第九話「英雄への無数の縁談と、すれ違う氷の外交官の恋心」
王城のバルコニーから見下ろす王都の街並みは、かつてないほどの活気と笑顔に満ち溢れていた。
ホウライ国と群島連合国を巻き込んだ『三国間中継貿易』の条約締結から一ヶ月。 ガートンコヨ王国の巨大な国営倉庫には、ホウライ国から陸路で運び込まれた『白き穀物(米)』が、文字通り山のように積み上げられていた。 大冷害の予兆となる厳しい寒波が到来し始めていたが、市場には湯気を立てる温かい米料理や、南方の香辛料を使った体が芯から温まるスープが並び、平民たちの胃袋をしっかりと満たしている。 腐敗貴族たちが画策していた食糧の買い占めによる価格高騰も、圧倒的な物量の前には為す術もなく崩れ去った。
「……完璧ね。これで、この国の食糧事情は向こう十年間は揺るがない。誰も餓死なんてしないわ」
外務省の執務室の窓際で、私は熱いホウライ茶の入ったティーカップを両手で包み込みながら、深く、安堵の息を吐き出した。
(推しの餓死ルート、完全回避!! 限界オタクの私が、知力と権力と胃袋で勝ち取った大勝利よ!!) 心の中でガッツポーズを決め、これまでの血を吐くような激務の日々を労う。 最前線で命を懸けて戦い抜いたクラウン様も、ゼノア帝国の軍勢を完全に国境線の外へと押し返し、歴史的な大勝利を収めて王都へと凱旋していた。 彼が雪原で倒れるという原作最大の悲劇は、もうどこにも存在しない。
「……はぁ。本当に、よかった……」
すべてが私の思い描いた最高のハッピーエンドに向かっているはずだった。 しかし――私の胸の奥には、心が凍りつくような重く冷たい痛みが、チクチクと感じ続けていた。
「オルン先輩……。また、ため息をついていますね」 背後から、書類の束を抱えた後輩のリーゼロッテが、心配そうな声で話しかけてきた。
「……ごめんなさい、リーゼ。少し、疲れが出ただけよ」 「嘘です。先輩が落ち込んでいる理由は、王城中で飛び交っている『あの噂』のせいでしょう?」 リーゼロッテが、ズバリと核心を突いてくる。私はカップを持ったまま、ピクリと肩を揺らした。
「……クラウン団長への、無数の縁談話のことですね」
リーゼロッテの言葉に、私は何も言い返すことができなかった。 無理もない。今回の防衛戦でゼノア帝国を打ち破ったクラウン様は、もはや単なる騎士団長ではなく、国を救った『生ける伝説の英雄』として神格化されていた。 バルデック公爵という強大な後ろ盾を失った今こそ、他の大貴族たちがこぞって彼を自派閥に取り込もうと、目の色を変えて令嬢たちを差し出しているのだ。
『侯爵家の誇り高きご令嬢』 『王家の血を引く美しき姫君』
毎日毎日、外務省にまで聞こえてくるのは、そんな華々しい縁談の噂ばかり。 一方の私はといえば、没落寸前の貧乏男爵家の令嬢にすぎない。実力で外務筆頭補佐にまで上り詰めたとはいえ、貴族社会における『血筋』の壁は、どれほど努力しても越えられない絶対的なものだ。 最強の英雄の正妻として隣に立つには、私の身分はあまりにも低すぎた。
「…クラウン様は、この二週間、一度も私の家にはいらしていないわ」私は、自分に言い聞かせるように呟いた。
「戦後処理と、貴族たちとの顔合わせで、きっと息をつく暇もないのよ。平民出身の彼にとって、高位貴族との繋がりは、軍の立場を強固にするために必要不可欠なものだわ」
「先輩! そんな物分かりのいいこと言って、本当にいいんですか!? 団長は、先輩のことが絶対にお好きですよ! 私の女の勘がそう言っています!」 リーゼロッテがバンッとデスクを叩いて憤るが、私は力なく首を横に振った。
