第10話 識字障害の澪が約款を読める理由
第10話 識字障害の澪が約款を読める理由
箱根の旅館で迎えた朝、さやかは午前六時前に目を覚ました。昨夜、大地が部屋へ戻ってきたのは十一時を過ぎてからで、宴会場の片づけを手伝っていたと説明したが、浴衣の袖には澪が使っているイチゴの香水が薄く残っていた。窓の外では夕立に洗われた山の木々が朝日を受け、露天風呂へ続く庭から湿った土と杉の匂いが入ってくる。さやかは紺色の浴衣の帯を結び直し、窓際の椅子に座って、昨夜書いた手帳を読み返した。
大地は布団の上で横向きになり、枕元へ置いたスマートフォンを握ったまま眠っていた。画面には澪から届いた《昨日は手伝ってくれてありがとう。大ちゃんのおかげで助かったよ》という通知が表示されている。さやかはスマートフォンへ触れず、自分の旅行鞄から洗顔料と歯ブラシを出して洗面所へ向かった。
朝食会場には、焼き鮭、温泉卵、アジの干物、かまぼこ、山菜の煮物、小さな湯豆腐が並んでいた。炊きたてのご飯から湯気が上がり、みそ汁にはなめこと三つ葉が浮いている。さやかは薄いベージュのカーディガンと白いブラウスへ着替え、大地と向かい合って座った。
「昨日は何時まで澪さんと一緒だったの?」
「澪だけじゃないよ。長谷川さんや添乗員もいた。宴会の名札を回収したり、忘れ物を確認したりしてたんだ」
「澪さんからは、大地のおかげで助かったと連絡が来ているわね」
「通知が見えただけで、また疑うのか? 俺は何も隠してないよ」
大地はみそ汁へ口をつけ、熱かったのかすぐに椀を置いた。眠そうな目をこすりながら焼き鮭の皮を外し、身だけをご飯へ載せている。普段なら魚の骨を取るのが面倒だとさやかへ渡すのに、今日は澪へ頼られた自分の話をしながら、器用に骨を取り除いていた。
「澪、宿泊名簿を一部なくしたと思い込んで、急に慌て始めたんだよ。結局、長谷川さんが預かっていたんだけどさ。昨日あれだけきちんと仕事をしていたのに、最後に大騒ぎするんだから、やっぱり放っておけないよ」
「それで、あなたが残ったの?」
「俺が参加者の部屋を回って確認したんだ。澪はパニックになって、何を聞いても分からないと言うだけだったから」
「会社の旅行なのだから、まず長谷川さんへ確認すべきだったでしょう」
さやかが言うと、大地は結果として見つかったのだからいいだろうと答えた。温泉卵を割ると、柔らかな黄身が小鉢へ流れたが、大地は醤油を入れすぎ、茶色くなった黄身を見て顔をしかめた。さやかは自分のアジの干物へレモンを絞り、昨夜の出来事もあとで手帳へ記しておこうと思った。
朝食が終わる頃、長谷川が二人のテーブルへやってきた。紺色のポロシャツに灰色のパンツを合わせ、首から今日の行程表を下げている。トレーには食べ終えた納豆の容器と、半分残った冷たいみそ汁が載っていた。
「高梨さん、昨夜はありがとうございました。ただ、本来はお客様に手伝っていただく仕事ではありませんでした。澪にも、困ったときは最初に私へ報告するよう、もう一度話しました」
「澪は混乱してましたからね。俺が助けないと、全員の部屋を何度も回っていたと思いますよ」
「そこを自分で止められるようにするのが、澪の今後の課題です。誰かが毎回代わりに処理すると、手順を身につける機会がなくなります」
長谷川は大地へ礼を述べながらも、助け方が適切ではなかったと伝えた。大地は納得できないらしく、困っている人を放っておくほうがおかしいと言った。長谷川は椅子へ腰を下ろし、仕事で必要な支援と、本人の代わりにすべてをすることは違うと説明した。
「澪は障害があっても、仕事で契約を取っているんですよね。昨日も約款や保険の内容を、お客様へきちんと説明していました」
さやかが尋ねると、長谷川は深くうなずいた。澪が文字を読むことに苦労しているのは事実だが、理解できないわけではないという。読むための方法と時間が、人より多く必要なのだと話した。
「澪は定款や約款を、そのまま長時間読もうとすると、行を飛ばしたり、似た漢字を取り違えたりします。だから文章を細かく区切り、グーグルのAIであるジェミニや、チャットGPTへコピーして、何度も読み上げてもらっているんです」
「AIに読ませているんですか?」
「ええ。ただし、会社の契約書やお客様の個人情報を、そのまま外部のサービスへ入力することは禁止されています。研修用に匿名化された資料や、一般公開されている約款だけを使い、社内のルールを守って勉強しています」
