第7話 大地の好きな食べ物は、なーに?
第7話 大地の好きな食べ物は、なーに?
日曜日の午前十一時、さやかは台所で玉ねぎをみじん切りにしていた。窓の外では蝉が鳴き、ベランダに干した白いシーツが強い日差しを受けて揺れている。さやかは薄い黄色の半袖ブラウスに紺色のロングスカートをはき、目にしみる玉ねぎのせいで何度もまばたきをした。昼食には冷蔵庫に残ったご飯を使い、ケチャップ味のオムライスを作るつもりだった。
大地は緑色のTシャツと黒い短パン姿でソファへ座り、扇風機の風を一人で浴びていた。テーブルには飲みかけの麦茶と、昨夜食べたポテトチップスの空袋が残っている。さやかが袋を捨てるよう頼むと、大地はあとでやると言いながら、スマートフォンの動画を見続けた。
「大地、卵は半熟と、しっかり焼くのと、どちらがいい?」
「半熟でいいよ。前にもそう言っただろ」
「先月は、おなかの調子が悪いからしっかり焼いてと言ったでしょう。今日は大丈夫なのか聞いているの」
「そんな昔のこと、いちいち覚えてないよ。普通でいい、普通で」
大地は顔を上げずに答えた。さやかは包丁で玉ねぎを刻みながら、夫の言う「普通」が半熟なのか、しっかり焼いたものなのか考えた。結婚して三年たっても、大地は自分の希望を曖昧に伝え、出来上がってから違うと言うことがあった。
そのとき、玄関の呼び鈴が鳴った。大地はスマートフォンの画面を確認すると、急に立ち上がった。誰が来たのか尋ねる前に、彼は扇風機をまたぎ、裸足のまま玄関へ向かった。
「大ちゃん、遊びに来たよ。今日はちゃんと前の日に連絡したから大丈夫だよね?」
澪の甘い声が廊下へ響いた。さやかは包丁を置き、手を洗ってから玄関へ向かった。昨夜、大地から澪が来るという話は一度も聞いていなかった。
澪は白いフリルブラウスに黒いジャンパースカートを重ね、胸元へ大きなピンクのリボンを付けていた。膝まである黒い靴下には小さな白いハートが並び、厚底靴のかかとには銀色のチェーンが揺れている。両手には、ピンク色の保冷バッグと、黒い紙袋を持っていた。
「前の日に誰へ連絡したんですか?」
「大ちゃんです。昨日の夜、遊びに行ってもいいか聞いたら、いいよって」
「大地。どうして私に言わなかったの?」
「言おうと思って忘れてたんだよ。昼に少し寄るだけだから、別にいいだろ」
大地は軽く答え、澪の荷物を受け取った。さやかは昨日の夜、大地と同じ食卓で夕食を取り、同じ居間で二時間も過ごしていた。その間に一言伝えることさえ忘れた人が、澪への返信だけは忘れなかったらしい。
「さやかさん、急に来たみたいになってごめんなさい。でも、今日はお昼を作ってきたから、さやかさんも休んでください」
澪はピンク色の保冷バッグを掲げ、得意そうに笑った。大地は料理ができないと言っていた澪が弁当を作ったことに驚き、すぐに居間へ招き入れた。さやかは台所へ戻り、刻んだ玉ねぎへラップをかけた。
「オムライスを作るところだったの。澪さんの料理は、夕食に回せるものですか?」
「えっ、オムライスだったんですか? 澪もオムライスを作ってきたんです。大ちゃん、昔から大好きだったでしょう?」
澪は保冷バッグから大きな弁当箱を取り出した。ふたを開けると、黄色い薄焼き卵で包んだオムライスが三つ並び、ケチャップでハートや笑顔が描かれている。一番大きなオムライスには、《大ちゃん♡》と赤い文字で書かれていた。
「すごいな。これ、本当に澪が作ったのか?」
「ひどい。澪だって、大ちゃんのためならお料理くらい頑張れるよ。昨日の夜から練習したんだから」
「俺の名前まで書いてある。子供の弁当みたいだな」
大地は口ではからかいながら、うれしそうに笑った。澪は頬を膨らませ、大地の腕を指先で軽くたたいた。さやかは食卓に残っていた菓子の袋と麦茶のコップを片づけ、三人分の箸を出した。
「私の分は、どれですか?」
「小さい二つのどちらでも。大ちゃんのだけは特別に大盛りです」
「三人分を作ったのなら、どうして私の名前はないの?」
