第4話 この前買った棚、どうしても組み立てられないの
第4話 この前買った棚、どうしても組み立てられないの
火曜日の夕方、さやかが仕事から帰ると、玄関に大地の革靴が置かれていた。普段なら大地の帰宅は七時を過ぎるため、黒いパンプスを脱ぎながら、体調でも悪いのかと居間をのぞいた。白いブラウスに紺色のタイトスカートを着たさやかの肩には、朝から持ち歩いた革の鞄が食い込んでいた。台所には今朝洗い忘れた味噌汁の鍋が残り、乾いたワカメが縁へ貼りついている。
「大地、今日は早かったのね。具合でも悪いの?」
「いや、外回りが早く終わったから直帰したんだ。ちょうどよかった。今から少し出かけてくる」
大地は居間の床に座り、押し入れから出した工具箱の中身を確認していた。白いワイシャツの袖を肘までまくり、電動ドライバーの充電器をコンセントへ差している。工具箱には結婚してから一度も使っていない六角レンチや水平器が入り、底には購入時のレシートまで残っていた。
「どこへ行くの? 夕食の買い物なら、私も着替えてから一緒に行くわ」
「買い物じゃないよ。澪のところだ。この前買った棚が届いたんだけど、どうしても組み立てられないらしい」
さやかは鞄を食卓の椅子へ置き、台所に残った鍋へ水を張った。蛇口から出る水が乾いたワカメへ当たり、茶色く濁りながら鍋底へたまっていく。休日のホームセンターで、配送を頼めば済むと話したはずなのに、その棚が平日の夕方まで夫婦の生活へ入り込んできた。
「組み立てサービスは申し込まなかったの?」
「料金がかかるから断ったんだって。説明書を読んでも分からなくて、三時間も床に座ってるらしい」
「だから、既婚者のあなたを自分の部屋へ呼ぶの?」
「棚を組み立てるだけだよ。変な言い方をするな」
大地は電動ドライバーを持ち上げ、引き金を押した。短い作動音が居間へ響き、テーブルの上に置かれた郵便物が風で一枚めくれた。さやかは夫が澪のためなら、使ったことのない道具まで楽しそうに準備する姿を黙って見た。
「何時に頼まれたの?」
「昼休みにメッセージが来たんだ。最初は自分でやってみると言ってたけど、さっき電話がかかってきた」
「昼に分かっていたなら、どうして私へ連絡しなかったの?」
「仕事中のお前に、棚の話なんて送る必要ないだろ」
大地は工具箱のふたを閉め、留め金を鳴らした。さやかが知らないところで澪と話が進み、夫の帰宅時間まで決められていた。大地にとって、妻へ相談することだけが不要な手順になっているらしかった。
「前にも言ったわよね。澪さんと二人きりで会うのはやめてほしいと」
「聞いてないよ。家へ突然来るなとは言ってたけど、二人で会うなとまでは言われてない」
「言葉の隙間を探さないで。夫婦の境界を守ってほしいという話をしたでしょう」
「棚一つで境界だの何だの、大げさなんだよ。困っている幼馴染を助けるだけじゃないか」
大地は立ち上がると、寝室のクローゼットから灰色のパーカーを出した。ワイシャツの上に着ると袖口が窮屈らしく、何度も引っ張っている。さやかが去年の誕生日に贈ったパーカーだったが、夫婦で出かけるときにはほとんど着なかった。
そのとき、食卓に置かれた大地のスマートフォンが震えた。画面には、黒いウサギが泣いている画像と一緒に、澪からのメッセージが表示されていた。大地が手を伸ばすより先に、通知の文章がさやかの目へ入った。
《大ちゃん、まだかな。澪、おなかもすいたし、もう泣きそう》
「大人が棚を組み立てられないだけで、どうして泣くの?」
「澪は機械とか組み立てが苦手なんだよ。お前にだって、苦手なことくらいあるだろ」
「あるわ。でも、既婚者を夕方に自分の部屋へ呼ぶ前に、説明書を読み直すか、店へ相談するわ」
さやかが言うと、大地はスマートフォンを裏返した。通知を見られたことが気に入らないのか、口元を固くして工具箱を持ち上げる。さやかは腕時計を外し、食卓の端へ静かに置いた。
「分かったわ。私も行く」
「は?」
「夫婦で棚を組み立てに行けば、何も問題はないでしょう。私も組み立て家具には慣れているから、早く終わるわ」
大地は工具箱を持ったまま動きを止めた。助ける人が二人になれば澪も喜ぶはずなのに、その提案を聞いた夫の顔には困惑が浮かんでいた。さやかはその反応を見て、棚を完成させることだけが目的ではないのだと改めて考えた。
