第十話(最終話)「氷の外交官と最強の竜騎士、そして続く温かな食卓」
ガートンコヨ王国の長く厳しい冬が、終わりを告げようとしていた。 雪解け水が王都の石畳を濡らし、春の訪れを知らせる柔らかな陽光が、私たちの新しい屋敷の大きな窓から差し込んでいる。
「……ん……」
心地よい微睡みの中で身をよじると、背中からガシリと、逃げ場のないほど力強く、それでいてひどく優しい腕に抱き寄せられた。
「おはようございます、私の愛しい人。……今日も、世界で一番美しい」
耳元で囁かれる、低く滑らかなバリトンボイス。 振り返らなくてもわかる。王国の英雄にして第一竜騎士団長、そして――世界で一番激重な愛情を注いでくれる私の旦那様、クラウン・ザバーグその人だ。
「……おはようございます、クラウン様。もう朝ですよ、起きてください」 「もう少しだけ。……こうして貴女の体温を感じていないと、あの王城での出来事が、すべて俺の見た都合のいい幻だったのではないかと、不安になる時があるのです」 「あれからもう、半年も経つというのに。貴方は本当に心配性ですね」
クスクスと笑いながら彼の腕の中で振り返ると、氷藍色の美しい瞳が、熱を帯びた眼差しで私を真っ直ぐに見つめていた。 あの歴史的な大謁見の間での「公開プロポーズ」から半年。 私たちは国王陛下の全面的な後押し(というより、面白がった王命)を受け、異例のスピードで結婚式を挙げた。
王都中をパレードする羽目になった壮大な結婚式は、今思い出しても顔から火が出そうになる。 ウェディングドレス姿の私を見たクラウン様は、感動のあまり参列者の前でポロポロと涙を流し、「俺にはもったいない……だが、絶対に誰にも渡さない」と、宣誓のキスを五分以上も続けようとして、ゲイル副団長たちに羽交い締めにされて止められていた。 かつて「死神」と恐れられた男のその変貌ぶりに、王都の民衆は驚愕し、そして温かい祝福の歓声を送ってくれたものだ。
「幻なんかじゃありませんよ。ほら、ちゃんと触れられるでしょう?」 私が彼の手を引いて自分の頬に当てると、クラウン様は泣きそうな、それでいてこの世のすべての幸福を噛み締めるような顔をして、私の額、鼻先、そして唇に、小鳥がついばむような優しいキスを何度も何度も降らせた。
(……ああ。推しが毎朝、限界突破のデレを見せてくる。私の心臓、寿命まで持つかしら……) 限界オタクとしての私の心は、毎朝こうして幸せな悲鳴を上げ続けている。
新しい私たちの家は、王城からほど近い、広大で美しい庭のある屋敷だ。 「第一竜騎士団長」と「外務次官(大出世した)」という、国のトップに立つ共働き夫婦には少し広すぎる家だが、ここには私たちの愛しい家族がいる。
「おねえちゃん! おにいちゃん! ごはんできたよー!」 1階のリビングから、元気いっぱいの声が響いてきた。
「ほら、アリアが呼んでいますよ。行きましょう」 「……はい。俺たちの、愛しい食卓へ」
着替えて階段を降りると、そこには信じられないほど平和で、豊かな朝の光景が広がっていた。 広いダイニングテーブルには、私が早起きして仕込んでおいた朝食が並んでいる。 ホウライ国から輸入された艶やかな「白米」。魔牛の骨から取った濃厚な出汁に、南方群島連合国のスパイスをほんの少し効かせた「特製薬膳スープ」。そして、近海で獲れた新鮮な魚の干物だ。
私たちが結んだ「三国間中継貿易」は、この半年でガートンコヨ王国に劇的な変化をもたらしていた。 王都の市場には東西南北の食材が溢れ、かつて大冷害の予兆に怯えていた民衆の顔には、もう微塵の不安もない。 外務省は連日、新たな取引を求める他国からの使者で大忙しだが、私の手腕と、背後に控えるクラウン様の(物理的な)威圧感のおかげで、グレンリードが不利な条約を結ばされることは一切なかった。
