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第八話「不器用な英雄の看病と、世界で一番甘いおかゆ」

目覚めは、ふわりとした温かい香りと共に訪れた。

(……あれ? 私、どうなったんだっけ……)

重いまぶたをゆっくりと押し上げると、見慣れない高い天井が目に入った。 体を包んでいるのは、私の安アパート(もとい、バリラン男爵家の古いベッド)のゴワゴワしたシーツではなく、雲のように柔らかい最高級の絹の布団だ。 そして、部屋のどこからか、微かに……本当に微かにだが、焦げたような匂いと、出汁の香りが漂ってくる。

「……あ」

視線を横に向けると、ベッドの傍らに置かれた立派な椅子に深く腰掛け、腕を組んだまま眠りに落ちている男の姿があった。 漆黒の軍服。月明かりを紡いだような銀糸の髪。 過酷な一ヶ月の最前線での死闘を終えたばかりの、王国最強の竜騎士団長・クラウン様だ。 彼の顔には深い疲労の色が刻まれており、目の下には私と同じくらい濃いクマができている。それでも、彼の大きな右手は、布団から出ていた私の左手を、逃がさないように、けれど絶対に傷つけないように優しく包み込んでいた。

(……っ!? 推しに、手を握られてる!?)

一気に意識が覚醒し、限界オタクの心臓が警報を鳴らす。 思い出した。私は王城の謁見の間で、バルデック公爵の罠を粉砕する条約書を叩きつけた後、過労と安堵でぶっ倒れたのだ。 どうやらここは、王城内にある高位貴族や王族用の特別療養室らしい。

「……ん……オルン、殿……?」

私のわずかな動きに気づいたのか、クラウン様がハッと目を見開いた。 寝起きの、少し潤んだ氷藍色の瞳と視線がぶつかり、私の顔がボンッと音を立てて沸騰する。

「お、おはようございます、クラウン様! あ、あの、私、どれくらい眠って……」 「三日です」

クラウン様が、かすれた低い声で言った。 「三日三晩、貴女は高熱を出して眠り続けていました。……医者は、極度の過労と睡眠不足だと言っていました。自分の命を削ってまで、あんな無茶をするなんて」 彼の手が、私の手を握る力を少しだけ強める。 その声には、安堵と、自分自身への激しい怒り、そして隠しきれない情熱が入り混じっていた。

「申し訳ありません……。でも、一ヶ月という期限に間に合わせるためには、あれしか方法が……」 「謝らないでください。謝らなければならないのは、俺の方です」 クラウン様が、苦しげに顔を歪め、私の手の甲に自分の額を押し当てた。

「俺が不甲斐ないばかりに、貴女にすべてを背負わせてしまった。……貴女が倒れた瞬間、俺の心臓は止まるかと思った。俺は、貴女を守ると誓ったのに、貴女を一番危険な戦場に立たせてしまったんだ」

(っっっ! 推しの懺悔が美しすぎるし重すぎる!!) 「ち、違います! 私が好きでやったんです! クラウン様が、北の最前線で命を懸けて国を守ってくださったから、私は安心して外交の戦いに専念できたんです。私たちは、お互いの戦場で勝ったんですよ!」

私が必死に言い募ると、クラウン様はゆっくりと顔を上げ、フッと……困ったような、泣き出しそうな、ひどく甘い笑みを浮かべた。

「……本当に、貴女には一生敵わない」 彼が、私の前髪にそっと手を伸ばし、熱を測るように優しく撫でた。 「……熱は下がったようですね。よかった。三日も何も食べていないのだから、お腹が空いたでしょう」

クラウン様はそう言うと、立ち上がって部屋の奥のテーブルへと向かった。 そこには、保温用の魔導具の上に置かれた小さな鍋があった。

「俺は、料理が全くできません。貴女のように、人を幸せにするような美味しいものは作れない。……でも、せめて貴女が目覚めた時に、温かいものを食べてほしくて……王城の料理長に頭を下げて、見様見真似で作らせてもらいました」