「大ちゃんの好物を食べてもらう会だからです。さやかさんも一緒に、大ちゃんを喜ばせましょう」
澪は何の疑問もないように答えた。妻の家へ夫の好物を持ち込み、妻まで自分の催しへ参加させようとしている。さやかは一番小さなオムライスを自分の前へ置き、冷蔵庫から麦茶を出した。
食卓へ座ると、澪は黒い紙袋から数枚のカードを取り出した。ピンク色の厚紙をハート形に切り、黒いペンで質問が書かれている。大地が何かと尋ねると、澪は胸の前でカードを広げた。
「今日は、大ちゃんクイズをしまーす。さやかさんと澪、どっちが大ちゃんのことをよく知っているか勝負するの」
「何だよ、それ。くだらないな」
大地はそう言いながら、オムライスを食べる手を止めた。口元には笑みが浮かび、まんざらでもない様子でカードをのぞき込んでいる。澪は一枚目を高く掲げ、声を弾ませた。
「第一問。大地の好きな食べ物は、なーに?」
「オムライスだろ。今、目の前に出してるじゃないか」
「大ちゃんは答えちゃ駄目。さやかさんと澪が当てるの」
澪は人差し指を大地の唇の前へ立てた。大地は笑いながら口を閉じ、二人の回答を待った。さやかは自分の皿に載った薄い卵を箸で切り、固くなった端を一口食べた。
「今の大地が一番よく食べたがるのは、豚骨ラーメンね。ただし、健康診断で脂質を注意されたから、月に一度までにしています」
「違います。正解はオムライスです。大ちゃん、小学校の給食でオムライスが出る日は、朝から機嫌がよかったもん」
「小学生の頃の好物でしょう。今、一番好きなものを聞いたのではないの?」
さやかが大地を見ると、彼は迷うように首をかしげた。オムライスも好きだが、今ならラーメンかもしれないと言う。澪は納得できないらしく、頬を膨らませてカードの裏へ小さな印を付けた。
「でも、オムライスも好きでしょう?」
「好きだよ。だから、澪も正解でいいんじゃないか」
「やったあ。大ちゃん、優しい」
澪は自分に一点を付け、さやかには何も付けなかった。さやかは反論せず、オムライスの中身を確かめた。ケチャップライスには玉ねぎと鶏肉が入っていたが、米の一部が固まり、底には焦げた部分が混ざっていた。
「第二問。大ちゃんが苦手な食べ物は、なーに?」
「ピーマン。子供の頃、給食のピーマンを澪のお皿へ移して、先生に怒られたよね」
「今は食べられるわ。青椒肉絲もピーマンの肉詰めも食べるでしょう。苦手なのは生のトマトよ」
さやかは大地の皿の横に置かれたミニトマトを見た。澪は彩りとして二個添えていたが、大地は手をつけず、皿の端へよけている。大地は生のトマトは青臭いから苦手だと認めた。
「大ちゃん、ピーマンを食べられるようになったの?」
「ああ。さやかが細く切って炒めたら、普通に食べられたんだよ」
「知らなかった。澪の知ってる大ちゃんじゃなくなっちゃったみたい」
澪は口元を下げ、カードをテーブルへ置いた。大地はただ好みが変わっただけだと説明し、なぜか澪を慰めるように笑った。さやかはミニトマトを二個とも自分の皿へ移し、冷えた果肉を噛んだ。
「第三問。大ちゃんが一番好きな飲み物は、なーに?」
「メロンソーダ。ファミリーレストランへ行くと、いつも飲んでたよね」
「ブラックコーヒー。ただし、朝は胃が荒れるからミルクを少し入れます」
「昔はコーヒーなんて苦いって言ってたのに。大ちゃん、本当に大人になっちゃったんだね」
「三十歳なんだから、大人で当然でしょう」
さやかが言うと、澪は聞こえなかったふりをして大地へ顔を向けた。大地はメロンソーダも今でも好きだと言い、また二人とも正解にした。澪が昔の好みを答えるたび、大地は現在の自分に合っていなくても得点を与えた。
「第四問。大ちゃんが疲れた日に食べたいものは、なーに?」
「カレーライス。大ちゃん、カレーなら三杯食べてたでしょう?」
「最近は、うどんね。残業で遅くなった日は、油の多い料理だと胃が重くなると言うから」
「大ちゃん、カレーが食べられなくなったの?」
