第8話 飯能河原のバーベキュー
第8話 飯能河原のバーベキュー
七月最後の金曜日、さやかが仕事から帰ると、食卓の上に一枚の案内状が置かれていた。冷房の風で飛ばないよう、飲みかけの缶ビールが重し代わりに載せられ、紙の端には丸い水滴の跡が付いている。さやかは白いブラウスの袖をまくり、台所に残っていた朝の味噌汁へ水を足して火にかけた。煮立った豆腐の匂いが広がると、ソファで寝転んでいた大地がようやく顔を上げた。
「その紙、澪からだよ。今度の日曜日、飯能河原でバーベキューをするらしい」
案内状には、集合時刻、会場までの地図、雨天時の連絡方法、持ち物がきれいにまとめられていた。上部には黒とピンクのリボンが印刷されていたが、文章は会社の書類のように整っている。差出人の欄には、小鳥遊澪と保険会社の部署名が書かれていた。
《さやかさんと一緒に、飯能河原へバーベキューに行きませんか。材料はこちらで用意しますので、手ぶらでお越しください。》
「澪さん、保険会社に勤めているの?」
「言ってなかったか? 生命保険の営業をしてるよ。お客さんとの付き合いで、たまに催しをするらしい」
「初めて聞いたわ。仕事をしていないとは思っていなかったけれど」
さやかは案内状を裏返した。参加者の名前を書く欄には、すでに大地とさやかの名前が記入されている。二人の都合を聞く前に、参加することだけは決められていた。
「大地は、もう行くと返事をしたの?」
「ああ。澪が、お前とも仲良くなりたいと言ってるんだ。材料も炉も飲み物も、全部用意してくれるらしいぞ」
「私の予定は聞かなかったの?」
「日曜日は空いてるだろ。先週、特に予定はないと言ってたじゃないか」
「予定がなければ、誰の誘いでも勝手に入れていいわけではないでしょう」
さやかは温め直した味噌汁を椀へよそった。冷蔵庫から冷やご飯を出し、電子レンジで温め、梅干しと刻み海苔を載せた。大地は澪から招待されたことを特別な出来事のように何度も話し、保険会社の得意客も来るから、失礼のない服を着てくれと付け加えた。
「失礼のない服って、どんな服?」
「お前、普段着だと地味だからさ。少しくらい明るい色を着たら?」
「河原でバーベキューをするのに、派手な服を着るの?」
「澪はいつもきちんとしてるだろ。お客さんも来るんだから、俺たちだけ場違いだと困るよ」
大地は自分のビールを飲み、さやかの味噌汁には手を伸ばさなかった。食卓の上には案内状、空になりかけた缶、脱いだ靴下が一緒に置かれている。さやかはそれらを見てから、味噌汁の底へ沈んだ豆腐を箸ですくった。
日曜日の朝、さやかは午前六時に起きた。河原で汚れても洗いやすいよう、白い半袖のポロシャツにベージュのパンツを合わせ、つばの広い紺色の帽子を鞄へ入れた。大地は澪の客に会うからと、水色の半袖シャツに新しいチノパンをはき、鏡の前で何度も髪を整えていた。
「虫よけは持った?」
「澪が全部用意すると言ってたよ。手ぶらでいいって書いてあっただろ」
「虫よけと日焼け止めは、自分で持っていくものよ。河原ならタオルも必要でしょう」
「お前は本当に心配性だな。遠足に行く小学生みたいだ」
大地は笑ったが、さやかの鞄から予備のタオルを一枚取って自分のリュックへ入れた。さやかは水筒へ冷たい麦茶を詰め、塩あめと絆創膏も小さなポーチへ入れた。流し台には朝食で食べたトーストの皿が二枚残っていたが、帰宅後に洗うことにして家を出た。
二人は電車を乗り継ぎ、午前十時前に飯能駅へ着いた。駅前には同じ方向へ向かう家族連れが多く、子供たちは浮き輪や水鉄砲を抱えている。外へ出ると強い日差しが腕へ当たり、アスファルトから熱気が立ち上っていた。
