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第3話 妹みたいなものだから

第3話 妹みたいなものだから


 次の土曜日、さやかは朝から寝室のカーテンを洗っていた。淡い黄色の布が洗濯機の中で回り、柔軟剤の石けんに似た匂いが脱衣所まで流れている。天気予報では午後から曇ると言っていたため、午前中に干してしまおうと思い、白い半袖のTシャツに古いジーンズをはいて家中の窓を開けた。大地は紺色のジャージ姿でソファに寝転び、テレビで旅番組を見ながら、昨夜買った柿の種をつまんでいた。


「大地、カーテンを干すのを手伝って。ぬれているから、一人だと床に引きずりそうなの」


「今、いいところなんだよ。CMになったらやる」


 大地は画面から目を離さずに答えた。旅番組では温泉旅館の朝食が紹介され、焼き鮭や湯豆腐が並ぶたび、大地は「うまそうだな」とつぶやいた。さやかは返事を待っている間に窓枠のほこりが気になり、雑巾で拭き始めたが、番組がCMへ入っても大地は動かなかった。


「CMになったわよ」


「あとでやるって。そんなに急がなくても乾くだろ」


 さやかは大地を呼ぶのをやめ、ぬれたカーテンを両腕へ抱えた。布の端が廊下へ落ち、洗ったばかりなのに床の細かなごみが付いたため、もう一度そこだけ水ですすいだ。ベランダへ運び終えたとき、玄関の呼び鈴が鳴った。


「大地、今度こそ出て。私は手がぬれているから」


 さやかがベランダから声をかけると、大地はようやくソファを離れた。玄関の扉が開いた直後、聞き覚えのある甘い声が響いた。さやかはカーテンを物干し竿へ掛ける手を止め、廊下へ目を向けた。


「大ちゃん、遊びに来たよ。ちゃんと来る前にメッセージしたから、今日は怒られないよね?」


「メッセージって、今送ったのか? まだ見てないよ」


 澪は悪びれずに笑い、黒いスマートフォンを大地の顔の前で振った。今日はピンク色のフリルブラウスに、胸元を黒いリボンで編み上げたジャンパースカートを重ねている。黒いレースの靴下には小さなハートが並び、厚底靴の金具が玄関の照明を受けて銀色に光った。


「送ってから来たんだから、連絡したことになるでしょう? はい、お土産。駅前でシュークリームを買ってきたの」


 澪は白い紙箱を大地へ押しつけると、返事を待たずに靴を脱いだ。玄関マットには洗濯物から落ちた糸くずが一つ付いており、澪は黒い靴下の裏へ付いたそれを指でつまんで床へ落とした。さやかが拾おうと近づくと、甘いバニラの香水と、シュークリームの香ばしい匂いが混じって鼻に届いた。


「澪さん。家を出てからメッセージを送るのでは、事前の連絡とは言えないでしょう」


「ごめんなさい。澪、近くまで来てから急に会いたくなっちゃったんです。迷惑なら、すぐ帰ります」


 澪は帰ると言いながら、脱いだ厚底靴をきちんとそろえ、紙袋から小さな化粧ポーチまで取り出した。大地はその矛盾に気づかず、せっかく来たのだから上がればいいと澪を招いた。さやかが先週の約束を思い出させようとすると、大地は声を潜めた。


「追い返したら、感じが悪いだろ。今日は連絡だってしてきたんだから、いいじゃないか」


「あなたが私に相談しなければ、約束した意味がないでしょう」


「相談しても、どうせ嫌だって言うだろ。シュークリームを食べたら帰ってもらうよ」


 大地はそれで話を終えたつもりらしく、澪を居間へ案内した。さやかはベランダへ戻り、途中になっていたカーテンを干した。ぬれた布が風にあおられて頬へ貼りつき、石けんの匂いの奥に冷たい水の匂いが残っていた。


 居間へ戻ると、澪はすでに冷蔵庫を開けていた。扉のポケットに入っていた麦茶のボトルを取り出し、賞味期限を確認するように顔の高さまで上げている。冷蔵庫には夕食用の鶏肉、半分に切ったキャベツ、朝食で残ったポテトサラダが入り、奥にはさやかが自分への小さな楽しみに買ったプリンが一つ置いてあった。


