いリボンが付いていたが、いつもの大きさの半分ほどだった。足元も厚底靴ではなく、黒いかかとの低いパンプスをはいている。さやかと大地を見つけると、澪は名簿へ印を付け、仕事用の明るい声で二人を迎えた。
「大ちゃん、さやかさん、おはようございます。朝早くからありがとうございます。席は前から四列目の右側です」
「澪、今日はずいぶん忙しそうだな。何か手伝おうか?」
「大丈夫です。長谷川トレーナーと添乗員さんがいますから、大ちゃんは旅行を楽しんでください」
澪はそう答え、次の参加者を迎えるため二人から離れた。大地の後ろから、二十代の男性が三人近づいてきた。全員が大地を見るなり笑顔になり、会社の後輩だと名乗った。
「高梨先輩、お久しぶりです。小鳥遊さんの保険を紹介していただいた森です」
「僕もです。医療保険を見直したら、前より内容がよくなりました」
「先輩には飲み会で何度も澪さんを紹介してもらいましたよね。今日の旅行まで無料なんて、ありがたいです」
さやかは三人の言葉を聞き、大地へ顔を向けた。大地が澪へ会社の後輩を紹介したことは、一度も聞いていなかった。ホームセンターで偶然を装って会った頃には、すでに二人は仕事上でも頻繁に連絡を取っていたらしい。
「何人くらい紹介したの?」
「何人って、正確には覚えてないよ。後輩や友達が保険を探していたから、澪を教えただけだ」
「今日の招待旅行を企画できるほど、紹介したのでしょう?」
「俺だけじゃないよ。他の参加者だっている。それに、契約を決めたのは本人たちだろ」
大地は声を低くし、後輩たちの前で責めるなと付け加えた。バスの排気ガスの匂いと、近くの喫茶店から流れるトーストの匂いが朝の空気へ混じっていた。さやかはボストンバッグの持ち手を握り直し、案内された席へ向かった。
バスが出発すると、澪が前方のマイクを握った。挨拶、行程、休憩場所、緊急時の連絡先を、手元のカードを確認しながら説明していく。話す順番を色分けした付箋が貼られ、読み飛ばしを防ぐため、文章には定規のような透明な板を当てていた。
「本日の旅行は、日頃からお客様をご紹介くださっている皆様へ、感謝をお伝えするために企画しました。大地さんからも、後輩やご友人を何人もご紹介いただいています。皆様のお力があって、私は仕事を続けることができています」
澪が大地の名前を出すと、参加者の何人かが振り返った。大地は照れたように手を上げ、さやかへ得意そうな顔を向けた。さやかは膝の上へ置いた旅行案内を開き、記載された参加費を確認した。
「この旅行、本当に無料なの?」
「紹介した人への会社の謝礼だよ。澪が自腹で出すわけじゃないんだから、心配するな」
「最初に説明してほしかったわ。私は、澪さん個人から招待されたと思っていたもの」
「結果は同じだろ。細かいな」
大地は座席を倒し、昨夜の寝不足を取り戻すように目を閉じた。さやかは海苔を巻いた梅のおにぎりを一人で食べ、手についた米粒を紙ナプキンで拭いた。大地の分の焼き鮭おにぎりは、鞄の中へ残した。
最初の休憩場所へ着くと、澪のトレーナーだという長谷川美紀が声をかけてきた。四十代半ばほどの女性で、紺色のパンツスーツに白いスニーカーを合わせ、短い髪を耳へかけている。首からは社員証と、旅行の進行表を入れた透明なケースを下げていた。
「高梨さやかさんですね。いつも澪を支えてくださって、ありがとうございます」
「私は澪さんを支えているつもりはありません。夫の幼馴染なので、何度か会っているだけです」
「そうだったんですね。でも、大地さんには本当にお世話になっています。後輩やお友達を何人も紹介してくださって、澪もずいぶん助けられています」