長谷川は念を押すように付け加えた。澪は読み上げの速度を落とし、一文ずつ止めながら意味を確かめ、分からない言葉をさらに短い説明へ直している。録音した内容を通勤中にも聞き、暗記できるほど何度も繰り返すという。
「家でも勉強しているんですか?」
「毎晩ですよ。一度覚えた文章も、しばらく使わないと抜けてしまうから、定期的に復習しています。お客様の前では滑らかに説明していますが、そこへ至るまでに、同じ文章を二十回、三十回と聞いているんです」
「澪からは、そんな話を聞いたことがなかったな」
大地は意外そうに箸を置いた。彼が知っている澪は、説明書を見ただけで分からないと投げ出し、大地へ棚を組み立ててもらう女性だった。仕事のためには見えないところで何十回も学び直していることを、幼馴染を自称する大地も知らなかった。
「大地さんの前では、できない部分を見せやすいのでしょうね。ただ、澪には事務能力の面で、まだ大きな課題があります」
「契約を取れているなら、営業としては優秀なんじゃないですか?」
「副社長からは、『営業力はあるが、事務能力がないんじゃないか』と厳しく言われています」
長谷川は声を落とし、昨月の法人契約について話し始めた。澪が所属する部署は、個人向けよりも法人契約を多く扱っている。会社の代表者や経理担当者と何度も打ち合わせを行い、契約の意思を得るところまでは非常に熱心だが、その後の事務手続きで大きな抜けが起きることがあった。
「先月も法人のお客様から契約をいただきました。ところが澪は、契約確認に必要な法人の登記事項証明書を取得する手配を忘れ、法務局へ行くのが締め切り直前になったんです」
「契約を取ったところで、仕事が終わったと思ったの?」
「そうではありません。本人も手続きが残っていることは知っていました。ただ、新しいお客様との面談が入ると、そちらへ意識が向き、済んでいない仕事が頭から抜けてしまうんです」
長谷川は水を一口飲み、話を続けた。登記事項証明書だけでなく、代表者印の確認、申込書の不足、社内審査への提出まで、一つでも遅れれば契約の成立に影響する。会社側にとっては、顧客から「契約します」という言葉をもらうことが終点ではなかった。
「契約を取ってくる力はあります。でも、きちんと締結し、必要な書類を保管し、社内処理を終えるまで気を抜けない社員なんです」
「それは会社の人が確認してあげればいいんじゃないですか? 澪には障害があるんでしょう」
「確認はします。ただし、誰かが永遠に後始末を続ける仕組みでは、本人も周囲も持ちません」
長谷川は大地をまっすぐ見た。約款を読み上げてもらうことや、予定表を色分けすることは合理的な配慮である。一方、本人が担当した仕事を何も確認せず、周囲が黙って完成させることは配慮とは呼べないと説明した。
「今は、契約ごとに工程表を作っています。面談、申込書、本人確認、登記事項証明書、社内審査、成立確認まで、終わった項目へ本人が印を付けます。私も最後に確認しますが、まず澪が自分で管理することが前提です」
「でも、失敗したらお客様に迷惑がかかりますよね?」
「だからこそ、失敗を隠さず、早めに報告する練習が必要なんです。誰かが先回りして救い続ければ、澪は『困ったら大地さんに頼めばいい』という私生活と同じ考え方から抜け出せません」
大地の表情が固くなった。長谷川は責める口調ではなかったが、昨夜の行動まで仕事上の問題と結びつけていた。さやかは冷めた緑茶を飲み、茶碗の底に残った細かな茶葉を見た。
「俺は澪の仕事へ口を出したことはありません。私生活で少し助けているだけです」
「その『少し』が、澪にとってどこまでかを考えてください。棚を代わりに組み立てる。深夜に長電話をする。旅行先で会社の仕事まで代わりに確認する。回数が増えれば、澪は自分で対処する前に、あなたへ連絡するようになります」
「助けを求められて、断れと言うんですか?」
「まず、誰へ相談すべき問題なのかを考えさせてください。仕事なら私や上司、危険なら警察や管理会社、体調なら医療機関です。既婚者の幼馴染が、すべての相談窓口になる必要はありません」
長谷川の言葉を聞き、大地は腕を組んだ。朝食会場では食器を片づける音が響き、隣のテーブルでは幼い子供が納豆の糸を箸から切れず、母親に助けを求めている。母親はすぐに箸を奪わず、器の端へこすれば切れると教えていた。
そこへ、澪が駆け寄ってきた。白いブラウスの裾がスカートから少し出ており、右手には何枚もの確認表を持っている。髪の黒いリボンも片方へ傾き、朝から忙しく動き回っていたことが分かった。
