第12話 三センチの鉛筆と、午後十時の「ごめんね」
第12話 三センチの鉛筆と、午後十時の「ごめんね」
八月の終わり、澪の勤める保険会社では、十一月の「保険月」へ向けた準備が始まっていた。七月、十一月、二月は、社内で保険月と呼ばれ、営業担当者には普段の三倍近い成績目標が示される。朝礼室の壁には契約件数を記した大きな表が貼られ、赤い線で支部目標、青い線で個人目標が引かれていた。冷房が強く効いた室内でも、営業担当者たちは汗を拭きながら数字を見上げていた。
澪は白いブラウスに黒いタイトスカートを合わせ、胸元へ社員証を下げていた。大きなリボンやレースは身に着けず、髪も低い位置で一つに結んでいる。手元の営業鞄には確認表、法人顧客の訪問予定、提出期限を書いた付箋が詰め込まれていたが、昨夜鞄へ入れたはずの黒い手帳だけが見つからなかった。
「小鳥遊、昨日頼んだ法人契約の進捗表はどうした?」
朝礼が終わると、支部長が澪を呼び止めた。五十代の男性で、灰色のスーツのポケットには三センチほどまで短くなった鉛筆が入っている。澪は鞄の中を何度も探し、書類の間から口紅、飴の包み紙、充電の切れた携帯用扇風機を出した。
「昨日の夜、書いたんです。でも、手帳ごと家へ置いてきたみたいで……」
「またか。小鳥遊、あなたの頭より、この三センチの鉛筆のほうが賢いぞ」
支部長は短い鉛筆を指でつまみ、澪の前へ置いた。書けば記録が残るが、澪は三歩歩けば頼まれたことを忘れると言い、営業で契約を取っても事務処理を落とせば意味がないと厳しく注意した。周囲の社員は目を伏せ、給湯室からは誰かが淹れたインスタントコーヒーの苦い匂いが流れてきた。
「申し訳ありません。昼休みに取りに戻ります」
「会社から三分のマンションに住んでいて、忘れ物のせいで一日に何度帰るつもりだ。今日は九時から訪問だろう」
「はい。でも、手帳がないと予定が分からなくて」
「予定は社内システムにも入力するよう、何度も言ったはずだ。できない理由を集める前に、できる方法を一つずつ使いなさい」
支部長の声は朝礼室の隅まで響いた。澪は短い鉛筆を握り、うつむいたまま返事をした。鉛筆の先はきちんと削られ、短くても数字を書ける状態に保たれていた。
支部長が席を離れたあと、長谷川が澪を小さな会議室へ連れていった。机の上には前日の会議で使ったペットボトルと、半分に折れた紙コップが残っている。長谷川は窓のブラインドを少し開け、強い日差しを避けてから澪と向かい合った。
「支部長の言い方は厳しすぎました。人の頭と鉛筆を比べる言葉は、私は適切だと思いません」
「でも、言われても仕方ないです。昨日も、三回同じことを忘れました」
「忘れることと、侮辱されていいことは別です。ただし、仕事の確認をしなくていいという意味でもありません」
長谷川は澪の鞄から、折れ曲がった確認表を取り出した。訪問先、持ち物、提出期限の欄はあったが、昨日の午後から一つも印が付いていない。澪は顧客から電話が入り、予定が変わったところで確認表を見ることを忘れたと説明した。
「保険月は、普段の三倍の目標を求められます。でも、澪が三倍動けば、忘れ物や未処理の仕事も三倍になる可能性があります」
「では、どうすればいいんですか。契約を取らないと、MDRTに届きません」
「新しい契約だけを追わず、今持っている案件を締結まで終わらせてください。一件増やす前に、一件を完了させるんです」
「でも、みんなはもっと契約を取っています」
「みんなと同じ件数を、同じ方法で追う必要はありません。澪には澪の管理方法が必要です」
長谷川は社内システムを開き、未完了の案件を一つずつ画面へ表示した。登記事項証明書の確認、代表者印の照合、申込書の不足、健康状態に関する追加確認など、契約成立までに必要な項目が残っている。澪は赤いペンで紙の確認表へ書き写し、完了する順番に番号を付けた。
「大地さんには連絡していませんね?」
「していません。箱根で約束したから。何度かスマートフォンを持ったけど、我慢しました」