「いいのよ、リーゼ。……私の目的は、彼の命と胃袋を救うことだった。彼が生き延びて、温かい家で、立派な奥様の手料理を食べて幸せになってくれるなら……私は、それで十分なの」 (そうよ。限界オタクにとって、推しの幸せが自分の幸せ。……モブである私が、これ以上彼に執着して彼の輝かしい未来の邪魔をするなんて、絶対に許されないんだから)
胸が張り裂けそうに痛かった。 彼のエプロン姿も、美味しそうに私の料理を頬張る顔も、不器用で優しい大きな手も。すべてが愛おしくて、独り占めしたくてたまらない。 でも、私は「氷の外交官」だ。自分の感情一つで、彼の人生を縛るような真似はできない。
「……先輩の馬鹿。そんな泣きそうな顔で言われても、誰も納得しませんよ」 リーゼロッテが悲しそうに眉を下げた時、執務室の扉が開いて、アルバート大臣が入ってきた。
「オルン、いるか。……明日、王城の大謁見の間で、今回の戦役の『論功行賞』が行われる。国王陛下からの直接の勅命だ。三国間貿易を成立させ、国の食糧危機を救った功労者として、お前も列席しろ」
論功行賞。 それは、今回の戦争で最も功績を挙げた英雄――クラウン様に、国王陛下から最大の褒美が与えられる儀式。 貴族たちの間では、そこで陛下が直接、王族の姫君との婚約を賜るのではないかと持ちきりになっていた。
「……承知いたしました、大臣。外務省の代表として、恥じぬよう列席いたします」 私は、震えそうになる声を必死に腹の底に押し込み、深々と一礼した。
翌日。 大謁見の間は、息を呑むほど豪華に飾り立てられていた。 金糸と銀糸で織られたタペストリーが壁を覆い、シャンデリアの眩い光が、居並ぶ高位貴族たちの華やかなドレスや礼服を照らし出している。
私は、自身の通り名に合わせた『氷藍色』の豪奢なドレスを身に纏い、外務省の列の最前列に静かに立っていた。 背筋を伸ばし、一切の感情を読み取らせない完璧な氷の仮面。どんな痛みが胸を刺そうとも、最後まで彼の門出を立派に見届けるのが、私にできる最後の推し活だ。
「――国王陛下、ならびに第一竜騎士団長クラウン・ザバーグ殿のお成り!」
近衛兵の張りのある声が響き渡り、重厚な扉が開かれた。 王冠を戴く国王陛下と共に、大理石のじゅうたんを進んでくる長身の男。
「……っ」 彼の姿を見た瞬間、私の胸の奥がキュッと締め付けられた。
純白と漆黒を基調とした、最高級の礼装用軍服。 銀糸の髪は後ろで美しく一つに束ねられ、腰には国家の守護者を示す宝剣が身につけられている。 戦場の死神としての冷たさと、英雄としての圧倒的な覇気をまとったその立ち姿は、この広大な謁見の間にいる誰よりも気高く、美しかった。
(……ああ。やっぱり、彼は雲の上の人だ。私なんかが、気安くお弁当を渡していいような人じゃなかったんだわ) 私は、無意識に自分の両手をギュッと握り締めた。
クラウン様は、玉座の前に進み出ると、きれいな動作で片膝をついた。
「面を上げよ、クラウン。そして、ガートンコヨ王国の繁栄を支えた外務筆頭補佐、オルン・バリランよ。前へ」
「ハッ!」 呼ばれた私は、静かに列を離れ、クラウン様の斜め後ろに並ぶようにして同じく片膝をついた。 隣から、彼がまとう清潔で少しだけ冷たい香りが漂ってくる。それだけで、涙が溢れそうになるのを必死で堪えた。
「この度のゼノア帝国との防衛戦、並びにみぞうの食糧危機を乗り越えたことは、ガートンコヨ王国の歴史に永遠に刻まれるであろう。オルンよ、そなたの並外れた知略と外交手腕に、国を代表して礼を言う。後日、そなたには外務次官の地位と、莫大な報奨金を与えよう」
「身に余る光栄に存じます、陛下」 私は深く頭を下げた。これで、アリアにも不自由ない教育を受けさせてあげられる。