「澪たちは車で来るんだろ。もう着いてるかな」
大地がスマートフォンを確認していると、駅前のロータリーへ白いアルファードが入ってきた。大きな車体は磨かれて光り、後部座席の窓には薄い色のカーテンが掛かっている。助手席の扉が開き、いつもの地雷系ファッションとは違う澪が降りてきた。
澪は淡いピンク色の半袖ブラウスに白いパンツを合わせ、髪を低い位置で一つに束ねていた。足元は厚底靴ではなく、歩きやすそうな白いスニーカーだった。赤い涙袋や黒いアイラインは残っているが、大きなリボンもレースもなく、二十五歳の会社員として違和感のない姿をしている。
「大ちゃん、さやかさん、おはようございます。暑い中、ありがとうございます」
澪は幼い声ではなく、よく通る落ち着いた声で挨拶した。後部座席からは、五十代ほどのスーツ姿の男性と、日よけのカーディガンを羽織った女性が降りてきた。運転席にいた四十代ほどの男性も車を降り、澪から紹介を受けた。
「こちらは、いつもお世話になっている竹内商事の竹内社長ご夫妻です。運転してくださったのは、総務部長の森田様です。こちらが幼馴染の大地さんと、奥様のさやかさんです」
「いつも澪さんには世話になってます。今日はよろしくお願いします」
竹内社長が笑顔で手を差し出すと、澪は一歩下がり、全員が挨拶しやすい位置へ移動した。相手の荷物へすぐ目を配り、夫人の日傘が車の扉へ挟まりそうになると、さりげなく手を添えている。棚の説明書を読めず、大地へ泣きついた女性と同じ人物には見えなかった。
「さやかさん、今日は楽しんでください。荷物も材料も、こちらですべて用意しています」
澪は営業用の整った笑顔で言った。大地も普段との違いに驚いたらしく、澪へ仕事中は雰囲気が変わるなと話しかけた。澪はお客様の前だから当然でしょうと笑い、車の後部を開けた。
荷室には大きなクーラーボックスが三つ、折り畳み式のバーベキュー炉、炭、着火剤、トング、軍手、紙皿、救急箱まで隙間なく積まれていた。肉と魚介、野菜、飲み物は分けて保冷され、箱の外側には中身を記したラベルが貼られている。澪は一覧表を見ながら数を確認し、男性たちへ何を運んでほしいか手早く指示した。
「森田様は炉と炭をお願いします。大地さんは青いクーラーボックスを持っていただけますか。生ものが入っていますので、傾けないでください。私は受付を済ませてきます」
「澪、こんなことまで一人で準備したのか?」
「はい。参加人数と必要量を計算して、昨日のうちに積み込みました。足りないと困りますから」
澪は答えながら、保冷バッグを二つ同時に持ち上げた。重そうではあったが、床へ置いて泣き出すことも、大地へ助けを求めることもない。高いヒールを履いていない彼女は歩き方も安定し、砂利の上を迷わず進んでいった。
「棚の板は全部同じに見えると言っていた人が、これだけの道具を一人で管理できるのね」
さやかが小声で言うと、大地は仕事と私生活は別だろうと答えた。青いクーラーボックスを持つ腕には力が入り、額には早くも汗が浮かんでいる。さやかは自分の鞄と、竹内夫人の小さな荷物を持って後ろを歩いた。
飯能河原には、すでに幾つものテントや炉が並んでいた。名栗川の水は日差しを受けて光り、浅瀬では子供たちが水しぶきを上げている。炭の煙、焼けた肉、日焼け止め、川の湿った石の匂いが風に混じっていた。
澪は日陰に適した場所を見つけると、敷物の向きと炉の位置をすぐに決めた。風下に煙が流れることまで考え、食事をする場所から炉を少し離している。さやかがテーブルクロスを広げようとすると、澪は深く頭を下げた。
「さやかさんは座っていてください。今日はお客様なんですから」
