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第5話 午前二時の「助けて」

第5話 午前二時の「助けて」


 木曜日の夜、さやかは十一時を過ぎてから寝室へ入った。薄い水色のパジャマに着替え、洗面所で乾かした髪を手ぐしで整えると、枕元へ読みかけの文庫本を置いた。ベランダには夕方に取り込んだ洗濯物が畳まれないまま籠へ残り、大地の白いワイシャツの袖が床へ垂れている。夕食に作った肉じゃがの甘い醤油の匂いも、換気扇を止めた台所にまだ残っていた。


 大地は先に布団へ入り、灰色のTシャツに紺色のスウェットパンツという格好でスマートフォンを見ていた。枕元の充電器へつないでいるため、短いケーブルを引っ張るたびに本体が顔の上へ近づく。画面には黒とピンクの服を着た澪の写真が表示され、大地は親指で何度も文章を打ち込んでいた。


「まだ澪さんと話しているの?」


「棚の写真を送ってきただけだよ。飾り方を変えたらしい」


「棚が完成して二日たつのに、まだ相談が必要なのね」


「別に相談じゃない。ただの雑談だ。幼馴染と話すことまで禁止するつもりか?」


 大地はスマートフォンを胸元へ伏せ、面倒そうに息を吐いた。さやかは返事をせず、ベッドの脇に落ちていた靴下を拾って洗濯籠へ入れた。何度注意しても、大地は脱いだ靴下を片方ずつ別の場所へ置くため、洗濯の前にはいつも家中を探さなければならなかった。


「明日はごみの日だから、朝は少し早く起きてね。段ボールを一緒に集積所まで運んでほしいの」


「分かった、分かった。七時に起こして」


「自分でも目覚ましをかけて。私は六時に起きるけれど、あなたの目覚まし時計ではないわ」


「夫婦なんだから、起こすくらいいいだろ。最近のお前、何でも突っかかるな」


 大地はそう言うと、部屋の照明を消した。暗闇の中でエアコンの作動音が低く響き、カーテンの隙間から街灯の白い光が細く差し込んでいる。さやかは文庫本を読むのを諦め、眼鏡を枕元へ置いて布団を肩まで引き上げた。


 午前零時を回った頃、大地の寝息が聞こえ始めた。さやかも目を閉じたが、昼間に飲んだ濃いコーヒーのせいか、なかなか眠れなかった。冷蔵庫の製氷機から氷が落ちる音や、上の階で椅子を引く音がいつもよりはっきり聞こえた。


 やがて眠りかけたとき、枕元で短い振動音がした。大地のスマートフォンが白く光り、数秒後に消えた。さやかは目を開けたが、大地は起きる様子がなかったため、そのまま布団の中で目を閉じた。


 十分ほどすると、また振動音がした。今度は一度では終わらず、短い間隔で三回続いた。大地は寝返りを打ち、布団から腕を出してスマートフォンを手に取った。


「誰?」


「澪だよ。眠れないらしい」


 大地はかすれた声で答え、スマートフォンの明かりを顔へ当てた。暗い寝室で画面だけが白く光り、彼の眉間に寄ったしわまで見えた。通知には《眠れない》《一人にしないで》《大ちゃんしか頼れない》という文章が並び、黒いハートと泣き顔の絵文字が幾つも添えられていた。


「午前二時よ。明日にしたら?」


「何かあったのかもしれない。少し返事をするだけだから、寝てていいよ」


「音で起こされたのに、寝ていていいと言われても困るわ。通知を切って」


「今切ったら、澪が余計に不安になるだろ」


 大地はさやかへ背中を向け、布団の中で返信を始めた。スマートフォンを操作する指の音は小さいはずなのに、静かな部屋では爪が画面へ触れる音まで聞こえた。さやかは目を閉じたが、数分おきに画面の明かりが壁へ反射し、そのたびにまぶたの裏まで白くなった。


「何があったの?」


「外で物音がしたんだって。誰かが玄関の前にいる気がするらしい」


「本当に人がいるなら、管理会社か警察へ連絡するべきでしょう」


「そこまで大ごとにしたくないんだと。少し話して落ち着かせればいいよ」


「あなたに何ができるの? ここから澪さんの玄関は見えないでしょう」


 大地は返事をせず、文字を打ち続けた。しばらくすると、布団の中では返しにくいと思ったのか、スマートフォンを持って起き上がった。素足で廊下へ出ていき、居間の扉を閉めたが、低く抑えた声が壁越しに聞こえてきた。


「澪、落ち着けって。今、玄関の音はするのか?」


 大地の声が聞こえたあと、しばらく間が空いた。澪の返事は聞こえなかったが、大地は何度も「大丈夫」「俺がいる」と繰り返していた。さやかはベッドから起き、床へ落ちていたカーディガンをパジャマの上へ羽織った。


 居間へ行くと、大地はソファへ座り、テレビを消した暗い部屋で電話をしていた。テーブルには夕食で飲んだ麦茶のコップが残り、溶けた氷の水滴が木目の上へ丸く広がっている。大地はさやかに気づくと、人差し指を唇へ当てて静かにするよう求めた。