長谷川は紙コップのコーヒーを持ち、少し困ったように笑った。休憩所の売店からは焼いたソーセージと醤油の匂いが漂い、外のベンチでは子供がソフトクリームを母親のスカートへ落としていた。さやかは自動販売機で買った無糖の紅茶を開け、長谷川の次の言葉を待った。
「澪を理解するのは、大変でしょう?」
「理解するというのは、どういう意味ですか?」
「澪には注意欠陥多動性障害と識字障害があるんです。本人から聞いていませんか?」
「いいえ。初めて聞きました」
さやかは驚いたが、声の調子は変えなかった。澪が保険会社で文章を読むとき、付箋や透明な板を使っていた理由は分かった。バーベキューで持ち物を細かく一覧表へまとめていたのも、忘れ物を防ぐための工夫だったのだろう。
「入社したばかりの頃は、私も驚きました。予定を忘れたり、一度に幾つも指示すると混乱したり、話の途中で思いついたことを始めたりするんです。書類も行を飛ばして読むことがあるので、最初は常識が通じない子だと思ってしまいました」
「常識が通じない、という言い方は少し違うと思います」
「そうですね。今なら分かります。本人なりのやり方が必要なんです。指示を一つずつ伝えて、文字を大きくし、色分けした確認表を使えば、きちんと仕事ができます」
長谷川は素直に言い直し、バスのほうを見た。澪は参加者から質問を受け、旅行案内の該当箇所を指で示している。仕事中の彼女は道具と手順を使い、自分の苦手な部分を補っていた。
「でも、本当に悪気がない子なのよね。思ったことをそのまま言ったり、相手との距離が近くなったりするから、誤解されやすいんです」
「悪気がないことと、注意された行動を続けることは別ではありませんか?」
「何かありましたか?」
「夫へ深夜に連絡し、私たちの家へ事前の許可なく来て、夫と二人きりになる理由を何度も作っています。私はその都度、やめてほしいと伝えました」
長谷川の表情から笑みが消えた。紙コップのふたを押さえる指が止まり、澪と大地のいる方向へ視線を動かした。大地は売店で澪にソフトクリームを買い、彼女へ手渡していた。
「それは、障害とは別の話ですね」
「私もそう思います。読み書きに工夫が必要なことと、既婚者との距離を注意されても改めないことは同じではありません」
「ただ、澪は人に頼ることで、これまで何とかやってきたところがあります。大地さんは幼い頃から事情を知っているので、安心できる相手なのかもしれません」
「頼ることを否定していません。頼る相手と時間を選んでほしいと言っています」
さやかは無糖の紅茶を一口飲んだ。冷たいはずなのに、炎天下で持ち歩いたため少しぬるくなっていた。長谷川は何度かうなずき、軽々しく「悪気がない」と言ってしまったことを謝った。
「私も、仕事で澪を支えるうちに、何でも障害の特性として受け止めようとしていたのかもしれません。配慮は必要ですが、他人の家庭へ踏み込んでいい理由にはなりませんね」
「そう言っていただけて安心しました」
「それに、大地さんにも境界を守る責任があります。澪だけを注意して済む問題ではないと思います」
長谷川の言葉に、さやかは初めて深くうなずいた。これまで周囲の人は、大地が優しいから澪を助けているのだと考えてきた。けれど妻が何度も嫌だと伝えたあとも続けているなら、それは親切ではなく、夫自身の選択だった。
バスへ戻る途中、澪が二人へ駆け寄ってきた。右手には少し溶けたバニラソフトクリーム、左手には予定表を持っている。唇の端へ白いクリームが付いていたが、大地に拭いてもらわず、自分でハンカチを出して拭いた。
「長谷川トレーナー、さやかさんと何を話していたんですか?」
「澪の仕事の工夫について少しね。それから、大地さんとの接し方についても聞きました」
「さやかさん、私の障害のことを聞いたんですか?」
「ええ。今まで知らなかったわ」