「何をしているんですか」


「シュークリームを冷やしておこうと思って。大ちゃん、冷たいほうが好きだったよね?」


「そうそう。よく覚えてるな」


 大地は澪を止めるどころか、冷蔵庫の上段を空けるため、麦茶のボトルを横へ移した。澪はシュークリームの箱を入れたあとも扉を閉めず、中にある物を一つずつ眺めていた。やがて奥のプリンを見つけ、うれしそうに取り出した。


「これ、かわいい。瓶に入ってるプリンだ。食べてもいい?」


「それは私が買ったものです。日曜日に食べようと思っていたので、戻してください」


「ごめんなさい。大ちゃんの家だから、大ちゃんが買ったのかと思ったんです」


 澪は謝りながらプリンを戻したが、冷蔵庫の扉を閉める前に大地を見た。大地は少し迷ったあと、また買えばいいのだから澪にあげればいいと言った。さやかは大地の財布ではなく、自分の昼食代を節約して買ったことを説明しようとしたが、澪が先に首を振った。


「駄目だよ、大ちゃん。さやかさんが大切にしていたプリンなんだから、澪が食べたら嫌われちゃう。澪はシュークリームだけで十分です」


「プリン一個で嫌うわけないだろ。子供みたいだな」


 大地は笑い、澪の頭を軽くたたいた。澪は大切に扱われていることを確かめるように目を細め、さやかのプリンをもう一度見てから冷蔵庫を閉めた。食べなかったことで遠慮深く見せながら、大地に「妻より澪へあげたい」と言わせる目的は果たしたようだった。


「コーヒー、飲むか?」


「うん。澪、青いマグカップがいいな。あれで飲むと、大ちゃんの家に来たって感じがするの」


 澪は食器棚へ向かい、奥へしまってあった青いマグカップを探し始めた。手前に並べた来客用のカップには触れず、皿を少しずつ動かして棚の奥をのぞき込んでいる。さやかは背後から近づき、食器棚の扉を静かに閉めた。


「前にも言いましたが、それは大地が毎朝使うものです。来客用のカップを使ってください」


「でも、前は使わせてくれましたよね?」


「あのときは、あなたが勝手に出したのよ」


「カップくらい、何でもいいだろ。澪、使っていいよ」


 大地はさやかが閉めた扉を再び開け、青いマグカップを取り出した。澪は両手で受け取ると、胸の前へ抱えて大地を見上げた。三年間、さやかが毎朝コーヒーを注いできたカップが、二人の間で贈り物のように受け渡された。


「大ちゃん、ありがとう。やっぱり優しいね」


「大げさだな。カップを貸しただけだよ」


 大地は照れたように鼻の下を指でこすった。さやかは湯を沸かし、三人分のコーヒーを用意したが、自分のカップには砂糖を入れなかった。いつもと同じ豆なのに苦みが強く、舌の奥に焦げたような味が残った。


 澪はソファへ座ると、青いマグカップを両手で包み、壁に飾られた結婚写真へ目を向けた。写真の中で、さやかは白いドレスを着て、大地は銀色のネクタイを締めている。結婚式当日は強い風が吹き、屋外で撮影したとき、さやかのベールが大地の顔へかぶさって二人で笑った。


「この写真、大ちゃんが別人みたい。髪もきちんとしてるし、格好いいね」


「別人はひどいな。今だって、それほど変わってないだろ」


「今は今で好きだよ。澪はジャージの大ちゃんも落ち着くから」


 澪はそう言いながら、大地の肩へ体を寄せた。昨日まで注意されたことを忘れたかのように、ピンク色の袖を大地の紺色のジャージへ重ねている。二人の背後には夫婦の結婚写真があり、写真の中のさやかだけが、正面からその様子を見ていた。


「澪さん、大地から離れて座ってください」


「ただ写真を見ていただけです。触ってもいないのに、駄目なんですか?」


 澪は体を離さず、困ったように首を傾げた。大地も座る場所が狭いのだから仕方ないと言ったが、三人掛けのソファには反対側が大きく空いていた。さやかが無言で空席を示すと、澪はようやく少しだけ横へ移動した。