「そして――王国最強の竜騎士、クラウンよ」 国王陛下が、一段と大きな声で玉座から立ち上がった。 「そなたの剣がなければ、この国はとうの昔に滅びていたであろう。そなたの武功は、金銀財宝や爵位などでは到底報いきれぬ。……ゆえに、我はここに宣言する!」
謁見の間が、水を打ったように静まり返った。 貴族たちが、固唾を呑んで王の次の言葉を待っている。
「そなたに、我が望む『何物でも』与えよう! 広大な領地か、国軍総司令官の地位か! はたまた……我が愛すべき姪である、王族の姫君との婚姻か! そなたの口で、望みの褒美を申してみよ!」
ついに、その瞬間が来てしまった。 王家からの、事実上の婚姻の打診。これを断ることは、いかに英雄といえども実質的に不可能に近い。 私は、視界がにじんでいくのを感じながら、目を固く閉じた。 (……おめでとうございます、クラウン様。どうか、お幸せに……)
静寂の中。 クラウン様が、ゆっくりと立ち上がった。
「国王陛下。過分なるお言葉、誠にありがとうございます」 ホールに響き渡る、低く、滑らかで、そして揺るぎない覚悟に満ちた声。
「ですが、俺は領地も、総司令官の地位も、王族の姫君も望みません。……俺は、平民の出です。武骨に剣を振るうことしか知らぬ俺にとって、そうしたものは、過ぎた重荷でしかありません」
「ほう……? では、何もいらぬと申すか?」 国王陛下が眉をひそめる。 周囲の貴族たちからも、「王族との縁談を断る気か!?」とどよめきが起こった。
「いいえ。俺の望みは、たった一つだけです」
クラウン様が、向きを変え国王陛下から背を向け、そして……見つめるような、狂おしいほどに熱を帯びた氷藍色の瞳で、膝をついている私を、真っ直ぐに見下ろしたのだ。
「――オルン殿。立ってください」
「え……っ?」 私が驚きのあまり呆然としていると、彼は私の手を取り、強引に、しかし羽毛に触れるような優しさで私を立たせた。 そして彼は、私の手を握ったまま、再び玉座へと向き直り、謁見の間にいる数百人の貴族たち全員に聞こえるような、雷鳴のような大音声で宣言した。
「俺の命も、剣も、未来も。……すべてはすでに、この女性に捧げると決めています。……国王陛下! 俺の唯一の望みは、外務筆頭補佐・オルン・バリラン殿との『婚姻の許可』!! それ以外に、俺がこの世界で欲しいものは何一つありません!!」
「「「…………っっっっ!!!!!!????」」」
謁見の間が、完全に凍りついた。 いや、凍りついたのは私だった。脳内サーバーがエラーを吐き出し、限界オタクの思考回路が完全にショートして真っ白になっている。
(…………はい??)
「な、なんだと!? クラウン団長! オルン殿はただの貧乏男爵家の娘だぞ! 貴殿ほどの英雄が、なぜそのような身分の低い……!」 「王家の姫君を差し置いて、何を血迷ったことを!」 我に返った貴族たちが、パニックに陥ったように叫び声を上げる。
しかし、クラウン様は一切怯むことなく、私の手を握る力をさらに強めた。
「身分など関係ない! 彼女は、俺が孤独と絶望の中で凍えていた時、ただ一人、俺の心に温かい火を灯し、生きる意味を与えてくれた女性だ!! 彼女がこの手で作ってくれた一杯のスープが、俺を戦場から生きて帰らせた!!」 クラウン様の言葉には、誰の反論も許さない、圧倒的な熱と重さがあった。
「この二週間、俺が貴族たちからの無数の縁談の誘いをすべて叩き潰し、裏で根回しに動いていたのは……今日この場で、誰にも文句を言わせずに彼女を俺の妻として迎え入れるためだ!!」
(っっっ!! だから二週間も家に来なかったの!? 私を正妻にするための、政治的な外堀を埋めるための戦いを一人で繰り広げていたっていうの!?)