「我慢するだけでは続きません。仕事で混乱したら私か上司へ、生活のことで困ったら支援窓口へ相談してください」
「大ちゃんに『大丈夫だよ』って言ってもらうと、本当に大丈夫な気がしたんです」
「その間、さやかさんはどうしていたと思いますか?」
澪は答えず、短い鉛筆を机の上で転がした。長谷川は、これまで起きた出来事を一つずつ挙げた。午前二時の電話では、さやかも翌朝に仕事があるのに起こされた。棚を組み立ててもらった夜には、さやかは仕事帰りに夕食も取らず、段ボールまで片づけた。
「澪が大地さんへ『助けて』と言うたび、さやかさんは自分の夫を持っていかれたように感じたかもしれません」
「でも、大ちゃんは自分で来てくれました。澪が無理やり連れていったんじゃありません」
「そのとおりです。大地さんにも責任があります。ただし、大地さんが受け入れたからといって、妻の気持ちを考えなくてよいことにはなりません」
「さやかさんは、一人でも何でもできる人です」
「何でもできる人は、後回しにされても平気なの?」
長谷川の問いに、澪の指が止まった。さやかは料理を作り、洗濯をし、翌日の仕事へ行きながら、大地と澪の深夜の電話が終わるのを待っていた。泣いて助けを求めなかったからといって、何も感じていなかったわけではない。
「澪は泣いたり、怖いと言ったりできました。さやかさんは、それを言わずに食器を洗い、冷めた料理を片づけていたのでしょう」
「どうして、そこまで分かるんですか?」
「箱根で話したとき、さやかさんは出来事を具体的に覚えていました。何時に連絡が来たか、何を言われたか、どの約束を破られたか。長い間、誰にも聞いてもらえないまま記録していたからです」
澪は短い鉛筆を握り、確認表の空白へ小さな丸を描いた。黒い芯が紙へ引っかかり、丸の途中で線が途切れた。長谷川は鉛筆を取り上げず、澪が自分で続きを書くのを待った。
九月に入ると、澪の訪問先には夜の飲食店が増えた。既存客からスナックやクラブの経営者を紹介され、店が開く前の夕方や、営業終了後の深夜に面談することが多くなった。華やかな店内には香水、たばこ、酒、革張りのソファの匂いが混じり、テーブルには客の残した水割りや乾いたおつまみが並んでいた。
「澪ちゃん、仕事の話ばかりじゃ疲れるでしょう。一杯くらい飲みなさいよ」
ある夜、紫色のドレスを着たスナックの経営者が、澪の前へハイボールを置いた。澪は翌朝も仕事があるからと一度は断ったが、契約の話を聞いてもらうため、グラスへ口をつけた。炭酸の刺激とウイスキーの熱さが喉を通り、張りつめていた肩の力が少し抜けた。
「澪ちゃん、いつも頑張ってるもの。今日は契約の話を忘れて、ゆっくりしていきなさい」
「でも、長谷川トレーナーに、明日の朝一番で書類を出すように言われています」
「一杯飲んだからって、何も変わらないわよ。若いんだから平気、平気」
澪は二杯目も断れなかった。店を出たのは午前一時を過ぎ、駅前のラーメン店から豚骨スープの匂いが漂っていたが、食事をする気にはならなかった。コンビニで缶チューハイとサンドイッチを買い、ふらつく足でマンションへ戻った。
部屋へ入ると、床には脱いだ黒いパンプス、営業鞄、郵便物が散らばっていた。冷蔵庫には以前、大地たちへ贈ったものと同じ店の桃が一個残っていたが、皮の一部が茶色く変色している。澪はサンドイッチを一口だけ食べ、缶チューハイを開けると、化粧も落とさずベッドへ横になった。
以前なら、眠れないとすぐに大地へ連絡していた。けれどスマートフォンの予定表には、《夜十時以降、大ちゃんへ連絡しない》という通知が残っている。澪は大地の名前を表示したところで指を止め、画面を閉じた。
「大ちゃんに連絡しちゃ駄目。さやかさんが、また眠れなくなる」
澪は自分へ言い聞かせ、缶チューハイを一口飲んだ。酒が入ると頭の中の仕事や締め切りが遠のき、支部長の声も聞こえなくなったように感じた。眠るためにもう一本飲めばよいと思い、冷蔵庫から新しい缶を取り出した。