「食べられなくはないよ。でも、夜遅いときはうどんのほうが楽かな」
「そうなんだ。さやかさんは、大ちゃんをおじさんみたいに扱うんですね」
澪はくすりと笑った。大地もつられて笑い、自分はまだ三十歳だと胸を張った。さやかは毎晩の帰宅時間や翌日の体調を考えて献立を決めてきたが、それは愛情ではなく、夫を老けさせる行為として二人の笑い話にされた。
「私は大地の胃の状態に合わせているだけよ。遅い時間にカレーを食べて、翌朝に胃が痛いと言うのは大地でしょう」
「澪は、カレーを食べたあとに胃薬まで用意してあげるよ」
「最初から胃に負担の少ない物を出せば、薬はいらないでしょう」
「それだと、大ちゃんの好きな物を我慢させることになりますよね。大ちゃん、かわいそう」
澪は本気で同情するように大地を見た。大地はさやかの作るうどんも好きだと答えたが、澪には「何でも食べたい物を作ってあげる」と言われ、うれしそうに目を細めた。さやかは麦茶を飲み、口に残ったケチャップの甘さを流した。
「次は食べ物じゃないよ。第五問。大ちゃんが家で一番落ち着く場所は、どーこだ?」
「自分の部屋。子供の頃、秘密基地みたいにしてたよね」
「今の家なら、居間のソファでしょう。帰宅すると、着替える前に座るから」
「正解は?」
澪が大地へ尋ねると、彼は少し考えた。今は居間のソファだと答えながらも、実家の自分の部屋も落ち着いたと付け加える。澪はまた両方を正解にし、自分の得点だけを増やした。
「さやかさんって、今の大ちゃんのことしか知らないんですね」
「妻なので、今の大地を知っていれば十分です」
「でも、子供の頃の大ちゃんも、学生の頃の大ちゃんも、全部つながって今の大ちゃんになってるんですよ。澪は全部知ってます」
「全部を知っているなら、好物が変わったことも、苦手な物を食べられるようになったことも知っているはずでしょう」
澪は口を閉じ、カードの角を指で折った。ピンク色の厚紙に白い筋が入り、ハートの形が少し崩れた。大地は場の空気を変えようと、オムライスを大きく一口食べた。
「でも、このオムライスはうまいよ。澪、料理ができるようになったんだな」
「本当? 昨日、動画を何回も見て練習したの。大ちゃんに食べてもらいたくて頑張ったんだよ」
「少し米が固いけど、初めてなら十分だよ」
大地は褒めたが、皿の端には焦げたケチャップライスが残っていた。さやかが毎日作る料理には、味が濃い、野菜が多い、同じ魚が続いたと細かな感想を言うのに、澪の料理なら米が固くても笑って食べている。さやかはその違いを手帳へ書かなくても覚えられると思った。
「最後の問題です。大ちゃんが結婚する前、一番大切にしていた女の子は誰でしょう?」
澪がカードを掲げると、部屋の空気が止まったようになった。大地は笑いながら、そんな問題を妻の前で出すなと注意した。けれど澪はカードを下ろさず、赤い涙袋を強調した目で大地を見つめた。
「子供の頃の話だよ。大ちゃん、澪を守るって約束してくれたでしょう?」
「幼稚園の頃だろ。男の子が女の子を守るって言うのは、よくある話だよ」
「澪には大切な約束だったの。大ちゃんのお嫁さんになるって、本気で信じてたんだから」
「その話は、私たちの家で何度もする必要がありますか?」
さやかが尋ねると、澪はカードを胸へ抱えた。大地は昔の思い出を話しているだけだと澪をかばい、さやかが勝負に負けそうだから怒っているのだと笑った。その言葉を聞き、さやかは箸を皿の上へそろえて置いた。
「勝負なら、何点対何点なの?」
「えっと、澪が五点で、さやかさんが四点かな」
「大地の今の好みを答えた私が四点で、昔の好みを答えた澪さんが五点なのね」
「細かいことはいいじゃないですか。遊びなんだから」
「遊びなら、なぜ最後に、大地が一番大切にしていた女の子を聞いたの?」
澪は答えず、大地へ助けを求める視線を送った。大地はさやかに冗談を真に受けるなと言い、食卓に残ったカードを集め始めた。ハート形のカードには、さやかの名前は一度も書かれていなかった。