「うん。明日は仕事だけど、もう少しなら話せるよ。怖いなら電気をつけて、カーテンを閉めろ」


「大地、電話を切って。私は明日も仕事なの」


 さやかが小声で言うと、大地は眉をひそめ、スマートフォンのマイク部分を手でふさいだ。まるで、電話の向こうにいる澪へ妻の声を聞かせてはいけないかのような仕草だった。さやかはその手を見ながら、冷蔵庫の横に掛けてある時計へ目を向けた。


「あと少しで切るよ。先に寝てろ」


「あと少しって何分?」


「そんなの分からないだろ。澪が落ち着くまでだよ」


「澪さんが眠るまで、妻を眠らせないつもりなの?」


 大地は口元をゆがめ、また通話へ戻った。電話の向こうから、澪の高く甘い声が一瞬だけ漏れた。泣いているようには聞こえず、「大ちゃんの声を聞いたら安心した」と笑っているようだった。


「ほら、もう何も怖くないだろ。水でも飲んで、ベッドに入れよ」


 大地の声は、さやかへ話すときよりも柔らかかった。さやかが熱を出した夜、大地は明日も仕事だからと別の部屋で寝たことがある。そのとき、さやかは自分で水と体温計を枕元へ運び、冷却シートを額へ貼った。


「澪さん、本当に玄関の外を確認したの?」


「確認したら危ないだろ。何でそんなことを聞くんだよ」


「物音がしたという時間に、隣の人が帰宅しただけかもしれない。まず、ドアスコープやインターホンの記録を確認すればいいでしょう」


「今、澪を問い詰めるなよ。ただでさえ怖がってるんだから」


 大地は電話を持ってベランダへ出た。ガラス戸を閉めると声は聞こえなくなったが、パジャマ姿のまま夜風に当たりながら電話を続ける背中が見えた。ベランダの物干し竿には、取り忘れたハンカチが一枚だけぶら下がり、風に揺れて大地の肩へ何度も触れていた。


 さやかは居間の照明をつけ、テーブルの麦茶を流し台へ運んだ。コップの底には麦茶の色が薄く残り、洗剤をつけたスポンジでこすると小さな泡が立った。水を流す音の向こうで、大地は澪へ何かを話しながら笑っていた。


 午前二時四十二分、大地がようやく部屋へ戻ってきた。頬は冷たい夜風に当たって赤くなり、パジャマ代わりのTシャツにはベランダの湿った匂いが移っている。電話を切ったのかと尋ねると、大地はスマートフォンをソファへ投げるように置いた。


「切ったよ。澪も少し落ち着いたみたいだ」


「玄関の物音は?」


「やっぱり隣の部屋の人だったのかもしれない。今は何も聞こえないって」


「最初から、そうではないかと言ったわ」


「怖がってる人に正論を言えばいいってものじゃないだろ。お前には優しさが足りないよ」


 大地は冷蔵庫を開け、ペットボトルの水を直接飲んだ。さやかがコップを使うよう何度も言ってきたが、彼は夜中だからいいだろうとふたを閉めた。冷蔵庫の明かりに照らされた顔には、澪を助けた満足感のようなものが浮かんでいた。


「大地。今後、深夜に澪さんから連絡が来ても、緊急でないなら朝まで返信しないで」


「そんな決まりを勝手に作るなよ。俺のスマートフォンだろ」


「あなたのスマートフォンでも、着信音で起こされるのは私よ。それに、既婚者が午前二時に異性と長電話をするのは普通ではないわ」


「だから、澪は妹みたいなものだと言ってるだろ。具合が悪い妹から助けを求められたら、無視できないよ」


 大地はまた同じ言葉を使った。けれど、彼に本当の妹はいない。さやかは蛇口を閉め、洗ったコップを水切り籠へ伏せた。


「妹なら、ご両親へ連絡させたら?」


「澪は親とあまり仲がよくないんだよ。俺しか頼れる人がいないんだ」


「二十五歳の女性が、あなたしか頼れない状況をおかしいとは思わないの?」


「困っている人を助けることまで責めるな。もう寝るぞ」


 大地は話を打ち切り、寝室へ戻っていった。さやかが照明を消してあとを追うと、彼はすでに布団へ入り、背中を向けていた。スマートフォンだけは枕元へ持ち込み、画面を下にして置いていた。


 翌朝、目覚まし時計が六時に鳴った。さやかはほとんど眠れないまま起き、顔を冷たい水で洗った。鏡には目の下に薄い影ができ、髪の分け目もいつもとは逆になっていたが、直す時間が惜しくてそのまま台所へ立った。


 朝食には、昨夜の肉じゃがを温め直し、豆腐と油揚げの味噌汁を作った。炊飯器から白い湯気が上がり、コーヒーメーカーから豆の香りが広がった。ごみの日なので、台所の袋を縛り、ベランダに置いてあった段ボールもひもでまとめた。