「これだけの人数なら、手伝ったほうが早いでしょう」
「本当に大丈夫です。大ちゃんも、さやかさんと一緒に休んでいて」
「いや、俺は火を起こすよ。澪一人じゃ無理だろ」
「炭の準備は慣れています。保険会社の催しで、毎年担当していますから」
澪は軍手をはめ、着火剤と炭を順番に炉へ置いた。ライターを使う手に迷いはなく、空気が通る隙間もきちんと作っている。大地が手を出そうとすると、火が安定するまで触らないでと注意した。
「澪、火なんて怖くて扱えないと思ってたよ」
「お客様の前で、そんなことは言っていられないでしょう。仕事ですから」
澪は大地にだけ聞こえる声で答えたあと、竹内社長へ笑顔を向けた。火がつくと、炭のはぜる音とともに白い煙が立った。彼女はトングで炭を動かし、温度を確かめてから肉の箱を開けた。
クーラーボックスには、厚切りの牛肉、豚のスペアリブ、味付けした鶏肉、ウインナーが並んでいた。別の箱には有頭エビ、殻付きホタテ、イカが入り、野菜は玉ねぎ、ピーマン、トウモロコシ、カボチャが同じ厚さに切りそろえられている。紙皿や箸には色の違うシールが貼られ、誰の物か分からなくならない工夫までされていた。
「澪さんは本当に段取りがいいね。先月の保険の見直しも、資料が分かりやすくて助かったよ」
竹内社長が褒めると、澪はありがとうございますと頭を下げた。満期日や家族構成に合わせて幾つも比較したと夫人が話し、森田も澪は数字に強いと付け加えた。さやかは紙皿へ載せられた焼きトウモロコシを受け取りながら、説明書が読めないという澪の言葉を思い出した。
「澪さんは、お仕事ができるんですね」
「いえ、そんなことはありません。分からないことばかりで、毎日、皆様に教えていただいています」
「でも、保険の説明書や契約書は読めるのでしょう?」
「もちろんです。お客様の大切な契約ですから、細かいところまで確認します」
「家具の説明書は、難しい言葉ばかりで読めないと言っていましたね」
さやかが尋ねると、澪の笑顔が一瞬だけ止まった。大地はすぐに、仕事の書類と家具の説明書は違うだろうと口を挟んだ。竹内社長夫妻は事情が分からず、二人の顔を見比べている。
「澪は昔から工作が苦手なんだよ。だから、棚くらい俺が作ってやっただけです」
「そうなんです。大ちゃんには昔から助けてもらっていて。子供の頃から、澪のお兄ちゃんみたいな人なんです」
澪は幼い声へ戻り、大地のそばへ寄った。けれど仕事用の白いスニーカーでは足元がふらつかず、大地の腕をつかむ必要もなかった。さやかは焼けたピーマンを皿へ取り、黒くなった皮を箸で剥がした。
食事が始まると、澪は参加者の好みまで把握していた。竹内社長にはよく焼いた牛肉、夫人には脂身の少ない鶏肉、森田には辛口の焼肉のたれを勧める。大地の皿には厚切りの牛肉とウインナーを多めに載せ、さやかには野菜とホタテを選んだ。
「さやかさんは、あっさりした物がお好きですよね。大ちゃんから聞きました」
「大地。私の好物を澪さんに話したの?」
「バーベキューの材料を決めるために聞かれただけだよ。親切だろ」
「私は牛肉も好きですよ。ただし、大地が先に食べるので、家では残った野菜を食べることが多いだけです」
さやかが答えると、大地は人聞きの悪いことを言うなと笑った。澪は慌てて牛肉を一枚取ろうとしたが、網の上には脂身の多い部分しか残っていなかった。竹内夫人が、自分の皿に載っていた赤身の肉をさやかへ分けようとしたため、さやかは丁寧に断った。
「次に焼けたら、私が取ります。お気遣いありがとうございます」
「遠慮しないで。こういうときは、焼く人ばかり働いて食べ損ねるものね」