「お前、仕事から帰ったばかりだろ。疲れてるんだから、家にいればいいよ」
「棚を組み立てるくらいなら平気よ。夕食もまだ作っていないし、帰りに三人で何か食べればいいでしょう」
「澪がお前に気を使うだろ」
「人の夫を自宅へ呼ぶときには気を使わないのに、私が同行すると気を使うのね」
大地は何か言い返そうとしたが、言葉が出てこなかった。さやかは寝室へ入り、窮屈なスカートを脱いで、薄いベージュのパンツと黒いカーディガンへ着替えた。化粧を直す代わりに髪を一つに結び、古いタオルを二枚、手提げ袋へ入れた。
澪のマンションまでは車で十五分ほどだった。日が落ちた道路には帰宅する車が並び、テールランプの赤い光が雨上がりの路面に伸びている。車内には大地が朝飲んだ缶コーヒーの甘い匂いが残り、ドリンクホルダーには丸めたレシートと飴の包み紙が詰まっていた。
「澪さんに、私も行くと連絡した?」
「まだだよ。運転中なんだから送れないだろ」
「出発する前に時間はあったわ」
「そんなに監視したいのか? 棚を組み立てるところまで見張らないと、俺を信用できないの?」
大地は前を向いたまま、ハンドルを握る指へ力を入れた。さやかは窓の外に並ぶコンビニやクリーニング店の看板を眺め、すぐには答えなかった。信頼は何をしても疑わないことではなく、疑わせる行動を互いに避けることだと伝えても、今の大地には届かない気がした。
「私が同行すると都合が悪いのなら、信用の問題ではないでしょう」
「都合が悪いなんて言ってない。ただ、お前が澪にきつく当たらないか心配なんだよ」
「どうして妻より、夫を自宅へ呼んだ女性の気持ちを先に心配するの?」
大地は答えず、前の車が動いた途端、強くアクセルを踏んだ。さやかの体がシートへ押しつけられ、鞄の中で鍵がぶつかる音がした。カーラジオでは明日の天気予報が流れ、朝から気温が上がると伝えていた。
澪の住むマンションは、駅から少し離れた五階建ての建物だった。共用廊下には湿ったコンクリートの匂いが残り、隣の部屋の前には子供用の黄色い傘が干してある。大地が五〇三号室の呼び鈴を押すと、すぐに扉が開いた。
「大ちゃん、待ってた――」
澪は大地だけを見て笑ったが、その後ろに立つさやかを見つけると、口元を止めた。今日は黒いレースが付いたピンク色のルームワンピースを着て、素足には黒いリボンの付いた室内履きをはいている。髪は緩く二つに結び、化粧をしているのに寝起きのような幼い表情を作っていた。
「さやかさんも来たんですね。お仕事で疲れているのに、無理しなくてよかったのに」
「二人でやったほうが早いでしょう。お邪魔します」
「大ちゃんだけで十分だと思うけど……。でも、来ちゃったなら仕方ないですね」
澪は小さく笑い、二人分のスリッパを出した。大地の前には青い男性用、さやかの前には底が薄くなった白い来客用が置かれた。青いスリッパは新品には見えず、つま先の布が大地の足の形に広がっているように見えた。
「このスリッパ、大地が使ったことがあるの?」
「前に一度だけ、電球を替えてもらったんです。大ちゃん、背が高いから助かりました」
「それはいつの話?」
「結婚する前だよ。いちいち取り調べみたいに聞くな」
大地は青いスリッパを当然のようにはいた。さやかは白いスリッパへ足を入れ、澪のあとに続いた。室内にはイチゴのような甘い芳香剤の匂いが漂い、その奥から揚げ物の油の匂いがした。
居間には黒いカーテンが掛かり、ピンク色のクッションやぬいぐるみがソファを埋めていた。壁には銀色の十字架や造花のバラが飾られ、小さなテーブルには食べかけのコンビニ弁当が置かれている。唐揚げは一つだけ残り、白いご飯の上にはふたから落ちた水滴がたまっていた。
「お昼から何も食べてないの?」
「棚と格闘していたら、お弁当を食べる時間もなくなっちゃったんです。でも、一人だと何を食べてもおいしくなくて」
「唐揚げが一個残っているだけじゃない。ほとんど食べているでしょう」
「さやか、そこまで言わなくていいだろ」
大地は澪をかばいながら、居間の中央に置かれた段ボール箱へ近づいた。箱はすでに開封され、棚板とねじの袋が床へ並べられている。説明書には折り目も汚れもなく、開かれた形跡がほとんどなかった。
「どこまで組み立てたんだ?」
「最初から分からなくなっちゃったの。板が全部同じに見えるし、ねじもいっぱいあるんだもん」