数日後には、酒を買って帰ることが習慣になった。夕食を作る気力がなく、コンビニのおにぎりやカップスープで済ませる日が増えた。黒いごみ袋には空き缶がたまり、洗面所の籠には汗の染みたブラウスが重なった。
朝七時四十五分、長谷川からの電話が鳴っても、澪は起きられなかった。枕元ではスマートフォンが何度も震え、遮光カーテンを閉めた部屋には朝日が入らない。テーブルには飲み残した缶チューハイと、ふたを開けただけのカップスープが置かれ、乾いたコーンが底へ貼りついていた。
「澪、起きていますか。七時五十分です。返事をしてください」
長谷川はマンションの前から電話をかけ、インターホンも何度か鳴らした。ようやく澪が扉を開けたのは八時二十分で、髪は乱れ、黒いTシャツの首元には口紅の跡が付いていた。部屋から流れてきた酒と香水の混じった匂いに、長谷川は眉をひそめた。
「昨夜、どれくらい飲みましたか?」
「覚えていません。お客様のお店で二杯飲んで、帰ってから少しだけ……」
「空き缶が何本ありますか?」
「数えていません。今日は休んでもいいですか。頭が痛くて、立てません」
長谷川は出勤させる状態ではないと判断し、会社へ連絡した。澪へ水を飲ませ、医療機関へ相談するよう勧めたが、澪は二日酔いだから眠れば治ると布団へ戻った。長谷川は一人で抱え込まず、会社の産業保健担当者へ状況を報告した。
それでも澪は、酒を完全にはやめられなかった。飲めば眠れると思っていたが、実際には夜中に何度も目が覚め、朝には頭が重くなった。欠勤と遅刻が増え、契約の確認表にも空欄が目立つようになった。
「小鳥遊、このままでは営業へ出せない」
支部長は面談室で澪へ告げた。机には未処理の契約一覧と、顧客から届いた確認のメールが印刷されている。澪は黒いカーディガンの袖で指先を隠し、椅子へ浅く座っていた。
「十一月の保険月までには戻します。契約も取ります。MDRTも諦めたくありません」
「今の問題は成績ではない。顧客との約束を守り、契約を最後まで管理できる状態かどうかだ」
「頑張ります」
「頑張るという言葉だけでは確認できない。酒のことを医師へ相談し、生活を立て直すことが先だ」
支部長は以前のように鉛筆と澪を比べなかった。代わりに、会社の相談窓口と医療機関の案内を机へ置いた。長谷川も同席し、受診する日と休職を含めた働き方を一緒に考えようと伝えた。
「大地さんへ連絡したいですか?」
長谷川が尋ねると、澪はすぐには答えなかった。大地なら、会社が厳しすぎる、澪は十分頑張っていると言ってくれるだろう。その言葉を聞けば一時は楽になれるが、未処理の契約も空き缶も消えないことを、澪はようやく分かり始めていた。
「連絡しません。大ちゃんに言ったら、また助けに来てくれるから」
「それでは、誰へ助けを求めますか?」
「お酒のことは病院。仕事のことは長谷川トレーナーと支部長。朝起きられないことは、生活支援の人に相談します」
「それでいいんです。大地さんへ連絡しないことは、誰にも頼らず一人で耐えることではありません」
長谷川は受診先へ予約の電話を入れるため、澪と一緒に面談室を出た。廊下の窓からは雨に濡れた道路が見え、傘を持たない人が鞄を頭へ載せて走っていた。澪は短い鉛筆を握り、受診日時を手帳とスマートフォンの両方へ記録した。
その夜、午後十時を少し過ぎた頃、さやかは自宅で洗濯物を畳んでいた。薄い緑色の部屋着を着て、テレビでは天気予報を小さな音で流している。食卓には夕食で食べたサバのみそ煮の皿が残り、甘いみその匂いと、取り込んだタオルの柔軟剤の匂いが混じっていた。
大地は入浴中で、浴室からシャワーの音が聞こえていた。さやかが大地の白いワイシャツを畳んだところで、自分のスマートフォンが短く震えた。画面には、箱根旅行のあとに登録した澪の名前が表示されていた。
《ごめんね》
それだけのメッセージだった。黒いハートも泣き顔の絵文字もなく、いつもの幼い語尾も付いていない。さやかはすぐに返事を打たず、画面の時刻を確認した。
