第2話 澪の「あざとかわいい」さしすせそ
第2話 澪の「あざとかわいい」さしすせそ
日曜日の朝、さやかは洗濯機が回る音を聞きながら、台所でアジの開きを焼いていた。薄い灰色のスウェットに紺色のエプロンを重ね、寝癖の残った髪を茶色のゴムで一つに束ねている。魚焼きグリルから香ばしい匂いが立ち、鍋の味噌汁には豆腐とワカメと昨日使い残した長ネギを入れた。大地はまだ起きてこず、居間のテーブルには昨夜飲んだ缶ビールと、澪が持ってきたマカロンの空箱が残っていた。
さやかは空箱を畳み、資源ごみの袋へ入れた。大地は甘いものをそれほど好まないはずなのに、昨夜は澪が持ってきたというだけで三個も食べていた。結婚前、さやかが人気店に一時間並んで買ったマカロンには「小さいのに高いな」と言ったことを思い出し、焼けたアジを皿へ移す手が止まった。
「大地、朝ご飯ができたわよ。アジが冷める前に起きて」
寝室から返事はなかったが、代わりに枕元へ置かれたスマートフォンが何度も震える音がした。やがて大地は髪をかきながら起きてきて、椅子へ座る前に画面を確認した。白いTシャツの襟は片側へ伸び、昨日と同じ灰色のハーフパンツにはマカロンのピンク色の粉がまだ付いていた。
「朝から誰なの?」
「澪だよ。昨日のお礼だって。俺が教えた動画配信サービスを登録できたらしい」
大地は味噌汁へ口をつけるより先に返信を始めた。焼きたてだったアジの皮から湯気が消え、味噌汁の表面には薄い膜が張り始めている。さやかは大根おろしに醤油を数滴垂らし、自分の分だけアジの身をほぐした。
「昨日、次に家へ来るときは先に相談してと言ったでしょう。返事はまだ聞いていないわ」
「分かったよ。家には勝手に呼ばない。それでいいだろ」
大地は目を合わせずに答え、スマートフォンをテーブルの端へ置いた。画面には澪から届いたウサギの絵文字が幾つも並び、最後に《大ちゃん、さすが♡》と表示されている。さやかはその言葉を見ても何も言わず、冷めかけた味噌汁を一口飲んだ。
その日の午後、大地は近所のホームセンターへ棚を見に行くと言い出した。居間の隅には読んでいない雑誌や郵便物が積まれ、さやかが片づけても、大地が新しいものを重ねてしまう。さやかも洗剤と台所用のスポンジを買いたかったため一緒に出かけることにし、白い七分袖のシャツとベージュのワイドパンツへ着替えた。
外は前日の雨が嘘のように晴れ、歩道の水たまりに青空が映っていた。大地は紺色のポロシャツにジーンズを合わせ、玄関でスニーカーの紐を結び直した。さやかがベランダの洗濯物を取り込んでから行くと言うと、大地は先に車のエンジンをかけていると答えた。
「タオルくらい手伝ってくれてもいいでしょう。二人でやれば三分で終わるわ」
「帰ってからでいいじゃないか。晴れているんだから、ぬれないだろ」
大地は車の鍵を指で回しながら先に出ていった。さやかは乾いたタオルを畳み、靴下を一足ずつ洗濯籠へ入れてから玄関の鍵を閉めた。駐車場へ下りると、大地は運転席でスマートフォンを見ており、さやかが乗ってもすぐには画面を伏せなかった。
ホームセンターへ着くと、休日の店内は家族連れで混み合っていた。入口の近くでは季節外れの風鈴が値下げされ、園芸売り場から湿った土と肥料の匂いが流れてくる。さやかが買い物かごを取ろうとしたとき、背後から聞き覚えのある甘い声がした。
「大ちゃん、偶然! 今日も会えるなんて、運命みたい」
振り返ると、澪が小走りで近づいてきた。今日は黒いセーラーカラーのブラウスに、ピンクのベルトが付いた短いプリーツスカートを合わせ、膝上まである黒い靴下と厚底のローファーをはいている。髪は高い位置で二つに結び、左右の結び目には黒いレースのリボンが揺れていた。甘いイチゴのような香水が漂い、近くにいた子供が澪を見上げて母親の袖を引いた。
「澪、どうしてここにいるんだ?」
「お部屋に飾る小さな棚が欲しくて来たの。大ちゃん、棚を見に来るって朝に言っていたでしょう? 同じお店だったんだね」