「説明書の一番上に、板の番号が書いてあるわ。側面にも同じ番号のシールが貼ってありますよ」
さやかが一枚を持ち上げると、裏側に大きく「A」と書かれた白いシールがあった。ねじも種類ごとに袋が分けられ、説明書には実物大の絵まで印刷されている。三時間も格闘したという割に、ねじの袋は一つも開いていなかった。
「本当に組み立てようとしたの?」
「しました。でも、説明書って難しい言葉ばかりで、澪には読めなくて」
「『Aの板とBの板を、ねじ一番で留めます』と書いてあるだけですよ」
「人には得意不得意があるでしょう。さやかさんみたいに、何でも一人でできる人には分からないと思います」
澪は膝を抱えて床へ座り、大地を見上げた。黒いレースの裾が太ももの上までずれたため、さやかは視線を外した。大地は慌てて工具箱を開き、電動ドライバーを取り出した。
「もういいよ。俺がやるから、澪は少し休んでろ」
「大ちゃん、優しい。澪、大ちゃんが来てくれなかったら、今夜も床で寝るところだった」
「棚がなくても、ベッドでは眠れるでしょう」
「さやか、揚げ足を取るのはやめろよ」
大地は説明書を広げ、AとBの板を並べた。さやかは床を傷つけないよう、持参した古いタオルを板の下へ敷いた。澪は手伝わずにソファへ座り、スマートフォンを操作しながら、大地の横顔を何度も撮影していた。
「写真を撮っているの?」
「大ちゃんが棚を作ってくれてる記念です。作業してる男の人って、格好いいですよね」
「澪、変な写真を撮るなよ。俺、仕事帰りで髪もぼさぼさだろ」
「そこがいいの。澪のために急いで来てくれたって分かるから」
大地は口では困ったと言いながら、カメラを向けられると背筋を伸ばした。さやかが棚板を支えても礼を言わず、澪が一度「すごい」と言うたびに作業の手を止めて説明した。電動ドライバーの音と澪の笑い声が交互に響き、床のコンビニ弁当から冷えた油の匂いが漂っていた。
作業を始めて二十分ほどで、棚は半分まで組み上がった。大地が背板を取りつけようとすると、澪は冷蔵庫から缶ビールを一本出してきた。冷蔵庫の扉には、黒いリボンを付けた猫のマグネットと、宅配ピザの広告が貼られている。
「大ちゃん、喉が渇いたでしょう。ビール、冷やしておいたよ」
「車で来たんだから飲めないよ」
「そうだった。じゃあ、今日は泊まっていく?」
澪は冗談を言ったように笑い、缶ビールを自分の頬へ当てた。大地もつられて笑ったが、さやかは背板を支えたまま二人を見た。夫婦の前で既婚者へ泊まりを勧められる人間を、大地はまだ妹と呼ぶつもりなのだろうか。
「大地は泊まりません。棚が完成したら、二人で帰ります」
「分かってます。冗談ですよ。さやかさんって、本当に冗談が通じないんですね」
「誰も笑えない言葉は、冗談とは言いません」
「大ちゃんは笑ってくれましたよ」
澪は缶ビールを冷蔵庫へ戻し、代わりに小さな皿を持ってきた。皿にはハート形のクッキーが五枚載り、ピンク色の砂糖がまぶされている。彼女は一枚を取り、大地の口元へ差し出した。
「大ちゃん、あーん。手が汚れてるでしょう?」
「子供じゃないんだから、やめろよ」
「両手がふさがってるもん。早く食べないと、澪が食べちゃうよ」
大地は断りながらも口を開け、澪の持つクッキーをかじった。澪の指先が大地の唇へ触れ、彼はまた耳を赤くした。さやかが支えていた背板が少し傾き、大地は危ないと声を上げた。
「ちゃんと持っててくれよ。ずれたらねじ穴が合わなくなるだろ」
「両手を使って棚を支えている人より、クッキーを食べさせている人を注意したら?」
「澪は気を使って持ってきてくれただけだ。何でも悪く取るなよ」
「大ちゃん、もう食べさせないから怒らないで。澪が余計なことをしたせいで、また二人がけんかしちゃった」
澪は皿を胸へ抱え、肩を小さく丸めた。謝っているはずなのに、大地の視線は澪へ向き、責められたのはさやかのほうだった。さやかは背板から手を離さず、ねじが締め終わるまで黙って支え続けた。
棚が完成したのは午後八時を過ぎた頃だった。黒い棚を壁際へ置くと、澪は香水瓶やぬいぐるみを楽しそうに並べ始めた。大地は汗をかき、灰色のパーカーを脱いでワイシャツ一枚になっていた。
「大ちゃん、本当にありがとう。見違えるくらいかわいくなった。大ちゃんが作ってくれたと思うと、一生大切にできそう」
「作ったというほどじゃないよ。組み立てただけだ」
