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第1話 黒いリボンの幼馴染

第1話 黒いリボンの幼馴染


 土曜日の午後、さやかは薄い水色のブラウスから、生成り色の七分袖の部屋着へ着替え、台所で夕食の下ごしらえをしていた。窓の外では朝に降った雨の雫がベランダの手すりに残り、物干し竿には大地の紺色の靴下と、さやかの白いタオルが並んで揺れている。まな板の上には輪切りにしたナスが五本あり、フライパンでは豚ひき肉と生姜を炒めた甘辛い匂いが立っていた。今夜は麻婆ナスと卵スープにしようと決め、大地の好物だから少し多めに作っていたところで、玄関の呼び鈴が鳴った。


「大地、手が離せないから出てもらえる?」


 さやかは木べらを動かしながら居間へ声をかけた。ソファでは、白いTシャツに灰色のハーフパンツをはいた大地が、録画した野球中継を見ながらポテトチップスを食べていた。袋の口を折るのが面倒なのか、いつも洗濯ばさみで留める癖があり、今日もテレビ台から洗濯ばさみを取って立ち上がった。


「はいはい。宅配便かな。昨日、洗剤を頼んだから」


 大地は素足のまま廊下へ出ていった。さやかがナスをフライパンへ入れると、油のはぜる音に交じって玄関の扉が開く音が聞こえた。ところが、宅配業者の低い声は聞こえず、代わりに鈴を転がすような女性の声が家の中へ飛び込んできた。


「大ちゃん、久しぶり。会いたかったあ」


 さやかの手から、危うく木べらが滑り落ちそうになった。玄関を見ると、大地の背後から小柄な女性が顔をのぞかせていた。年齢は二十代半ばほどに見えるが、白く塗った肌に赤く強調された涙袋、大きな黒い瞳、唇の中央だけを濃くしたピンクの口紅のため、十代の少女のようにも見えた。黒いレースのワンピースは胸元に幾つもの細いリボンが付き、膨らんだ袖口から白い手首がのぞいている。長い黒髪の両側には大きなピンクのリボンが結ばれ、足元の厚底靴が床を歩くたびに重い音を立てた。


「澪? どうしたんだよ、急に。来るなら連絡しろよ」


 大地は驚いた声を出したが、口元は笑っていた。澪は注意されたことなど気にしていないらしく、小さな紙袋を胸の前で揺らし、甘い香水の匂いを廊下に残しながら靴を脱いだ。玄関マットの端には、朝、大地が出しっぱなしにした折り畳み傘が置かれており、澪はそれを厚底靴の先で押しのけた。


「だって、連絡したら大ちゃん、来なくていいって言うかもしれないでしょう? 近くまで来たから、顔を見るだけのつもりだったの。これ、駅前にできたお店のマカロンだよ」


 澪は大地の横を通り抜け、返事を待たずに居間へ入った。大地は一度も彼女を止めず、さやかのほうを見て困ったように肩をすくめた。その仕草が、突然上がり込んだ澪ではなく、それを気にするかもしれない妻のほうをなだめようとしているように見え、さやかはフライパンの火を弱めた。


「こちらは?」


 さやかはエプロンで両手を拭きながら尋ねた。澪は紙袋をテーブルへ置くと、ソファに座った大地のすぐ隣へ腰を下ろした。二人掛けのソファには十分な余裕があるのに、黒いレースの袖と大地の白いTシャツが触れ合っていた。


「ああ、紹介してなかったな。こいつは小鳥遊澪。実家が近所で、幼稚園の頃から一緒だったんだ。澪、こっちは妻のさやか」


「初めまして、澪です。大ちゃんには昔から、妹みたいにかわいがってもらってます」


 澪はソファに座ったまま、首だけを傾けて笑った。立っているさやかに挨拶をするため腰を上げる様子はなく、次の瞬間には大地の腕へ両手を絡ませていた。細い指の爪には黒とピンクの小さな十字架が飾られ、大地の腕をつかむたび、飾りがかすかな音を立てた。


「大ちゃん、本当に結婚しちゃったんだね。私、まだ信じられない。昔は澪のお嫁さんになるって言ってくれたのに」


「それ、幼稚園のときの話だろ。いつまで覚えてるんだよ」


 大地は澪の手を振りほどかなかった。照れたように耳の後ろをかき、テレビのリモコンで野球中継の音量だけを下げた。さやかは結婚して三年になるが、大地が幼馴染の女性について詳しく話したことは一度もなく、結婚式にも澪は来ていなかった。


「澪さん、コーヒーでいいですか。それとも紅茶にします?」


 さやかは声の高さを変えないように尋ねた。流し台には朝食で使った大地のマグカップが一つ残っており、洗っていなかったことを思い出した。来客用のカップは食器棚の上段にしまってあるが、澪は勝手に立ち上がると、棚の中から大地が毎朝使う青いマグカップを取り出した。