竹内夫人はそう言って、澪にも座って食べるよう勧めた。澪は大地の隣へ座り、冷えた缶ジュースを開けた。いつもの黒とピンクの服ではなくても、大地の隣を選ぶことだけは変わらなかった。
「大ちゃん、これ、好きだったよね」
澪は焼けたマシュマロを串ごと大地へ差し出した。表面はきつね色になり、中から白い部分が柔らかく溶けている。大地は子供の頃にキャンプで食べたと喜び、澪の手から串を受け取った。
「おいしい?」
「甘いけど、懐かしいな。さやかも食べるか?」
「私はいいわ。自分で焼くから」
さやかは新しい串へマシュマロを刺し、炭火から少し離れた場所で回した。近づけすぎるとすぐ焦げるため、表面の色を見ながらゆっくり熱を通した。澪は大地の口元についた白いマシュマロを紙ナプキンで拭こうとしたが、竹内夫人の視線に気づき、途中で手を止めた。
「澪さんと大地さんは、本当に仲がいいのね。奥様の前でそこまでできるなんて、今どきの幼馴染は距離が近いのねえ」
竹内夫人は笑顔だったが、声にはわずかな硬さがあった。澪は慌てて、大地は兄のような存在だと説明した。夫人は自分の兄の口元を拭いたことなど、子供の頃にもないと笑った。
「妻としては、あまり気持ちのよいものではないでしょう。私なら、夫が幼馴染の女性とそんなふうにしていたら嫌だわ」
「ほら、さやかさん。竹内様も冗談でおっしゃっているだけです。大ちゃんとは、本当に何もないんですよ」
「私ではなく、大地に言ってください。私は何度も同じ話をしています」
さやかが答えると、大地は客の前で余計なことを言うなと声を低くした。竹内社長は肉を返すふりをして黙り、森田はクーラーボックスから飲み物を探し始めた。炭火の上ではスペアリブの脂が落ち、炎が一瞬高く上がった。
食後、澪はスイカを取り出した。大きな玉を包丁で切り分け、紙皿へ均等に配る手つきにも迷いはない。切った皮や種を捨てる袋まで先に用意し、子供連れの家族が近くへ来ると、包丁をすぐケースへ戻した。
「澪、包丁も普通に使えるじゃないか。前に、危ないから使えないと言ってたよな」
「仕事ですから。それに、お客様へ出すものなら失敗できないでしょう?」
「俺には、後ろから手を持って教えてと言っていたわね」
さやかが言うと、澪の手が止まった。包丁の先から赤いスイカの汁が一滴落ち、白いまな板へ丸い染みを作った。大地はまた冗談だったのだろうと言い、澪は小さく舌を出して笑った。
「大ちゃんに甘えるの、昔からの癖なんです。さやかさんは何でもできるから、甘える必要がなくてうらやましいです」
「できないのと、できるのに人へやらせるのは違います」
「さやか、今日は楽しみに来たんだろ。いちいち澪を試すようなことを言うなよ」
「私は楽しんでいるわ。今まで知らなかった澪さんの姿を、たくさん見られたから」
さやかは冷えたスイカを一口食べた。果汁が喉を通り、炭火の煙で乾いていた口の中が潤った。澪は何も答えず、切り分けたスイカを竹内夫妻へ運んだ。
午後三時を過ぎると、河原の風が少し涼しくなった。澪はごみを燃える物、缶、瓶に分け、余った食材を小さな容器へ詰めた。誰が何を持ち帰るかまで一覧表へ記入し、レンタルした炉の数も確認している。
「これだけの準備を一人でこなせるなら、夜中に隣の物音がしたときも、管理会社へ連絡できたのではないですか?」
さやかは二人きりになった隙に尋ねた。澪はごみ袋の口を縛りながら、幼い笑顔を消した。仕事用の落ち着いた顔で、さやかをまっすぐ見返した。
「仕事と夜の一人暮らしは違います。誰だって、甘えたいときくらいありますよね」
「甘える相手が、私の夫である必要はありません」
