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第11話 優績者と、迎えが必要な朝

第11話 優績者と、迎えが必要な朝


 箱根旅行から一週間ほどたった金曜日、さやかは仕事を終え、駅前のスーパーで買ったアジの開きを焼いていた。白い半袖ブラウスから薄紫色の部屋着へ着替え、髪を茶色のゴムで一つに束ねている。魚焼きグリルから脂のはぜる音が聞こえ、鍋ではナスと油揚げのみそ汁が湯気を立てていた。大地はまだ帰宅しておらず、食卓には朝に畳み忘れた新聞と、封を切っていない電気料金の請求書が残っていた。


 午後七時を少し過ぎた頃、食卓に置いたさやかのスマートフォンが震えた。画面には登録していない番号が表示されていたが、留守番電話へ切り替わる直前に電話へ出た。受話口の向こうから聞こえたのは、箱根旅行で会った長谷川の落ち着いた声だった。


「夜分に申し訳ありません。澪のトレーナーをしております、長谷川です。高梨さやかさんのお電話で間違いないでしょうか」


「はい。先日はお世話になりました。何かありましたか?」


「澪のことで、一度お話ししたいことがあります。ただし、会社の契約やお客様の情報ではありません。澪本人からも、さやかさんへ相談してほしいと言われています」


 長谷川は最初に、澪の同意を得て連絡したことを説明した。さやかはコンロの火を弱め、煮立ち始めたみそ汁のふたを少しずらした。電話の向こうでは紙をめくる音がして、長谷川も話す内容を事前に整理しているようだった。


「澪は今、さやかさんに嫌われていると思い込み、自分が何をして傷つけたのか分からないと悩んでいます」


「本人には何度も、具体的に伝えました。深夜に夫へ連絡しないこと、許可なく家へ来ないこと、夫へ抱きつかないことです」


「はい。箱根で手帳にも書きました。ただ、本人の中では『今は約束を守っているのに、どうして嫌われたままなのか』という疑問になっています」


「一週間守ったから、それまでのことが全部なくなると思っているのでしょうか」


 さやかが尋ねると、長谷川は小さく息をついた。澪は仕事でも、一つ修正すると過去の失敗まで解決したように感じ、相手の気持ちがすぐには戻らないことを理解しにくい場合があるという。さやかはアジの開きを裏返し、焦げかけた尾へアルミホイルをかぶせた。


「日曜日の午後一時に、池袋のサンシャインシティにあるレストランでお会いできませんか。澪は同席させません。まず、私から状況をご説明したいんです」


「大地も一緒ですか?」


「今回は、さやかさんと私の二人でお願いしたいと思っています。もちろん、無理に来ていただく必要はありません」


「分かりました。伺います」


 さやかは待ち合わせの店名を手帳へ書いた。電話を切ると、グリルの中からアジの香ばしい匂いが広がり、みそ汁の表面には薄い膜が張っていた。食卓へ二人分の料理を並べたところで、大地が帰宅した。


「今日はアジか。澪は魚の骨を取るのが苦手だったな」


「家へ帰って最初に話すことが、それなの?」


「思い出しただけだよ。旅行から帰ってから、澪とほとんど話してないんだから、それくらいいいだろ」


 大地は紺色のネクタイを緩め、さやかの向かいへ座った。長谷川から電話があったことを伝えると、箸を持つ手を止めた。自分には連絡がなかったことが気になるのか、何を話すつもりなのかと何度も尋ねた。


「澪さんが、私に嫌われていると悩んでいるそうよ」


「やっぱり気にしてたんだな。お前も、もう許してやればいいじゃないか」


「約束を一週間守ったから、私が親しくしなければならないの?」


「親しくしろとは言ってないよ。でも、澪は障害があって、人間関係が苦手なんだ。少しは理解してやってもいいだろ」


「理解することと、私の家や夫へ自由に近づくことを許すのは別よ」


 大地はアジの小骨を一本取り、皿の端へ置いた。普段なら骨を取るのが面倒だと言うのに、箱根から帰ってからは自分で魚を食べている。さやかはみそ汁のナスを箸で挟み、柔らかく煮えた皮を口へ運んだ。


 日曜日、さやかは約束の十五分前にサンシャインシティへ到着した。白い襟の付いた紺色のワンピースに、かかとの低いベージュの靴を合わせている。夏休みの館内は家族連れで混雑し、水族館へ向かう子供たちがペンギンの絵が付いた帽子をかぶって歩いていた。