「さやか、せっかく澪が料理までしてきたんだ。もう少し楽しくできないのか?」
「私は、夫の幼馴染から『誰が夫をよく知っているか』という勝負を持ちかけられたのよ。それを楽しめと言うの?」
「澪は昔からクイズが好きだったんだよ。深い意味なんてない」
「深い意味がないなら、最後の問題の答えを言って。結婚前に一番大切だった女性は誰?」
大地はすぐに答えられなかった。澪が期待するように見つめ、さやかも黙って待っている。扇風機の風が食卓の紙ナプキンを揺らし、台所では刻んだ玉ねぎの匂いが少しずつ薄くなっていた。
「結婚前なら、母親じゃないか? 家族なんだから」
「大ちゃん、ずるい。そういう答えじゃないでしょう」
「じゃあ、澪なの? 私なの?」
さやかが尋ねると、大地はため息をついた。昔と今を比べることに意味はないと答え、澪にもくだらない質問をするなと言った。澪は注意されたことより、自分の名前を答えてもらえなかったことが気に入らないらしく、唇を尖らせた。
「もう帰ります。澪が来ると、さやかさんが怒るから」
「怒っていません。あなたが夫婦の間へ勝負を持ち込むことを拒んでいるだけです」
「大ちゃん、残ったオムライスは夕食に食べてね。澪のことを思い出してくれたらうれしいな」
澪はさやかの言葉には返事をせず、大地へ弁当箱を押しつけた。ふたを閉める前に、ケチャップで書かれた《大ちゃん♡》の文字がもう一度見えた。大地は困った顔をしながらも、夕食に食べると約束した。
澪が帰ったあと、食卓には三人分の汚れた皿が残った。大地はソファへ戻り、澪を怒らせたかもしれないとスマートフォンを見ている。さやかは皿を重ね、食べ残された焦げたケチャップライスを生ごみの袋へ入れた。
「大地。私のオムライスと、澪さんのオムライスは、どちらがおいしかった?」
「何だよ、お前まで勝負するのか? どっちもうまいでいいだろ」
「味を聞いただけよ。私は毎日の食事を作るために、あなたの好みを聞いてきた。たまには感想を知りたいと思ったの」
「お前のは食べ慣れてるから安心するよ。澪のは、頑張った感じがして新鮮だった」
大地は、うまく答えたつもりで笑った。「食べ慣れている」と「新鮮」という二つの言葉は、さやかを日常へ置き、澪を心が動く場所へ置いていた。さやかは水道の蛇口をひねり、皿についたケチャップを冷たい水で流した。
夕方、さやかは刻んだ玉ねぎを使って、自分の分だけオムライスを作った。鶏肉とご飯をバターで炒め、半熟の卵を載せ、ケチャップは文字ではなく細い線にした。大地には澪が残したオムライスを電子レンジで温め、食卓へ並べた。
「俺のはそっちだけ? お前が作ったのも少し食べたいんだけど」
「澪さんのことを思い出しながら食べると約束したでしょう。約束を守ったら?」
「嫌みだな。二つくらい温めてくれてもいいじゃないか」
「私は私が食べる分を作ったの。あなたの分は、澪さんが用意してくれたでしょう」
大地は不満そうに弁当箱を開けた。電子レンジで温め直した薄焼き卵は固くなり、ケチャップの文字はふたへ付いて半分消えていた。さやかの皿からはバターと卵の匂いが立ち、半熟の黄身がケチャップライスへゆっくり流れた。
「やっぱり、こっちのほうがうまそうだな。一口くれよ」
「駄目よ。これは私の夕食だから」
「夫婦なのに、食べ物くらい分けてくれてもいいだろ」
「夫婦だから、毎日の食事を作ってもらえて当然だと思わないで」
さやかは自分のオムライスを一口食べた。卵は半熟で、バターの香りとケチャップの酸味がちょうどよかった。向かい側で大地が固い卵を箸で切る音を聞きながら、さやかは今日の出来事も手帳へ書いておこうと決めた。
食後、大地は澪へ《オムライス、夕食にも食べたよ》と送った。さやかは洗った自分の皿だけを布巾で拭き、食器棚へ戻した。流し台には大地が食べた弁当箱が残っていたが、それは澪が次に来たとき、自分で洗って持ち帰ってもらえばいいと思った。