澪はソフトクリームを持ったまま、目を伏せた。いつもの赤い涙袋が光り、今にも泣き出しそうな顔になる。大地がすぐに近づき、どうしたのかと尋ねた。
「澪の障害のことを、さやかさんが聞いたみたい。きっと、ますます嫌われたよね」
「そんなことで嫌うわけないだろ。さやか、澪に何を言ったんだ?」
「何も責めていないわ。障害への配慮と、夫婦の境界を守ることは別だと話しただけよ」
「また旅行先でその話かよ。澪がせっかく招待してくれたのに、どうして楽しめないんだ?」
大地の声に、近くの参加者が振り返った。澪は慌てて、大地の腕を両手でつかみ、もういいからと止めた。その動作を見た長谷川が、穏やかな声で澪の名前を呼んだ。
「澪。まず、大地さんの腕から手を離しましょう」
「どうして? 大ちゃんは嫌がっていません」
「大地さんが嫌かどうかだけではありません。奥様が何度もやめてほしいと伝えているなら、離す必要があります」
「でも、大ちゃんは澪のお兄ちゃんみたいな人です。小さい頃から、こうしてきたんです」
「今は大人です。そして、大地さんには妻がいます。子供の頃と同じ接し方を続けることが、すべて正しいわけではありません」
澪は大地の腕を放した。指が離れると、大地の半袖シャツには小さなしわが残った。澪はソフトクリームへ視線を落とし、溶けた雫が手の甲へ垂れても拭こうとしなかった。
「長谷川さんまで、さやかさんの味方をするんですね」
「味方を選んでいるのではありません。仕事でも同じです。相手が不快だと伝えた行動は、理由を確認し、できる方法で改める必要があります」
「澪は、悪気なんてなかったのに」
「悪気がなければ、相手が嫌がっても続けていいの?」
長谷川が静かに尋ねると、澪は答えなかった。大地はこれ以上騒ぐと旅行の雰囲気が悪くなると言い、澪をバスへ戻そうとした。けれど長谷川は大地にも話があると告げた。
「高梨さん。いつも澪へお客様を紹介してくださることには感謝しています。ただ、澪があなたへ依存する状態を続けるのは、本人のためにもなりません」
「依存って、大げさですよ。幼馴染から連絡が来たら返しているだけです」
「奥様が困っていると伝えても、同じことを続けているのでしょう?」
「さやかが嫉妬深いだけです。澪とは何もありません」
「何もなければ、妻が嫌がる行動を続けていいということにはなりません」
大地は口を閉じた。出発を知らせる添乗員の声が聞こえ、参加者が次々とバスへ戻っていく。澪は溶けかけたソフトクリームを近くのごみ箱へ捨て、手の甲をハンカチで強く拭いた。
バスが箱根へ向かって再び走り出すと、澪は後方の席へ移った。長谷川が隣へ座り、予定表を一緒に確認している。大地は窓側の席で腕を組み、さやかとは目を合わせなかった。
「長谷川さんにまで言いつける必要があったのか?」
「言いつけていないわ。長谷川さんから、澪さんを理解するのは大変でしょうと話しかけてきたの」
「あの人は澪の事情を知ってるから、分かってくれると思ったのに」
「分かることと、何でも許すことは違うでしょう」
「障害がある人に、普通の人と同じことを求めるなよ」
大地は声を抑えていたが、言葉には苛立ちが混じっていた。さやかは膝の上で両手を組み、窓の外を流れる山の緑を見た。澪が仕事で使っていた予定表、色分けした付箋、確認用の透明な板を思い出し、ゆっくり大地へ向き直った。
「私は、読むことに時間がかかるなら待つわ。予定を忘れやすいなら、確認表を一緒に作ることもできる。でも、私の夫へ午前二時に連絡しないことや、抱きつかないことは、文字を読む能力とは関係ないでしょう」
「澪は距離感をつかむのが苦手なんだよ」
「それなら、周囲が境界を明確に伝える必要があるわ。大地が毎回受け入れていたら、澪さんは変える必要を感じないでしょう」