午後十時七分。箱根で決めた「夜十時以降は大地へ連絡しない」という約束を守り、澪はさやかへ送ってきたのだろう。けれど「ごめんね」だけでは、何について謝っているのか、今どこにいるのか、無事なのかも分からなかった。
《何について謝っているのですか。今、安全な場所にいますか。お酒を飲んでいますか。》
さやかは質問を三つに分けて送った。長い文章では澪が読み飛ばすかもしれないと考え、一行ずつ空けた。返信を待つ間、サバのみそ煮の皿を流し台へ運び、水へ浸した。
五分たっても返事はなかった。浴室から出てきた大地が、タオルで髪を拭きながら居間へ入ってきた。白いTシャツと紺色の短パンを着て、冷蔵庫から麦茶を出そうとしている。
「澪さんから、私にメッセージが来たわ」
「澪から? 何て?」
「『ごめんね』とだけ。今、安全かどうかを確認しているところよ」
「俺から電話する」
大地はすぐに自分のスマートフォンを取ろうとした。さやかはその手を止め、まず長谷川へ連絡すると告げた。大地が幼馴染なのだから自分が確認すると言っても、さやかは首を振った。
「澪さんがあなたへ連絡しなかったことには、意味があるわ。あなたが助けに行けば、また同じ形へ戻る」
「何かあったらどうするんだよ」
「だから放っておくとは言っていない。適切な人へつなぐのよ」
さやかは箱根で交換した長谷川の番号へ電話をかけた。数回の呼び出し音のあと、長谷川が応答した。澪から届いた文章と、返信がないことを伝えると、長谷川はすでに酒の問題と受診予定を把握していると説明した。
「今夜は、生活支援の担当者が電話で確認する予定でした。私からも連絡してみます。必要なら安否確認を依頼しますので、さやかさんと大地さんだけで部屋へ向かわないでください」
「分かりました。返信があれば、すぐお知らせします」
「連絡してくださって、ありがとうございます。澪を一人で抱えないでください」
電話を切る直前、さやかのスマートフォンがまた震えた。澪からの返信には、短い文章が三行に分けて書かれていた。
《家にいます。》
《お酒は飲んでいません。》
《病院に行くことになりました。》
さらに少し間を置いて、もう一通届いた。
《大ちゃんを借りて、ごめんね。》
さやかは画面を見つめた。これまでの澪は、大地が自分の意思で来たのだから、自分には責任がないと繰り返していた。けれど今は、さやかが何を失っていたのかを、少しだけ考え始めたのかもしれなかった。
《大地は物ではないので、貸したり借りたりする人ではありません。大地があなたを優先したことは、大地自身の責任です。あなたは病院へ行き、お酒と眠れないことを正直に話してください。謝罪については、体調が落ち着いてから聞きます。》
さやかは文章を読み直し、送信した。許すとも、嫌いではないとも書かなかった。澪を慰めるために、自分の感じたことをなかったことにするつもりもなかった。
「何て返したんだ?」
「病院へ行き、体調を整えるように伝えたわ。そして、あなたの行動はあなた自身の責任だと書いた」
「今の澪に、そんな厳しいことを言わなくてもいいだろ」
「では、あなたは自分の責任を認めるの?」
大地は口を閉じた。冷蔵庫から出した麦茶のボトルを持ったまま、食卓の前で立ち尽くしている。さやかは畳み終えたワイシャツを大地へ渡し、自分の引き出しへしまうよう告げた。
その夜、澪からそれ以上の連絡はなかった。長谷川からは、生活支援の担当者が電話で安否を確認し、翌朝の受診にも付き添うと報告が届いた。さやかは手帳へ時刻とやり取りを書き、最後に一文だけ付け加えた。
《助けることは、誰か一人がすべてを背負うことではない。正しい助けへつなぐことも、助けることの一つ。》
流し台では、水へ浸したサバのみそ煮の皿から、茶色いみそがゆっくり剥がれていた。さやかは蛇口を閉め、部屋の照明を一つずつ消した。午後十時の「ごめんね」は、まだ許しを求める言葉ではなく、澪が初めて自分のしたことを見ようとした、小さな記録として手帳に残った。