 待ち合わせのレストランは高層階にあり、大きな窓から東京の建物が見渡せた。店内には焼きたてのパンとコーヒーの匂いが漂い、白いクロスの上には小さな花瓶が置かれている。長谷川は窓際の席で待っており、さやかを見ると立ち上がって頭を下げた。


「お休みの日に申し訳ありません。来てくださって、ありがとうございます」


「こちらこそ。今日は、どこまで澪さんの話を聞いてよいのでしょうか」


「本人から、仕事の成績、障害、現在受けている支援について、さやかさんへ伝えてよいと同意を得ています。それ以外の個人情報には触れません」


 長谷川はそう説明し、署名の入った簡単な同意書を見せた。さやかは内容を確認し、他人の診断や仕事上の事情を勝手に聞かされる場ではないことに少し安心した。二人はランチセットを注文し、さやかは白身魚のソテー、長谷川は鶏肉のトマト煮を選んだ。


 前菜には冷たいカボチャのスープと、レタス、紫キャベツ、ミニトマトのサラダが運ばれてきた。長谷川はスープを一口飲み、ナプキンを膝へ広げてから、澪の現在の成績について話し始めた。窓の外では白い雲がゆっくり流れ、遠くの道路を走る車が小さく見えた。


「澪は今、社内では優績者と呼ばれる成績を上げています。法人契約を中心に、営業成績だけなら同期の中でも上位です」


「仕事ができることは、飯能河原でも分かりました。お客様への気配りも、準備もきちんとしていました」


「ええ。そして現在、MDRTの会員資格を目指しています」


「MDRTというのは、何ですか?」


 長谷川はテーブルの横へ置いた鞄から、一枚の資料を取り出した。MDRTは、生命保険や金融サービスに携わる専門家が参加する国際的な独立組織であり、一定の営業実績だけでなく、専門知識や倫理基準も重視されると説明した。名称は、設立当初に参加者たちが円卓を囲んで話し合ったことに由来するという。


「資格には基準となるMDRTのほか、さらに高い実績が求められるCOT、TOTという区分があります。ただし、成績さえ達成すれば何をしてもよい称号ではありません。顧客第一の姿勢や、専門家としての倫理が重要です」


「澪さんは、もう会員なのですか?」


「いいえ。今年の成績で基準達成を目指している段階です。ですから私は、数字だけではなく、契約成立までの事務処理や、お客様との距離、個人情報の扱いも含めて指導しています」


 長谷川は資料を閉じた。澪には、人の懐へ入る力があるという。相手の誕生日や家族の話をよく覚え、必要な保障を考えるためなら何時間でも勉強する一方、相手との距離が縮まると、公私の境界まで曖昧にしてしまうことがあった。


「紹介を増やすために、大地さんへ近づいたのですか?」


「それだけではないと思います。二人には長い付き合いがありますし、澪は大地さんを安心できる相手として頼っています。ただ、結果として大地さんから多くの後輩や友人を紹介してもらい、成績につながったことは事実です」


「私は何も知りませんでした。夫が何人紹介したのかも、旅行がその協力者向けだったことも、当日まで聞いていませんでした」


「その点は、澪にも配慮が足りませんでした。奥様の知らないところで連絡と紹介が重なれば、不信感を持たれて当然です」


 運ばれてきた白身魚には、レモンとバターのソースがかかっていた。付け合わせはインゲン、ニンジン、小さなジャガイモで、皿の端には粒マスタードが添えられている。さやかは魚を一口大に切ったが、話の続きを聞くため、フォークを皿へ置いた。


「それでも、澪さんは自分がなぜ嫌われているか分からないのですね」


「約束を破ったことは理解しています。ただ、嫌がられた行動と、関係が悪くなったことを長い時間の流れとして結びつけるのが苦手です。本人の中では、約束を書いた、今週は守った、だから問題は終わった、となりやすいんです」


「私は、澪さんを嫌っていると本人へ言ったことはありません」


「では、どんなお気持ちですか?」


「自宅へ入れたくありません。夫と二人きりで会ってほしくありません。深夜の連絡も、身体へ触れることもやめてほしいです。でも、それは澪さんの服装や障害が嫌いだからではありません」