「俺が悪いと言いたいのか?」
「そうよ。澪さんの診断を、自分が甘えられて喜ぶための言い訳に使っているのは、あなたよ」
大地は何も答えなかった。座席前の網ポケットには旅行案内と、誰かが置き忘れた飴の包み紙が入っている。バスの冷房が強くなり、さやかは鞄から薄いカーディガンを出して肩へ掛けた。
昼食は芦ノ湖近くのホテルで用意されていた。テーブルには箱根山麓豚の陶板焼き、刺身、湯葉、山菜の煮物、赤だしの味噌汁が並んでいる。陶板の上で豚肉の脂がはぜ、みそだれの香ばしい匂いが広がった。
澪は参加者へ飲み物を確認し、食物アレルギーのある人へ別の料理が届いているか確かめていた。仕事では一つずつ確認し、長谷川と声を掛け合いながら動いている。大地の前へ来たときだけ、彼女は一瞬足を止めた。
「大ちゃん、朝はごめんね。さやかさんを怒らせるつもりじゃなかったの」
「俺のほうこそ悪かったよ。長谷川さんに注意されて、嫌だっただろ」
「大ちゃんは悪くないよ。澪が何も考えずに頼りすぎたから」
澪は反省を口にしたが、視線はさやかではなく大地へ向けられていた。大地も妻へ謝ることなく、澪へ優しい言葉を返した。さやかは湯葉を箸で折り、だしの味を確かめながら二人の会話を聞いた。
「澪さん。謝る相手は、大地ですか?」
「大ちゃんにも迷惑をかけたから……」
「私が何度もやめてほしいと伝えた話でしょう。私には何も言わないの?」
澪は唇を結び、長谷川のいるテーブルへ目を向けた。大地は人前で追い詰めるなとさやかを止めたが、澪はしばらくして小さく頭を下げた。
「さやかさん、ごめんなさい。これからは気をつけます」
「何に気をつけるの?」
「夜中に連絡したり、大ちゃんへ必要以上に触ったりしないようにします」
「分かりました。言葉ではなく、行動で守ってください」
澪はうなずき、飲み物の確認へ戻った。長谷川は少し離れた場所からその様子を見ていた。さやかはようやく温かい赤だしを口へ運んだが、話している間に表面の湯気は消えていた。
夕方、宿泊先の旅館へ到着すると、畳の匂いがする和室へ案内された。窓際には小さな椅子と丸いテーブルがあり、茶菓子として温泉まんじゅうが二つ置かれている。大地は浴衣へ着替えると、澪たちと宴会場の準備を手伝ってくると言って立ち上がった。
「トレーナーも添乗員もいるでしょう。あなたが手伝う必要はあるの?」
「澪と気まずいままなのは嫌なんだよ。少し話してくるだけだ」
「今日、旅行を企画したのは澪さんと会社よ。あなたは招待された側でしょう」
「後輩を紹介したのは俺だ。協力者として手伝って何が悪いんだよ」
大地は浴衣の帯を締め直し、部屋を出ていった。さやかは追わず、窓の外に見える山の斜面を眺めた。夕立が始まり、瓦屋根へ当たる雨音が部屋へ響いていた。
さやかは旅行鞄から手帳を取り出した。長谷川から聞いた診断名ではなく、今日、実際に見聞きしたことだけを記した。澪が仕事で使っていた工夫、長谷川が境界を守る必要を認めたこと、澪が深夜の連絡と接触を控えると約束したことを書いた。
《大地は、澪の障害を理由に「普通の人と同じことを求めるな」と言った。私が求めたのは、読む速さでも仕事の能力でもない。妻が嫌だと伝えた行動をやめることだけ。》
最後の一文を書いたところで、廊下から大地と澪の声が聞こえた。扉の向こうで澪が何かを頼み、大地が「俺に任せろ」と答えている。さやかは手帳を閉じたが、すぐには鞄へ戻さなかった。
温泉まんじゅうの包みを開けると、黒糖の甘い匂いがした。さやかは一つだけ食べ、もう一つには手をつけず、冷めた緑茶を飲んだ。澪には支援や工夫が必要だったが、大地が妻を後回しにするための免罪符は、もうどこにも残っていなかった。