澪は両手を胸の前で合わせ、偶然を強調するように何度もうなずいた。大地は疑う様子もなく「そうなんだ」と答え、さやかから買い物かごを受け取った。朝から連絡を取り合っていたのなら、同じ店に来ることを澪が知らなかったとは考えにくかったが、さやかはその場では黙っていた。
「私たちは日用品を買いに来たの。澪さんは一人で棚を選ぶんですね」
「でも、澪は家具のことが全然分からないんです。大ちゃん、一緒に見てくれない? 大ちゃんって昔から、こういうことに詳しかったでしょう」
澪は大地の反対側へ回り、ポロシャツの袖を二本の指でつまんだ。昨日、腕に抱きつくのはやめてほしいと言われたため、今日は服だけをつまんだらしい。その小さな違いを大地は配慮と受け取ったのか、困ったように笑いながら家具売り場の方向を指さした。
「俺たちも棚を見る予定だから、一緒に行けばいいよ。さやかも構わないだろ?」
「先に洗剤を買いたいんだけど」
「洗剤は逃げないだろ。棚は在庫がなくなるかもしれないし」
大地は冗談を言ったつもりで笑い、澪も口元へ手を当てて笑った。さやかは空の買い物かごを持ち直し、二人の後ろを歩いた。掃除用品売り場の特売札が横を通り過ぎ、買うつもりだった台所用スポンジも遠ざかっていった。
家具売り場には、白や茶色の組み立て式の棚が高さ順に並んでいた。大地が材質や耐荷重を確かめると、澪は内容を理解している様子もないまま、目を大きく見開いた。棚板を指でたたく大地の手元をのぞき込み、顔を近づけて何度もうなずいている。
「この棚は安いけど、背板が薄いな。重い物を置くなら、こっちのほうがいい。組み立てるときも、最初からねじを強く締めるとゆがむんだよ」
「さすが大ちゃん! 澪、一人だったら絶対に安いほうを買ってた。大ちゃんがいてくれてよかったあ」
澪は最初の「さ」を、わざと明るく弾ませた。大地は満足そうに棚の説明書を裏返し、必要な工具を確認し始めた。さやかは三年前、大地が組み立てた本棚が傾き、結局、自分でねじを締め直したことを思い出したが、口には出さなかった。
「最近の棚は、転倒防止の金具も付いてるんだ。壁に固定したほうが安全だぞ」
「知らなかった! 地震が来たら棚って倒れるんだね。大ちゃんは何でも知ってるのね」
今度は「し」だった。棚が地震で倒れる可能性くらい、二十五歳の大人なら知らないはずがない。けれど大地は澪の言葉を疑わず、胸を張るように立って金具の使い方まで説明した。
「そういえば、大地。うちの本棚にも転倒防止の金具を付けると言って、まだ付けていないわよ」
「今それを言わなくてもいいだろ。今度やるよ」
大地は顔をしかめ、さやかではなく澪の棚へ視線を戻した。澪は二人の間へ割り込むようにしゃがみ、下段の棚板へ白い指を滑らせた。短いスカートの裾を押さえながら首を傾ける仕草はよく練習されており、近くを通った若い男性も一度振り返った。
「これ、澪のお部屋に置いたらかわいいかな。黒い香水瓶と、ピンクのクマさんを飾りたいの」
「いいんじゃないか。部屋の雰囲気に合うだろ」
「すごい! 大ちゃん、澪の部屋を覚えていてくれたんだ。もう何年も来ていないのに、うれしい」
澪は三番目の「す」を使い、大地の腕を軽くたたいた。大地はさやかの顔を見てから、子供の頃の部屋しか知らないと慌てて付け加えた。さやかは大地を疑っているわけではなかったが、澪が自分に疑わせようとしていることだけは分かった。
「その棚、澪さん一人で組み立てられるの?」
「無理です。説明書を読むと頭が痛くなっちゃうんです。大ちゃんは、こういうの得意でしょう?」
「このくらいなら三十分もかからないよ。電動ドライバーがあれば簡単だ」
「センスいい! 電動ドライバーまで持ってる男の人って頼りになる。大ちゃんのお嫁さんは、毎日安心ですね」
四番目の「せ」を言った澪は、初めてさやかへ話を振った。しかし、褒めているのは大地だけで、さやかには夫の自慢をする役目を渡したにすぎなかった。大地は気分をよくしたのか、倉庫に電動ドライバーがあると話し、最近は充電していないから動くか分からないと笑った。
「大地が買った電動ドライバー、一度も使っていないわよ。うちの棚は、私が普通のドライバーで組み立てたから」