「さやかさんって、大ちゃんのことが本当に好きなんですね。誰かに取られないか、心配なんですか?」


「夫婦の家で守るべき距離の話をしています。誰かに取られるという話ではありません」


「澪は大ちゃんを取ったりしません。家族みたいなものだから、男の人として見たことなんてないです」


 澪は言葉とは反対に、大地の横顔を見つめた。赤い涙袋を強調した目がゆっくり細まり、唇の中央に塗られたピンク色の口紅が笑みの形に持ち上がった。大地はその視線を受けて耳を赤くし、コーヒーを飲むふりをして顔をそらした。


 やがて三人でシュークリームを食べることになった。紙箱には三個入っていたが、一つだけイチゴクリームで、残りは普通のカスタードだった。澪はイチゴを大地へ差し出し、子供の頃から好きだったでしょうと勧めた。


「大地はイチゴよりカスタードが好きよ。ショートケーキでもイチゴを最後まで残すもの」


「えっ、そうなの? 昔はイチゴ味のお菓子ばかり食べていたよね?」


「小学生の頃の話だろ。好みくらい変わるよ」


 大地は笑ってカスタードを選んだ。澪は残ったイチゴ味を受け取り、包み紙を丁寧に広げた。さやかはその様子を見ながら、澪が知っているのは昔の大地であり、自分が知っているのは今の大地なのだと思った。


「さやかさんは、大ちゃんのことを何でも知っているんですね。澪、ちょっと負けちゃったみたい」


「勝ち負けにすることではないでしょう」


「そうですよね。でも、昔の大ちゃんを知っているのは澪だけだから、そこはさやかさんにも負けません」


 澪はイチゴクリームを指ですくい、赤い舌先でなめ取った。さやかはシュークリームを皿へ置き、紙ナプキンで指を拭いた。大地は二人の会話を聞きながら、女同士は変なところで張り合うなと笑った。


「私は張り合っていないわ」


「はいはい。そういうことにしておこう」


 大地はさやかの言葉を最後まで聞かず、シュークリームの粉砂糖を手で払った。白い粉が紺色のジャージと床へ落ち、澪は笑いながら大地の胸元へ手を伸ばした。さやかが見ていることに気づくと、途中で手を止め、代わりにティッシュを渡した。


 夕方になり、空は予報どおり灰色の雲に覆われた。ベランダのカーテンを取り込もうと、さやかが立ち上がったところで、澪もようやく帰ると言った。大地は玄関まで見送るため、先に廊下へ出た。


「今日は本当に突然で、ごめんなさい。次はもっと早く連絡します」


「来る前に、私へではなく大地へ連絡するだけでは駄目です。大地が私へ相談し、二人とも都合がよい日にしてください」


「分かりました。澪、気をつけます」


 澪は素直に答え、玄関のたたきへ下りた。外では雨が降り始め、開いた扉から湿った土の匂いが入ってきた。澪は厚底靴へ片足を入れたところで、傘を持っていないことに気づいたように声を上げた。


「どうしよう。雨が降るなんて知らなかった。澪、傘を持ってないよ」


「駅まで送ろうか。歩いて十分くらいだし」


「いいの? でも、さやかさんに怒られない?」


 澪は大地を見上げながら、厚底靴の金具へ手を伸ばした。立ったまま留めようとしたため、体がわずかに揺れた。さやかは壁際に折り畳み椅子があることを教えようとしたが、その前に澪が甲高い声を上げた。


「きゃっ!」


 澪の足が、何もない玄関マットの上で滑った。彼女は後ろへ倒れるのではなく、狙ったように大地の胸へ飛び込んだ。大地は反射的に両腕を伸ばし、右手で澪の背中を、左手で細い腰を抱き止めた。


「危ない! 大丈夫か?」


「ごめんなさい。厚底だから、バランスを崩しちゃった。怖かったあ」


 澪は大地の胸へ頬を押し当てたまま、両手でポロシャツの背中をつかんだ。大地の顔は耳まで赤くなり、照れを隠すように笑っていた。さやかは二人を見ながら、大地の左手が澪の腰から離れないことを数秒間、黙って確認した。


「もう立てるでしょう。大地、手を離して」


「分かってるよ。今、立たせるところだ」


 大地は不機嫌そうに答えたが、それからようやく澪の腰を放した。澪は片足だけ厚底靴をはいたまま玄関に立ち、胸元の黒いリボンを整えた。転んだというのに膝にも手にも汚れはなく、呼吸も乱れていなかった。