 さやかは白身魚を一口食べた。表面は香ばしく焼け、内側は柔らかかったが、バターソースは少し塩辛かった。水を飲んでから、さやかは大地の行動について話した。


「私が何度やめてほしいと言っても、大地は澪さんを選びました。妹みたいなもの、悪気はない、障害があるから仕方ないと言って、私の言葉を嫉妬に変えました。ですから、澪さんだけの問題ではありません」


「そのとおりです。私も箱根で、大地さんの関わり方には問題があると感じました」


「澪さんを支えると言いながら、自分が頼られることを楽しんでいるんです。澪さんが確認表を使い、長谷川さんへ相談したら、急に冷たくなったと言いました」


「大地さんにとっても、澪に必要とされる立場が心地よかったのでしょうね」


 長谷川は鶏肉を切る手を止め、窓の外へ一度目を向けた。仕事の支援者として、澪が誰か一人へ過度に依存する状態を放置できないという。けれど、長谷川自身も澪を支えすぎている部分があると認めた。


「実は私は、毎朝、澪のマンションまで迎えに行っています。会社から徒歩三分ほどの場所なのに、一人では定刻に出社できない日が続いたからです」


「会社まで三分なのに、ですか?」


「はい。目覚ましを止めて二度寝する、服を選んでいるうちに時間がなくなる、鍵や社員証を探して遅れる。ひどいときには、出社前に動画を見始めて、時刻そのものが頭から抜けてしまいます」


 長谷川は毎朝七時四十五分に澪へ電話し、返事がなければマンションの前まで行くという。部屋へ勝手に入ることはないが、玄関から出てくるまで連絡を続け、忘れ物の確認表を読み上げる。会社まで一緒に歩き、始業前にその日の予定を整理している。


「営業成績だけを見れば、MDRTを目指す優績者です。しかし、生活と事務の一部には、毎朝の迎えが必要なほど強い支援を要しています。能力の高い部分と、支援が必要な部分の差が非常に大きいんです」


「普通なら考えられないような状態だと言いたいのですか?」


「以前の私は、そう思っていました。でも今は、本人の中で能力の偏りが大きいのだと理解しています。ただ、私の迎えがいつまでも続くのは望ましくありません」


 長谷川は、澪の障害を哀れむような言い方を避け、一つずつ事実を説明した。営業ではトップクラスでも、朝の支度、書類の完了、予定の切り替え、人との境界には支援が必要である。できることが多いから支援は不要とも、支援が必要だから何もできないとも言えなかった。


「今は、玄関へ前日の夜に鞄と靴を置き、服も一式そろえ、スマートフォンの動画アプリには朝の利用制限を設定しています。迎えも毎日から週三日へ減らし、最終的には一人で出社できることを目指しています」


「長谷川さんは、そこまでしているのですね」


「トレーナーとして必要な範囲を考えながら行っています。ただ、正直に申し上げれば、私にも負担があります。澪が遅刻すれば、担当者として私も責任を問われますから」


 長谷川は膝の上で両手を重ね、頭を下げた。澪がさやかの家庭へ入り込み、迷惑をかけていることを止め切れなかったと謝罪した。けれど、さやかは長谷川が謝るべきことではないと答えた。


「本当に申し訳ございません。普通なら考えられないほど支援が必要な部分があり、周囲の方へご迷惑をおかけしていると思います」


「障害があることを謝らないでください。私が困っているのは、澪さんが支援を必要としていることではありません」


「では、何を一番伝えてほしいですか?」


「障害があっても、人の夫へ触れないことは守れる。忘れるなら手帳や通知を使える。そして、大地は澪さんの支援者ではない。そこを伝えてください」


 さやかは言葉を区切って話した。長谷川はメモ帳へ内容を書き、最後の行へ二本の線を引いた。レストランでは食後のコーヒーが運ばれ、白いカップから苦みのある香りが立った。