「いただきまーす!!」 アリアが小さな手を合わせて、ほかほかの白米を美味しそうに頬張る。 彼女も今では、王都でも有数の立派な学校に通い、友達をたくさん作って毎日を謳歌している。もう、路地裏で凍えていた頃の面影はない。
「クラウン様も、どうぞ。今日は騎士団の遠征訓練があるのでしょう? しっかり食べて体力をつけてくださいね」 私が椀を差し出すと、クラウン様は恭しくそれを受け取り、一口飲んで、ふぅ、と深い安堵の息を吐いた。
「……やはり、オルンの作る料理が世界で一番美味い。これさえあれば、俺はどんな過酷な戦場でも無傷で帰ってこれる気がします」 「無傷で帰ってくるのは当たり前です。少しでも怪我をしたら、一週間は野菜スティックしか出しませんからね」 「それは……死ぬより辛い罰だ。絶対に避けねばならない」 真剣な顔で頷く最強の竜騎士に、アリアが「おにいちゃん、やさいもたべなきゃだめだよー」と笑いかける。
平和だ。 前世で読み込んだ漫画『ドラゴンの鞘』では、クラウン様はこの時期、狂信的な貴族の陰謀によって補給線を絶たれ、雪原の中で餓死するという最悪の結末を迎えていたはずだった。 しかし今、彼は温かい暖炉の傍で、妻と娘に囲まれながら、ホカホカのご飯を食べて微笑んでいる。 私がこの世界に転生し、持てるすべての知識と権力、そして「料理の腕」を使って紡ぎ出した、絶対の生存ルート。
(……完璧なハッピーエンド。私が彼に貢ぎたかった未来が、ここにある)
朝食を終え、玄関で彼を見送る時間。 クラウン様は漆黒の軍服に身を包み、再び「王国の守護者」としての冷徹で凛々しい顔つきに戻っていた。しかし、私と向き合うその瞬間だけは、甘く蕩けるような瞳になる。
「行ってきます、オルン。……必ず、定時で帰ります」 「ふふっ。騎士団長がそんなことでどうするんですか。ゲイル副団長たちが泣きますよ」 「俺の最優先事項は、国を守ることではなく、貴女の隣で貴女の作った夕食を食べることです。それ以外は些事にすぎない」 「またそんな無茶苦茶なことを……」
苦笑する私を、彼は優しく引き寄せ、その広い胸に抱きしめた。 革と鉄の匂い。そして、微かな雪の冷たさ。 しかし、彼の体温はどこまでも熱く、私という存在を心の底から欲してくれていることが、痛いほどに伝わってくる。
「オルン。貴女は俺の命であり、心であり、帰るべき唯一の場所だ。……愛しています。この命が尽きるまで、そして尽きた後も」 「……私もです、クラウン様。ずっと、ずっと一緒にいましょうね」
誓いのキスを交わし、彼が白竜の背に乗って王都の空へと飛び立っていくのを、私はアリアと手を繋ぎながら見送った。 澄み渡る青空に、銀色の軌跡が美しく輝いている。
これからの人生、きっと外交のトラブルや、他国からの理不尽な要求、あるいは貴族たちの小競り合いなど、数え切れないほどの困難が待ち受けているだろう。 でも、もう何も怖くない。 私には、どんな陰謀も打ち砕く外務次官としての知恵があり。 彼には、どんな外敵も退ける最強の武力がある。 そして何より、私たちには、一日の終わりに必ず帰り、共に笑い合える「温かな食卓」があるのだから。
氷の外交官と、最強の竜騎士。 二人の物語は、血と硝煙の匂いではなく、出汁とスパイスの温かな香りに包まれながら、永遠に幸せに続いていく。
――Fin.
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