「大地、七時よ。起きて。ごみを出してもらう約束でしょう」


「眠い……。昨日、遅かったんだから、今日は勘弁してくれよ」


 大地は布団を頭までかぶった。さやかも同じ時刻まで起こされていたが、それを言っても通じない気がした。結局、さやかは通勤用の紺色のワンピースへ着替えたあと、両手にごみ袋と段ボールを持って集積所まで二往復した。


 部屋へ戻ると、大地はようやく起き、ぼさぼさの髪のまま食卓へ座っていた。さやかは青いマグカップへコーヒーを注ぎ、ミルクを少し加えて彼の前へ置いた。大地は礼を言わず、まずスマートフォンを確認した。


「澪から連絡がない。ちゃんと眠れたのかな」


「昨夜、あなたを三十分以上拘束した人より、一緒に起こされた妻を心配したら?」


「お前は一人でも平気だろ。澪は怖がりなんだよ」


 大地はコーヒーを一口飲み、苦いと言って砂糖を加えた。さやかは砂糖入れを渡しながら、昨夜の「お前には優しさが足りない」という言葉を思い出した。夫の朝食を作り、コーヒーを淹れ、ごみまで一人で運んでも、大地の考える優しさには数えられないらしかった。


「肉じゃが、食べないの?」


「寝不足で食欲がない。コーヒーだけでいいや」


「お弁当は?」


「今日はコンビニで買うよ。澪が起きたら、何か食べたか聞かないと」


 大地はスマートフォンを持ったまま席を立った。食卓には手をつけられなかった肉じゃがと味噌汁が残り、味噌汁の湯気はすでに消えていた。さやかは二人分の食器を流し台へ運び、残った肉じゃがを保存容器へ移した。


 その日の昼休み、さやかは会社近くの小さな公園で弁当を開いた。昨夜の肉じゃが、ごま塩を振ったご飯、冷凍のほうれん草を詰めただけの弁当だった。ベンチのそばでは作業服を着た男性が缶コーヒーを飲み、花壇の土から雨上がりの匂いが立っていた。


 さやかは弁当袋の底から小さな手帳を取り出した。以前は食費や日用品の買い物を記録していたものだが、最近は使わなくなり、表紙の角が少し擦れていた。ボールペンを持ち、五月十六日の欄へ昨夜の出来事を書き始めた。


《午前一時五十八分、澪から大地へメッセージ。午前二時十二分から二時四十二分まで通話。玄関の物音が怖いという理由。確認後、隣人の帰宅音だった可能性。》


 書き終えると、青いインクが紙の裏へ少しにじんだ。さやかは大地のスマートフォンを盗み見たいとは思わなかった。通知に表示された文章と、自分が見聞きしたことだけを、時間と一緒に残すことにした。


 ホームセンターへ行った日、棚を組み立てに行った日、澪が玄関で転び、大地が腰を抱いていた日も思い出せる範囲で記した。事実を書き並べると、どれも小さな出来事なのに、同じ方向へ続いていることが分かった。澪は少しずつ夫婦の生活へ入り込み、大地はそのたびにさやかを嫉妬深い妻として扱っていた。


 隣のベンチから、コンビニ袋を畳む乾いた音が聞こえた。さやかは冷めた肉じゃがを口へ運び、ジャガイモに染みた甘い醤油の味をゆっくり確かめた。昨夜、大地が食べなかった料理だったが、自分の昼食には十分だった。


 帰宅後、さやかは手帳を寝室の引き出しへしまった。大地の下着や靴下を入れる場所ではなく、自分の通帳と保険証を保管している小さな引き出しだった。鍵は付いていないため、手帳の上へ古い給与明細を重ねた。


「ただいま。今日、澪さんは眠れたの?」


 さやかが居間へ入ると、大地はソファでスマートフォンを見ていた。テーブルにはコンビニで買ったプリンの空容器と、使ったスプーンが置かれている。大地は画面から目を離さず、澪は昼近くまで眠ったらしいと答えた。


「俺は一日中眠かったのにな。あいつ、朝まで寝たら元気になったってさ」


「それはよかったわね」


「何だよ、その言い方」


「あなたの睡眠も、私の睡眠も削って、澪さんだけがよく眠れた。その事実を確認しただけよ」


 大地は鼻で息を吐き、また画面へ視線を戻した。さやかはプリンの空容器を捨て、洗濯籠に残っていた白いワイシャツを畳み始めた。袖のしわを手のひらで伸ばしながら、次に深夜の連絡が来たときも、見たことと聞いたことだけを手帳へ書こうと決めた。


 午後十時を過ぎた頃、大地のスマートフォンが短く震えた。画面を見た彼の口元が緩み、すぐに親指が動き始めた。さやかは時計へ目を向け、洗濯物の山から自分の白いハンカチを取り出した。


「また澪さん?」


「今日は大丈夫だって。昨日はありがとう、と言ってるだけだよ」


「そう。午後十時七分ね」


「何で時間なんか確認してるんだ?」


 大地が怪訝そうに尋ねたが、さやかは答えなかった。畳んだハンカチを自分の引き出しへ入れ、静かに閉めた。これまで曖昧だった違和感には、時刻と文章が付き始めていた。



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