「細かいことを覚えてるなあ。道具は持ってるって話だろ」
「そうなんだあ。大ちゃん、道具を買って準備するところから楽しむタイプなんだね。そういうところも男の人らしくて、澪は好きだな」
最後の「そ」まで使い切ると、澪は満足そうに笑った。大地は否定もせず、商品の箱を台車へ載せるため店員を呼んだ。さやかは買い物かごの持ち手を握り、指の関節が白くなる前に力を抜いた。
澪が使った五つの言葉は、どれも大げさなほど大地を持ち上げていた。「さすが」「知らなかった」「すごい」「センスいい」「そうなんだ」という順番は、以前、会社の同僚が冗談で教えてくれた「男性を喜ばせる、さしすせそ」と同じだった。居酒屋で同僚が割り箸を指し棒にして説明したとき、さやかはそんなに分かりやすい褒め方へ引っかかる人がいるのかと笑ったが、今、その実例が目の前にいた。
「大地、その棚を澪さんの家まで運ぶつもり?」
「車に積めるだろ。送るついでに組み立ててやればいいよ」
「私たちは日用品を買いに来たのよ。夕方には、あなたの実家へ送る荷物を宅配便へ持っていく約束もあるでしょう」
さやかが予定を確認すると、大地は腕時計を見た。澪はすぐに唇を小さく結び、ピンク色のベルトを両手で握った。棚の横には「送料無料」と大きく書かれた札があったが、澪は見えていないふりをしている。
「澪のせいで夫婦の予定を邪魔したくないです。棚は置いて帰ります。重いけど、電車で頑張って持って帰りますね」
「これを電車で運ぶのは無理だろ。配送を頼めばいいじゃないか」
「でも、今日から使いたかったの。大ちゃんが選んでくれた棚だから、早くお部屋に置きたくて」
澪は目元へ指を当て、まだ出ていない涙を押さえるような仕草をした。大地はため息をつき、さやかに実家への荷物は一人で出しておいてくれないかと頼んだ。荷物の中身は大地の母親に頼まれて買った健康食品と、さやかが選んだタオルであり、梱包したのも伝票を書いたのもさやかだった。
「それは、あなたのお母さんから頼まれた荷物よ。どうして私が一人で出しに行って、あなたは澪さんの棚を組み立てるの?」
「組み立てるだけなら、すぐ終わるって。困ってるんだから仕方ないだろ」
「配送無料の商品を、自分で今日持ち帰りたいと言っているだけよ。困っているのとは違うわ」
さやかが商品札を指さすと、澪の顔から一瞬だけ幼い笑みが消えた。大地も送料無料の文字を見て黙ったが、澪はすぐに両手を合わせ、気まずそうに笑った。黒いネイルの先についた小さなハートが、店内の照明を受けて光っていた。
「ごめんなさい。澪、送料無料って気づかなかった。さやかさんって、しっかりしていてすごいですね」
「今のは、あなたの『さしすせそ』のどれかしら」
さやかが尋ねると、澪は目を見開いた。大地は意味が分からないらしく、二人の顔を交互に見ている。さやかは買い物かごを床へ置き、指を一本ずつ折りながら澪が使った言葉を並べた。
「さすが、知らなかった、すごい、センスいい、そうなんだ。ずいぶん教科書どおりに大地を褒めるのね」
「何を言ってるんですか。澪は思ったことを言っただけです」
澪は大地の背後へ半歩下がり、守ってもらう位置へ移動した。声は震えているように聞こえたが、さやかを見る目は冷えていた。大地は案の定、さやかをたしなめるように眉を寄せた。
「さやか、澪をキャバ嬢みたいに言うなよ。褒めてくれただけだろ。そんなふうに裏を読む必要はないじゃないか」
「大地が褒められて喜ぶのは自由よ。ただし、澪さんを送って棚を組み立てるために、夫婦の予定を私一人へ押しつけるのは別の話です」
さやかは感情をぶつける代わりに、事実だけを伝えた。近くの売り場では幼い男の子が木製の椅子へ座り、母親から下りなさいと何度も注意されている。店内放送では迷子のお知らせが流れ、遠くのフードコートから焼きそばのソースの匂いが届いた。
「分かったよ。棚は配送してもらおう。これなら問題ないだろ」
「大ちゃん、ごめんね。澪が何も知らないから、また迷惑をかけちゃった」
「知らなかったなら仕方ないよ。店員さんに頼んでくるから、待ってろ」