私は、驚きと、信じられないほどの激しい喜びに、全身がガクガクと震え出した。
「クラウン、様……っ」 「オルン」
彼が、私の名前を、初めて階級や敬称抜きで呼んだ。 そして、数百人の貴族が見ている大謁見の間のど真ん中で、彼は私に向かって片膝をつき、私の手の甲に、深く、熱い誓いのキスを落としたのだ。
「俺は、料理ができません。貴女が一人で抱え込んでいる重荷を、外交の知識で軽くしてあげることもできない不器用な男です。……ですが、貴女とアリアに迫るすべての敵を、俺の剣で必ず斬り捨てると誓います」
氷藍色の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。 そこには、作中最強の死神としての冷たさはなく、一人の女性を全身全霊で愛し抜く、ただの「男」としての情熱だけが燃え盛っていた。
「俺の帰る場所になってください。……貴女が作る温かいご飯を、俺に一生、隣で食べさせてくれませんか」
それは、世界で一番不器用で、激重で、そして……絶対に断ることなどできない、極上のプロポーズだった。
ポロポロと、私の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。 身分の差も、モブであるという呪縛も、彼のその言葉の前では吹き飛んでしまった。 私はもう、限界オタクとして遠くから彼を見守ることはできない。彼を幸せにするのは、他の誰でもない、私でなければ嫌だ。
「……はいっ……はいっ……!」 私は、涙でドレスを濡らしながら、両手で彼の手を強く握り返した。
「私でよければ……一生、貴方のお腹と心を、美味しいご飯で満たし続けます……っ! 貴方を、世界で一番幸せな旦那様にしてみせますから……っ!!」
私のその返事を聞いた瞬間。 クラウン様は、玉座の間であることも完全に忘れ、立ち上がるなり私を力強く抱き寄せ、その広い胸の中にスッポリと私を閉じ込めた。
「っ……!! ああ、愛しています。俺のすべては、貴女のものです」 彼の熱い吐息と、力強い鼓動が、私の全身に伝わってくる。
「……はははっ! はーっはっはっはっ!」 呆然としていた国王陛下が、突然、玉座で腹を抱えて大笑いし始めた。 「傑作だ! 王国最強の騎士を完全に手懐け、見事に胃袋を掴んだというわけか! 氷の外交官の交渉術は、愛においても無敵であったな!……よかろう! 我が権限において、クラウン・ザバーグとオルン・バリランの婚姻を、ここに正式に許可する!!」
国王の宣言と共に、謁見の間は割れんばかりの拍手と大歓声に包まれた。
外務省の列からは、シリル先輩の指笛と、リーゼロッテの号泣する声が聞こえてくる。ゲイル副団長たちも「団長ォォォ! おめでとうございます!!」と泣き叫んでいる。
春の陽射しが、ステンドグラスを通して私たちを祝福するように降り注いでいた。 前世の記憶から始まった、推しの餓死ルートを回避するための私の孤独な戦い。 それは今、彼自身の激重な愛と最高のプロポーズによって、完全に幕を閉じたのだ。
彼の温かい胸の中で、私は涙を拭い、満面の笑みを浮かべた。 これからは、彼を遠くから見守るのではなく、一番近くで……彼の妻として、この抗いようのない『幸せで激重な愛情』に、一生閉じ込められて生きていくのだから。