「長谷川トレーナー、参加者名簿の確認が終わりました。帰りの座席表も全員分あります」
「確認表の最後まで印を付けましたか?」
「はい。人数、荷物、部屋の鍵、食事の精算、全部確認しました」
「もう一度、下から上へ見直しましょう。昨日は宿泊名簿を見失ったと思い込んで、大地さんへ連絡しましたね」
「はい。ごめんなさい。でも、大ちゃんが一緒に探してくれたから、助かりました」
澪は大地へ笑顔を向けた。大地も役に立てたことを確認するようにうなずいたが、長谷川は二人の間へ確認表を置いた。紙には赤、青、黄色の線が引かれ、項目の横に小さな四角が並んでいる。
「澪。名簿を預けた相手は、私でした。最初に預け先を記録していれば、大地さんが参加者の部屋を回る必要はありませんでした」
「急に見つからなくなって、頭が真っ白になったんです」
「頭が真っ白になったら、まず何をする約束でしたか?」
「その場で動かず、深呼吸して、確認表を見る。それから、長谷川トレーナーへ連絡する」
「昨夜は、どれをしましたか?」
「どれもしていません。大ちゃんを探しました」
澪は視線を落とし、確認表の角を指で曲げた。長谷川は紙を取り上げず、折れた角を自分で伸ばすよう促した。澪は両手で紙をテーブルへ置き、ゆっくりとしわを伸ばした。
「大地さんがいると、最初に頼ってしまうのね」
「大ちゃんは怒らないし、澪の話を聞いてくれるから」
「私は怒るために確認しているのではありません。同じ失敗を減らし、澪が自分で仕事を終えられるようにするためです」
「でも、大ちゃんに頼れば早いです」
「早く見えても、大地さんは会社の担当者ではありません。昨夜、参加者の部屋を訪ねた行動も、個人情報や安全管理の点で問題になる可能性があります」
長谷川の口調が少し厳しくなった。澪は驚いて顔を上げ、大地も人助けをしただけだと反論した。けれど長谷川は、善意であっても会社の管理外にいる人へ参加者情報を扱わせてはいけないと説明した。
「名簿が見つからないなら、添乗員と私へ報告する。それが手順です。大地さんへ探してもらうことではありません」
「でも、長谷川トレーナーは忙しそうだったから……」
「忙しそうかどうかを、澪が判断して報告を省略してはいけません。契約後の書類を忘れたときも、『上司が忙しそうだった』と言って、締め切りの前日まで相談しなかったでしょう」
澪は何も答えられず、唇を強く結んだ。目元に涙が浮かんだが、長谷川は話をやめなかった。責めるためではなく、次に同じことを起こさないため、今ここで確認する必要があるからだった。
「澪。定款や約款を暗記できるほど勉強したことを、私は知っています。読めないから諦めるのではなく、AIの読み上げを使い、何度も聞き、理解できるところまで努力した。その力を、仕事を最後まで終わらせることにも使ってほしいんです」
「澪にも、できますか?」
「一人で完璧にする必要はありません。確認表や社内の支援を使い、必要なときには正しい相手へ相談してください」
「大ちゃんに頼ったら、駄目ですか?」
「大地さんにしかできないことでなければ、まず自分の手順を試してください。それでも難しいときは、仕事なら私へ相談しましょう」
澪は確認表を見つめ、ゆっくりとうなずいた。大地は納得していない顔をしていたが、さやかには、澪が初めて「できない自分を守ってもらう」以外の方法を示されたように見えた。涙は頬へ落ちたものの、澪はすぐにハンカチを出し、自分で拭いた。
「さやかさんにも、迷惑をかけました。夜中に電話したり、家へ何度も行ったりして、ごめんなさい」
「約束したことを守ってくれれば、それでいいわ」
「でも、澪は忘れてしまうかもしれません」
「忘れやすいことが分かっているなら、書いてください。仕事で確認表を使っているのでしょう?」
さやかが答えると、澪は鞄から小さな手帳を出した。黒い表紙にピンクのリボンのシールが貼られ、ページの端には色違いの付箋が並んでいる。澪はペンを持ち、ゆっくりと三つの項目を書いた。
《夜十時以降、大ちゃんへ連絡しない。》
《大ちゃんの家へ行く前に、さやかさんを含めて確認する。》
《大ちゃんへ抱きつかない。》
「これでいいですか?」
「『緊急時を除く』と加えてください。ただし、緊急時は内容に合った相談先へ連絡することも書いたほうがいいわ」
「警察、管理会社、病院、会社の人……ですか?」
「そうです。大地一人を、すべての相談先にしないでください」