「さやかさん、ごめんなさい。わざとじゃないんです。本当に滑っただけで」


「まだ何も聞いていません。どうして、わざとではないと先に言うんですか」


「だって、また大ちゃんにくっついたって思われそうだから……」


 澪は目を伏せ、大地の後ろへ半歩隠れた。大地はさやかへ、転びそうになった人を支えただけだと説明した。さやかが否定しているのは支えたことではなく、立てるようになっても腰を抱いていたことだったが、大地は聞こうとしなかった。


「澪、俺の傘を貸すよ。駅まで送ると、また何か言われそうだから」


「うん。大ちゃん、ありがとう。傘は今度、返しに来るね」


 澪は大地の黒い傘を受け取り、満足そうに笑った。これで次に訪ねてくる理由までできたことを、さやかは見逃さなかった。澪が外へ出ると、大地は扉を閉め、鍵をかけながら大きなため息をついた。


「さやか、さすがに今の言い方はないだろ。澪が転びそうになっただけなのに、疑うようなことを言って」


「何もないところで、大地のいる方向へきれいに倒れたわね」


「厚底靴なんだから、転ぶこともあるだろ」


「立ち直ったあとも、あなたの手は澪さんの腰にあったわ」


 さやかは大地の左手を見た。その手はさっきまで澪の細い腰を包み、今は居心地が悪そうにジーンズのポケットへ入れられている。大地は視線をそらし、さやかが嫉妬しているから何でも怪しく見えるのだと言った。


「家へ来るのを控えてもらって。私は毎週、こんなことを繰り返したくないわ」


「澪は妹みたいなものだ。そんな目で見るなんて、お前の考え方のほうがおかしいよ」


 大地の声が、狭い玄関へ響いた。傘立てにはさやかの花柄の傘だけが残り、貸した黒い傘があった場所には丸い水滴の跡が付いている。さやかはしゃがんで澪が落とした黒いリボンの飾りを拾い、靴箱の上へ置いた。


「妹なら、兄の腰へ腕を回して胸へ顔を押しつけるの?」


「転んだだけだと言ってるだろ。どうしてそういういやらしい見方をするんだよ」


「私は夫婦の境界を守ってほしいと言っているの。あなたは、どうしてそれを私の嫉妬に変えるの?」


 大地は答えず、居間へ戻った。テレビをつけると、旅番組の再放送が始まり、山あいの温泉から湯気が上がっていた。さやかは玄関に残った甘い香水の匂いを消すため扉を少し開け、雨の冷たい空気を入れた。


 ベランダでは洗ったカーテンが風にあおられ、端から雨にぬれ始めていた。さやかは急いで取り込み、居間の椅子へ掛けたが、せっかく洗った布には外の湿った匂いが移っていた。大地はその様子を見ても手を貸さず、澪が無事に駅へ着いたか確かめるメッセージを送っていた。


「澪、転んだときに足首を少しひねったらしい。お前が責めるから言えなかったって」


「玄関を出るときは、普通に歩いていたわ」


「あとから痛くなることもあるだろ。冷たいな、お前は」


 大地はスマートフォンを握ったまま、心配そうに眉を寄せた。さやかはぬれたカーテンの裾を古いタオルで押さえ、床へ落ちた水滴を一つずつ拭いた。布を絞る指に力を入れると、白いタオルへ灰色の水がにじんだ。


 その夜、夕食には鶏肉とキャベツの蒸し煮を作った。鍋からはバターと黒こしょうの匂いが立っていたが、大地は澪とメッセージを続け、料理が冷めても箸を取らなかった。さやかは自分の分だけ皿へ取り分け、残りにはふたをした。


「食べないの?」


「澪に湿布を貼ったほうがいいって言ってるところ。ちょっと待ってくれよ」


「妹みたいな人のお世話は、ずいぶん忙しいのね」


「また嫌みか。お前も少しは大人になれよ」


 大地はそう言い、画面へ向かって小さく笑った。さやかは冷めたキャベツを口へ運び、固くなった芯を時間をかけてかんだ。食卓の端には黒いリボンの飾りが置かれたままで、結婚写真の前には、澪が使った青いマグカップが洗われずに残っていた。



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