大地は結局、澪を責めずにサービスカウンターへ向かった。澪はその背中を見送ってから、レースの袖口を整え、さやかの隣へ立った。甘い香水の奥に、朝から塗り直していないらしい化粧品の粉っぽい匂いが混じっていた。
「さやかさん、大ちゃんって本当に優しいですよね。昔から、私が困ると何でもしてくれたんです」
「そうみたいね。でも、今の大地には家庭があるわ」
「分かってます。だから、腕にも抱きつかなかったでしょう?」
澪はそう言うと、大地のポロシャツの袖をつまんだ指を思い出させるように、二本の指を胸の前で動かした。約束の言葉だけを守り、意味は守らない。それでも自分は注意に従ったと主張できるようにしているのだと分かり、さやかは澪から目をそらさなかった。
「腕に抱きつかなければ、夫婦の予定へ割り込んでもいいと思っているの?」
「私、そんな難しいこと分かりません。大ちゃんが決めたことだから、大ちゃんに聞いてください」
澪は首を傾げ、また幼い表情へ戻った。大地が配送手続きを終えて戻ってくると、澪はすぐに駆け寄り、今度は触れずに両手を顔の横へ上げた。さやかが見ている前で、注意された行動だけを巧妙に避けていた。
「大ちゃん、ありがとう。さすが、何でもできるね」
「また『さすが』って言った」
さやかが静かに指摘すると、大地は呆れたように息を吐いた。澪は口元を両手で覆い、子供がいたずらを見つかったときのように肩を揺らして笑った。その笑い声を聞いて、大地まで一緒に笑い始めた。
澪と別れたあと、さやかと大地は洗剤とスポンジを買った。予定より一時間以上遅くなり、フードコートで昼食を取る時間もなかったため、帰り道のコンビニでおにぎりを二つ買った。大地は鮭、さやかは梅を選び、車内には開封した海苔の匂いが広がった。
「澪に対して、もう少し普通に接してやれないのか。あいつ、お前に嫌われたと思って落ち込んでたぞ」
「普通に接してほしいのは私のほうよ。偶然を装って私たちの買い物へ入り込み、自分の用事を大地にさせようとしたのは澪さんでしょう」
「考えすぎだよ。連絡しているうちに、たまたま同じ店へ行くと分かっただけだ」
「それなら、どうして私には澪さんが来ると教えなかったの?」
大地は鮭のおにぎりを一口かじり、返事の代わりにカーラジオの音量を上げた。信号待ちの車内には、古い恋愛歌と包装フィルムの擦れる音が響いた。さやかの梅おにぎりは中央まで食べても梅干しに届かず、乾いたご飯だけが口の中に残った。
帰宅すると、朝に干した洗濯物がベランダで風にあおられ、白いシャツが物干し竿の端へ寄っていた。さやかは買ったばかりのスポンジを台所へ置き、宅配便へ持っていく荷物を玄関まで運んだ。大地は手伝わず、ソファへ座って澪から届いたメッセージを読んでいた。
「澪、棚が火曜日に届くって喜んでる。お前にもお礼を言ってるぞ」
「そう。今度は何て書いてあるの?」
「《さやかさんって、しっかりしていてすごい》だって。ちゃんと褒めてるじゃないか」
大地は、これで誤解が解けただろうという顔をした。さやかは靴箱の上に置いてあったボールペンを取り、宅配便の伝票に配達希望時間を書き込んだ。ペン先からインクが出にくく、数字の一部を何度もなぞったため、午後六時の「六」だけが黒く汚れた。
「それは褒めているんじゃないわ。私を大地と一緒に笑うための言葉よ」
「また裏を読む。普通に受け取ればいいだろ」
「そうね。あなたは何でも、自分に都合よく受け取るものね」
さやかは伝票を荷物へ貼り、財布と車の鍵を持った。大地がどこへ行くのかと尋ねたため、約束どおり荷物を出してくると答えた。玄関の鏡には、重い段ボール箱を両腕で抱えた自分と、スマートフォンを持ったままソファから動かない夫が映っていた。
「さやか、一人で大丈夫か?」
「大丈夫よ。私は『何もできない子供』ではないから」
さやかはそう答えて玄関の扉を閉めた。廊下へ出る直前、また大地のスマートフォンが鳴り、澪からの甘い声が短く再生された。扉の向こうで大地が笑うのを聞きながら、さやかは段ボール箱を抱え直し、自分一人の足で階段を下りていった。