澪は言われた文章を書き足し、赤いペンで囲んだ。長谷川も内容を確認し、スマートフォンの予定表へ同じ注意事項を登録するよう勧めた。澪はその場で毎週日曜日の夜に確認する通知を設定した。
「ここまでしないと駄目なのか?」
大地が不満そうに言った。澪は自分で決めたことだから大丈夫だと答え、スマートフォンを鞄へ戻した。大地は頼られなくなることを喜ぶより、自分の役目を奪われたような顔をしていた。
「大地さん。澪を支えることと、澪が自分でできる機会を奪うことは違います」
「俺は、奪ったつもりなんてありません」
「分かっています。でも、善意だけでよい結果になるとは限りません。澪が困るたびにあなたが解決すれば、澪は確認表も相談手順も使わなくなります」
「俺が助けると、そんなに悪いんですか?」
「奥様との約束を破り、仕事の手順まで越えて助けるなら、問題です」
長谷川ははっきり答えた。大地はテーブルの上の湯飲みを持ち上げたが、中身が空だと気づいてすぐに戻した。湯飲みの底が木のテーブルへ当たり、硬い音がした。
朝食会場を出たあと、参加者は旅館の前で記念写真を撮ることになった。澪は名簿を確認しながら人数を数え、今回は一度で全員がそろっていることを確かめた。大地の隣へ行こうとしたが、手帳の注意事項を思い出したのか、長谷川の横へ移動した。
「澪、こっちへ来ないのか?」
「仕事中だから、長谷川トレーナーのそばにいます。それに、大ちゃんの隣はさやかさんの場所でしょう?」
澪が答えると、大地は少し驚き、さやかの隣へ立った。けれど二人の肩の間には、握り拳一つ分の隙間があった。写真係がもう少し寄ってくださいと言い、大地がようやく半歩近づいた。
写真撮影のあと、長谷川は澪へ帰りの確認表を渡した。澪は項目を上から読むのではなく、一度下まで目を通して全体を確かめ、それから一つずつ印を付けていった。途中で別の参加者から声をかけられると、しおりを挟み、どこまで確認したか分かるようにしてから対応した。
「工夫すれば、できるのね」
さやかがつぶやくと、長谷川は澪には努力する力があると答えた。ただし、努力していることと、失敗で誰かを傷を傷つけた責任は別であり、両方を同時に考える必要があるという。さやかはその言葉を聞き、静かにうなずいた。
帰りのバスでは、澪から大地への連絡は一度もなかった。困ったことが起きるたび、確認表を見て、長谷川か添乗員へ相談している。大地は何度も前方の澪を見たが、呼ばれることはなかった。
「澪、急に冷たくなったな」
「冷たくなったのではなく、正しい相手へ相談しているのよ」
「俺だって、ずっと助けてきたのに」
「感謝されるために助けていたの?」
さやかが尋ねると、大地は否定した。けれど、頼られなくなったことを寂しがる横顔が、その答えより正直だった。さやかは窓の外を見て、山の向こうへ沈み始めた太陽を眺めた。
自宅へ戻ったのは午後七時を過ぎていた。朝、洗わずに出たトーストの皿にはパンくずが固まり、流し台の隅には乾いたコーヒーの染みが残っている。さやかは旅行鞄を寝室へ運び、自分の洗濯物だけを取り出した。
「夕食、何か作る?」
「冷凍うどんでいいよ。疲れたから、簡単なもので」
「自分で作って。鍋に水を入れて、うどんを温めるだけよ」
「旅行から帰った日くらい、作ってくれてもいいだろ」
「澪さんには、自分でできることをさせるべきだと言われたでしょう。大地も同じよ」
大地は冗談だと思ったのか笑ったが、さやかが台所へ向かわないと分かると、不満そうに冷凍庫を開けた。鍋を探すだけで戸棚を二つ開け、だしの場所が分からないと何度も尋ねた。さやかは場所だけを伝え、代わりには動かなかった。
大地が作ったうどんは、だしを入れすぎて色が濃く、長く煮た麺は柔らかくなっていた。それでも食べられないほどではなく、彼は黙って一人で食べた。さやかは旅行中に買った小さなかまぼこと、冷蔵庫のキュウリで簡単な酢の物を作り、自分の夕食にした。
食後、さやかは手帳を開いた。澪が約款を理解するために何度も読み上げを聞き、暗記するほど努力していることを書いた。次に、仕事を締結まで終えるため、確認表と正しい相談先が必要だと教えられたことも記した。
《澪は変わろうとするため、手帳へ三つの約束を書いた。大地は、澪から頼られなくなったことを寂しがった。》
さやかはペンを置き、居間でうどんの鍋を洗う大地の背中を見た。澪の障害は、夫婦の境界を壊した原因ではなかった。境界を曖昧にしたまま、必要とされる自分を楽しんできた大地の選択が、はっきりと残っていた。