「澪、これがいいな。昔、大ちゃんも青いコップばかり使ってたよね。コーヒーはミルクとお砂糖をたっぷりお願いします」


「それ、大地が毎朝使っているものなんです」


 さやかの言葉を聞いても、澪はカップを棚へ戻さなかった。胸の前で大切そうに抱え、長いまつ毛を何度か瞬かせている。大地は二人を見比べると、テーブルに置かれた紙袋を開け、淡いピンク色のマカロンを一つ取り出した。


「別にいいだろ。カップなんて洗えば済むんだし。さやかもマカロンを食べようぜ」


「そういう問題ではなくて、人の家の棚を勝手に開けたり、夫の腕に抱きついたりするのは、少し距離が近すぎませんか」


 さやかは言い終えてから、コンロの上のフライパンへ目を向けた。弱火にしていたはずなのに、ナスの端が少し焦げ、甘辛い匂いに苦みが混じっていた。いつもなら大地が台所まで来て味見をしたがる時間だったが、彼は澪の隣から動かなかった。


「えっ、私、何か悪いことをしました?」


 澪は大地の腕から手を離し、胸元のピンクのリボンを指でつまんだ。赤く塗られた目元には、本当に涙が浮かんだような艶がある。大地の顔を見上げてから、今度はおびえるようにさやかへ視線を移し、厚底靴を脱いだ足をソファの下でそろえた。


「もしかして、私、さやかさんに嫌われちゃいました? 大ちゃんとは家族みたいに育ったから、つい昔のまま接しちゃって。奥さんがいる男性に触ったら駄目だなんて、そこまで考えられなくて……」


「澪は昔からこうなんだよ。悪気はないから、そんなに責めなくてもいいだろ」


 大地は澪を守るように、さやかとの間へ体を傾けた。その手には食べかけのピンク色のマカロンがあり、砕けた皮が灰色のハーフパンツへ落ちている。さやかは毎週、そのポケットに残った菓子のくずを払ってから洗濯機へ入れていたが、今日は指摘する気になれなかった。


「私は責めているんじゃないわ。夫婦の家へ突然来て、妻の前で夫の腕に抱きつくのはやめてほしいと言っているだけよ」


「ごめんなさい。澪、子供っぽいから、難しいことはよく分からなくて」


 澪は肩をすぼめたが、その口元にはマカロンの粉が付いていた。大地がティッシュを取って渡すと、彼女はうれしそうに笑い、またソファの中央へ体を寄せた。さやかは自分でコーヒーを淹れ、来客用の白いカップへ注いで澪の前へ置いたが、澪が抱えていた青いマグカップは最後まで返されなかった。


 夕方になっても、澪は帰ろうとしなかった。さやかが麻婆ナスを大皿へ盛りつける間、澪は大地と子供の頃の話を続け、二人だけが分かるあだ名や近所の店の名前を何度も口にした。卵スープには細く刻んだネギを浮かべ、冷蔵庫に残っていたキュウリで中華風の酢の物も作ったが、澪はネギが苦手だと言って一口も飲まなかった。


「私の分まであるんですか? さやかさんって、お料理が上手なんですね。澪なんて包丁を持つと、大ちゃんに危ないって怒られちゃう」


「小学生のとき、お前がリンゴを切ろうとして指を切ったからだろ。今はもう大人なんだから、包丁くらい使えるようになれよ」


「じゃあ、大ちゃんが教えて。後ろから手を持ってくれたら、澪にもできるかも」


 澪が両手を合わせて頼むと、大地は吹き出した。さやかは三枚目の皿へ麻婆ナスをよそいながら、二人の会話が聞こえなかったふりをした。炊飯器から上がる湯気が眼鏡を曇らせたので外して拭いたが、視界が戻っても大地は澪だけを見ていた。


「澪さん、ご家族には夕食を食べて帰ると連絡しなくていいんですか」


「一人暮らしだから大丈夫です。それに今日は、大ちゃんの奥さんがどんな人か、ゆっくり知りたいなって思っていたんです」


 澪はそう言ったものの、さやかへ質問をすることはなかった。大地の皿からナスを一つ取り、自分の口へ運んでは、辛いと言って水をねだった。大地も当然のように席を立ち、冷蔵庫からミネラルウォーターを出して澪のコップへ注いだ。


「大ちゃん、優しい。昔と全然変わってないね」


「大げさだな。水を入れただけだろ」


 大地は照れたように笑い、さやかが作った料理には一度も感想を言わなかった。さやかの皿では、冷めた麻婆ナスの油が縁に細く固まり始めていた。テレビでは野球中継が終わり、天気予報の女性が明日は朝から晴れると伝えていたが、ベランダの洗濯物は誰にも取り込まれないままだった。