「もう一つ、確認してもよいですか。さやかさんは、澪と仲よくしたいと思っていますか?」


「いいえ。今は思いません」


 さやかは迷わず答えた。澪の事情を理解したことと、親しい関係になることは別だった。相手の努力を認めても、自宅へ招いたり、夫との距離を許したりする義務はない。


「澪さんが約束を守るなら、私は攻撃もしませんし、仕事を邪魔するつもりもありません。でも、許すことと、親しくなることは同じではありません」


「澪には、その違いを理解するのが難しいかもしれません」


「難しいなら、何度でも読み上げてもらえばいいでしょう。約款を暗記できるほど勉強した人です」


 長谷川は少し驚いたあと、静かにうなずいた。厳しい言葉だったが、澪の能力を否定したものではなかった。むしろ、彼女が工夫して理解できる人だと認めたうえで、必要な境界を求める言葉だった。


 食事を終えると、二人は会計を別々に支払った。長谷川は会社の経費にできると言ったが、さやかは自分の昼食代は自分で払うと決めていた。レジの横には小さな焼き菓子が並び、バターとアーモンドの甘い匂いがしたが、さやかは買わなかった。


 店を出る前、長谷川は澪へ今後どのような支援をするか話した。大地の連絡先を緊急連絡の最上段から外し、仕事の相談先、生活上の相談先、緊急時の連絡先を分ける。朝の出勤支援も、長谷川一人へ依存しないよう会社と専門の支援機関へ相談するという。


「大地さんから紹介を受けることも、しばらく止めさせます。仕事上の利益と私的な依存が混ざっていますから」


「それがいいと思います」


「MDRTを目指すなら、成績だけでなく、倫理と自己管理も学ぶ必要があります。澪にも、そこを改めて伝えます」


 さやかは長谷川へ礼を言い、エレベーターへ向かった。高層階から下りる途中、耳が少し詰まり、何度か唾を飲み込んだ。鏡張りの壁には、紺色のワンピースを着た自分が一人で立っていた。


 帰宅すると、大地は居間のソファで昼寝をしていた。テーブルにはカップ麺の空容器と割り箸が残り、冷房の風でティッシュが床へ落ちている。さやかがカーテンを開けると、大地はまぶしそうに目を細めた。


「長谷川さんと、何を話してきたんだ?」


「澪さんの仕事と、必要な支援についてよ。MDRTを目指すほど営業成績がよいことも聞いたわ」


「すごいだろ。澪は昔から、やればできるんだよ」


「毎朝、会社から三分のマンションまで長谷川さんが迎えに行っているそうよ」


「そんなに大変なら、俺にも相談してくれればよかったのに」


「どうして、そこであなたが出てくるの?」


 大地は当然のことを言ったような顔をした。幼馴染なのだから、朝に起こすくらいできると答え、長谷川の負担も減らせると言った。さやかは鞄を椅子へ置き、テーブルのカップ麺を片づけずに大地の前へ押し戻した。


「大地は澪さんの家族でも、上司でも、支援員でもないわ。朝起こす役目まで引き受けたら、また連絡が増えるだけでしょう」


「困っているなら助ければいいじゃないか。お前は事情を聞いても、まだ冷たいんだな」


「私は事情を聞いたからこそ、正しい支援が必要だと思ったの。あなたが何でも代わりにすることではないわ」


「澪に嫌われてるって相談されたんだろ。少しくらい優しくしてやれよ」


「私は、澪さんと親しくなるつもりはないと伝えたわ」


 大地は上半身を起こし、さやかを見た。澪が努力していると知っても気持ちが変わらないのかと責めたが、さやかは靴を脱ぐため玄関へ戻った。ベージュの靴の中には、池袋を歩いた汗が少し残り、足の裏が熱を持っていた。


「努力していることは認めるわ。障害があることも責めない。でも、私が嫌がる行動を続けたこととは別よ」


「お前は一度嫌いになったら、ずっと許さないんだな」


「約束を守ることと、許して親しくなることを取引にしないで」


 さやかは寝室の引き出しから手帳を出した。長谷川から聞いた内容のうち、澪本人が伝えてよいと同意した範囲だけを記した。営業成績、MDRTを目指していること、毎朝の出勤支援、今後は大地からの紹介を止めることを書いた。


《大地は、長谷川さんが毎朝迎えに行っていると聞き、「俺にも相談してくれればよかった」と言った。自分が夫であることより、澪に必要とされる役を選ぼうとしている。》


 さやかはその一文の下へ日付と時刻を書いた。居間からは、大地がカップ麺の容器を片づける音ではなく、澪へメッセージを送る操作音が聞こえていた。手帳を閉じたさやかは、夫が何を選び続けているのか、もう見間違えなかった。



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