「さやかさんも、板を持ってくれてありがとうございました」
澪は付け足すように礼を言った。床には段ボールの切れ端、ねじの空袋、食べ終えたクッキーの皿が散らばっている。澪は完成した棚の写真を撮ることには熱心だったが、ごみを片づける様子はなかった。
「段ボールをまとめてから帰るわ。大地、ひもを取って」
「そこまでしなくていいだろ。澪があとでやるよ」
「そうだよ。澪、自分でできます。棚は無理だったけど、段ボールくらいなら大丈夫です」
澪は笑いながら言ったが、まとめるためのひもがどこにあるかは分からないらしかった。さやかは台所の引き出しからビニールひもを見つけ、段ボールを重ねて縛った。大地は手伝わず、澪と並んで完成した棚を眺めていた。
「この棚、もう少し右のほうがいいかな?」
「コンセントをふさぐから、今の位置がいいよ」
「さすが大ちゃん。澪のお部屋のことまで分かってる」
聞き覚えのある「さすが」が部屋へ響いた。大地はうれしそうに笑い、さやかはひもの結び目を強く締めた。指先へ食い込んだ細いひもが白くなり、爪の横へ赤い線を残した。
帰り際、澪は玄関で大地のパーカーを両手に持っていた。大地が居間に置き忘れていたものを、わざわざ胸元へ抱いて運んできたらしい。柔らかな灰色の布へ、澪の甘い香水の匂いが移っていた。
「大ちゃん、また困ったことがあったらお願いしてもいい?」
「まずは自分でやってみろよ。今日だって、説明書を読めばできただろ」
「でも、大ちゃんに来てもらうほうが楽しいんだもん」
澪は大地へパーカーを渡すとき、袖口をしばらく離さなかった。さやかが見ていることに気づき、ようやく指を放して笑った。玄関の棚には男性用の青いスリッパが残され、澪はそれを片づけず、また使うのを待っているようにそろえ直した。
帰りの車内で、大地は上機嫌だった。自分が組み立てた棚が思ったより丈夫にできたと話し、電動ドライバーを買っておいてよかったと何度も言った。さやかは助手席の窓を少し開け、パーカーに染みついたイチゴの香水を外へ逃がした。
「澪さん、組み立てようとした形跡がなかったわね。ねじの袋すら開いていなかった」
「最初に説明書を見て分からなかったんだろ。苦手な人に無理を言うなよ」
「組み立てが目的ではなく、あなたを部屋へ呼ぶのが目的だったとは考えないの?」
「またそれか。お前も一緒に来たんだから、何もなかっただろ」
大地は赤信号で車を止め、パーカーの袖へ鼻を近づけた。香水の匂いに気づいたのか、少し照れたように助手席から見えない側へ服を置いた。その動きを見たさやかは、黙って窓をもう少し開けた。
「私が一緒に行かなければ、澪さんはあなたにクッキーを食べさせ、泊まっていけばと言った。それでも妹みたいなものなの?」
「冗談に決まってるだろ。俺が本当に泊まると思ってるのか?」
「あなたが泊まるかどうかではなく、そういう言葉を許して笑ったことを聞いているの」
「棚を作って疲れてるんだ。帰ってまで責めるなよ」
大地はカーラジオの音量を上げた。軽快な音楽が流れ、道路沿いのラーメン店から濃い豚骨の匂いが窓越しに入ってきた。夕食を食べていなかったさやかのおなかが小さく鳴ったが、大地には聞こえなかったらしい。
自宅へ戻ると、午後に水へ浸した味噌汁の鍋が流し台に残っていた。さやかは冷蔵庫からご飯を出し、梅干しと鰹節を載せて、熱いほうじ茶をかけた。大地はカップ麺へ湯を注ぎ、三分を待つ間にも澪から届いた棚の写真を眺めていた。
「見ろよ。香水瓶を並べたら、かなりいい感じになったってさ」
「その棚を組み立てるために、私は仕事帰りに夕食も取らず、段ボールまで片づけたのよ」
「嫌なら来なければよかっただろ。俺一人で十分だったんだから」
大地は平然と言い、カップ麺のふたをはがした。醤油と油の濃い匂いが食卓へ広がり、さやかのほうじ茶の香りを消した。さやかは湯漬けのご飯を一口食べ、酸っぱい梅干しの種を皿の端へ置いた。
「そうね。私は必要なかったのね」
「そういう意味じゃないよ。何でいちいち面倒な言い方をするんだ」
大地は麺をすすりながら、またスマートフォンへ目を落とした。画面には、完成した棚の横で黒いリボンを持ち、大地の灰色のパーカーを羽織った澪の写真が映っていた。さやかは向かい側へ置かれたパーカーのない椅子を見たあと、何も言わずに自分の茶碗だけを流し台へ運んだ。