 午後八時を過ぎて、ようやく澪が帰り支度を始めた。玄関で厚底靴を履くと、澪は大地のTシャツの裾をつまみ、上目遣いで顔を見上げた。甘い香水と、食卓に残った麻婆ナスの匂いが狭い廊下で混ざっていた。


「大ちゃん、今日はありがとう。今度は二人で昔の商店街へ行こうよ。あそこのクレープ、まだ売ってるか確かめたいの」


「二人で行く必要はないでしょう。私も一緒でいいんじゃないですか」


 さやかが答えると、澪は一瞬だけ無表情になった。だが、すぐに目尻を下げ、黒い袖で口元を隠した。大地が気づかないほど短い変化だったが、玄関の照明の下に立っていたさやかには、はっきり見えた。


「もちろんです。でも、さやかさんは大人っぽいから、クレープなんて好きじゃないかなと思って。私たち、昔から一つを半分にして食べていたんです」


「いつの話だよ。十年以上前だろ」


 大地は笑いながら澪の頭を軽くなでた。澪は目を細め、さやかの顔を見たまま、大地の手を受け入れていた。その表情には、先ほどまで浮かべていたおびえも遠慮もなかった。


「じゃあね、大ちゃん。また連絡するね。今度はちゃんと先に知らせます、奥さんが怒るから」


 澪は最後の一言だけを小さな声で付け加えた。大地は聞こえなかったのか、手を振りながら玄関の扉を閉めた。扉の向こうから厚底靴の音が遠ざかると、家の中には冷蔵庫の低い作動音だけが残った。


「さやか、澪に少し厳しすぎないか。あいつ、見た目はあんなだけど、気の弱いところがあるんだよ」


「初対面の妻の前で夫に抱きつける人を、気が弱いとは思えないわ」


 さやかは居間へ戻り、テーブルの皿を重ねた。大地の皿はきれいに空いていたが、澪の卵スープは手つかずで、表面に薄い膜が張っている。澪が持ってきたマカロンは六個入りだったのに、残っているのは黒い一個だけで、紙袋の底にはピンク色の粉がたまっていた。


「だから、昔からあんな感じなんだって。いちいち男女として考えるような相手じゃないよ。妹みたいなものなんだから」


「妹なら、結婚した兄の家で奥さんを困らせても許されるの?」


「困らせたって、大げさだな。マカロンを持って遊びに来ただけだろ。せっかく楽しかったのに、変な空気にするなよ」


 大地はそう言うと、ポテトチップスの袋を持ってソファへ戻った。袋を留めていた洗濯ばさみはテーブルに置きっぱなしで、細かな塩が木目の上へ散っている。さやかは布巾を取りに台所へ向かいながら、大地が口にした「楽しかった」という言葉を頭の中で繰り返した。


 三人分の食器を流し台へ運び、さやかは蛇口をひねった。ぬるい湯が青いマグカップへ当たり、内側に残っていた甘いコーヒーの跡が薄くなっていく。大地のために選んだそのカップを、見知らぬ女が当然のように抱えていた光景が離れず、さやかはスポンジを持つ指へ力を入れた。


「そのカップ、澪が使ったからって、そんなに何度も洗わなくていいだろ」


「三回も洗っていないわ。まだ一回目よ」


 さやかは振り返らずに答えた。水の音に隠れ、大地のため息だけが背後で短く聞こえた。居間のテレビでは、明日の行楽地を紹介する番組が始まり、楽しげな笑い声が流れていた。


 洗い終えた三枚の皿を水切り籠へ立てると、一枚だけがほかの二枚に挟まれていた。さやかはそれを端へ移し、自分の布巾で一枚ずつ水気を拭いた。窓の外では夜風に吹かれた洗濯物が暗いベランダで揺れていたが、大地は取り込もうともせず、澪から届いたメッセージを見て笑っていた。


「澪、今日は楽しかったってさ。ほら、さやかにもよろしくって」


「そう」


 さやかは短く答え、青いマグカップを食器棚の奥へしまった。自分の家なのに、今日は最初から最後まで澪をもてなす係をさせられ、大地と澪だけが昔話の続きを楽しんでいた。食卓にもソファにも自分の席はあったはずなのに、座っていたのは体だけだった。


 さやかはベランダへ出て、湿った靴下とタオルを一枚ずつ取り込んだ。遠くの道路を走る車の音と、雨上がりのアスファルトの匂いが夜気に混じっている。最後に大地の紺色の靴下を洗濯籠へ入れると、さやかは窓の鍵をかけ、スマートフォンを握ったまま笑う夫へ静かに声をかけた。


「大地、次に澪さんを家へ呼ぶときは、必ず先に私へ相談して。ここは、あなた一人の家ではないから」


 大地は面倒そうに顔を上げたが、返事をせず、また画面へ視線を戻した。その態度を見たさやかは、もう同じことを繰り返して頼みたくないと思った。食器棚の奥では、洗ったばかりの青いマグカップが、ほかのカップから少し離れた場所に置かれていた。



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