「大ちゃんが嫌だと言ったら、やめます。でも、大ちゃんは一度も嫌だと言いませんよ」
澪はそう言うと、ごみ袋を軽々と持ち上げた。返す言葉を待たずに大地のほうへ歩き、また明るい声で余った肉を持ち帰るか尋ねている。さやかはその背中を見ながら、澪の言葉が事実であることを認めた。
大地は一度も嫌だと言っていない。それどころか、澪の甘えを楽しみ、拒むさやかを冷たい妻として責めてきた。問題は澪の演技だけではなく、その演技へ喜んで付き合う夫にもあった。
帰り道、竹内夫妻を乗せたアルファードが先に出発した。澪は駅まで大地とさやかを送ると言ったが、二人は歩いて帰ることにした。夕方の川沿いには焼けた炭の匂いが残り、濡れた水着を着た子供たちがサンダルを鳴らして歩いていた。
「今日は楽しかったな。澪も仕事を頑張ってるんだな。見直したよ」
「私は、別の意味でよく分かったわ」
「何が?」
「澪さんは、説明書も読める。重い荷物も運べる。包丁も使える。火も起こせる。人数分の食材を計算し、お客様へ説明し、予定どおり行動できる人よ」
「仕事なんだから当然だろ。それがどうしたんだよ」
「あなたの前でだけ、何もできない子供になるのね」
大地は足を止め、さやかをにらんだ。手には澪から持たされた余り物の袋があり、中には牛肉、ウインナー、缶ビールが入っている。袋の底から溶けた氷の水が一滴ずつ落ち、乾いた歩道へ黒い点を作っていた。
「澪がお前と仲よくなろうとして、これだけ準備してくれたのに、まだ悪く言うのか?」
「お客様の前では、仕事のできる大人だった。大地と二人になると、棚も組み立てられず、包丁も使えず、夜中の物音にも対処できなくなる。その違いを言っているの」
「俺には弱いところを見せられるんだろ。信頼されてるってことじゃないか」
「それがうれしいのね」
「頼られて嫌な男はいないよ。お前には分からないだろうけど」
大地はまた歩き始めた。さやかは数歩遅れて、その背中を追った。河原から聞こえる水の音は、人の話し声や車の音に混ざり、駅へ近づくほど小さくなった。
自宅へ戻ると、朝食の皿が流し台に残っていた。トーストの粉が固まり、コーヒーカップの底には茶色い輪ができている。大地は疲れたと言ってソファへ横になり、持ち帰った食材を冷蔵庫へ入れることさえしなかった。
さやかは牛肉とウインナーを保存容器へ移し、缶ビールを冷蔵庫へ並べた。焼肉のたれが漏れた袋を洗うと、甘辛い匂いが手へ残った。片づけを終えてから寝室へ入り、引き出しから手帳を出した。
《七月二十七日、飯能河原。澪は保険会社の得意客を招き、参加人数の計算、器具と材料の準備、火起こし、調理、片づけまで行った。説明書と契約書を読める。包丁を使える。重い荷物を運べる。仕事中は落ち着いた大人の口調で話す。》
そこまで書き、さやかは一度ペンを止めた。帳面の端には、以前こぼしたコーヒーの薄い染みが残っている。ページを押さえる左手には、河原で日焼けした赤い跡が付いていた。
《澪は「大地が嫌だと言ったらやめる」と言った。大地は「頼られて嫌な男はいない」と答えた。》
さやかは最後の一文を書き、時刻を添えた。これまでは澪の行動を記録していたが、今日からは大地が自分の意思で選んだ言葉も、同じように残すことにした。手帳を閉じると、居間から大地の声が聞こえた。
「さやか、澪に今日のお礼を送っておいてくれよ。お前も楽しかったって書いてやれば、あいつも喜ぶから」
「私は自分の言葉を、自分で選ぶわ」
さやかはそう答え、手帳を引き出しの奥へしまった。澪は仕事のできる大人であり、大地もそれを知った。それでも二人が「何もできない妹」と「助けてやる兄」を続けるのなら、それはもう誤解ではなかった。