彼が、少し気恥ずかしそうに、木製のおわんに鍋の中身をよそって持ってくる。 それは、ほんの少しだけ底が焦げ付いた、不器用な『おかゆ』だった。 具材は細かく刻まれた野菜と、ホウライ国の白き穀物。味付けは、ごくごくシンプルな塩だけ。

「……クラウン様が、私のために、作ってくださったんですか?」 「はい。……お口に合わなければ、すぐに料理長に別のものを作らせますが」 「い、いただきます!! 絶対にいただきます!!」

私は起き上がり、震える手でスプーンを受け取ろうとしたが、三日間寝込んでいたせいで腕に力が入らず、スプーンを取り落としそうになった。

「あ……」 「無理をしないでください。……俺が、やりますから」

クラウン様がスプーンを取り上げ、ごく自然な動作で、塩粥をすくってフーフーと冷まし、私の口元へと差し出してきた。

(!!!!?? 状況を整理して!! 最強の竜騎士様が!! 不器用な手作りおかゆを!! あーんしてくれている!!!??)

私の脳内サーバーは一瞬で焼き切れた。 しかし、ここで食べなければ限界オタクの、いや女の恥だ。私は顔を真っ赤にしながら、パクリとそのおかゆを口に含んだ。

「……っ」 味は、正直に言えば少し薄かった。それに、火加減が強すぎたのか、お米の芯が少し残っていて、底の方の焦げの苦味も混ざっている。 私が今まで彼に作ってきた、完璧な出汁の料理とは比べ物にならない、本当に不器用な味。

でも。 「……美味しい」

ポロポロと、私の目から勝手に涙があふれ出していた。 「今まで食べたどんな料理よりも……世界で一番、甘くて美味しいです。あたたかいです……っ」 涙が止まらなかった。 前世で、一人ぼっちで凍える雪原の中で餓死していった彼が。今、生き生きて私の傍にいて、私のために不器用な手料理を作って、命を温めてくれている。 これ以上の幸福が、この世界のどこにあるというのだろうか。

「オルン殿……」 クラウン様は、私が泣き出したことに驚き、痛ましそうに顔を歪めると、スプーンを置いて、その大きな親指で私の涙をそっと拭ってくれた。 「泣かないでください。貴女の涙を見ると、俺はどうにかなってしまいそうだ。……たくさん食べて、早く元気になってください。貴女の家で、アリアがずっと帰りを待っているんですから」

「はいっ……はいっ……!」 私は涙と鼻水でグシャグシャになりながら、クラウン様が差し出してくれる塩粥を、最後の一口まで残さず飲み込んだ。

「オルンおねえちゃん!!」

私が塩粥を完食し、一息ついた直後。 療養室の重厚な扉がバンッ!と開き、小さな弾丸がベッドに飛び込んできた。 「アリア!」

アリアは私の胸に顔を埋め、わぁぁん!と大声を上げて泣き出した。 「おねえちゃん、しんじゃうかとおもったよぉぉ! ずっとずっと、かえってこないからぁ……!」 「ごめんね、アリア。もう大丈夫よ。心配かけてごめんなさいね」 私がアリアの背中をさすっていると、扉の向こうから、シリル先輩やリーゼロッテ、そして騎士団のゲイル副団長までもが顔を覗かせた。

「やれやれ、見事に三途の川から生還したね、氷の外交官殿。君が倒れた後、バルデック公爵は食糧の不正買い占めの証拠を突きつけられて、領地に軟禁状態さ。外務省は君の持ってきた条約のおかげで、空前の大忙しだよ」 シリル先輩が、リンゴの詰まった籠をテーブルに置きながら笑う。

「お見舞いに来ました、オルン先輩! アリアちゃん、ずっと私が預かっていたんですよ! 褒めてください!」 リーゼロッテが胸を張る。

「オルン殿! 本当に、本当にありがとうございました! 我々第一竜騎士団は、貴女に一生頭が上がりません!! 貴女は俺たちの女神です!!」 ゲイル副団長に至っては、ベッドの足元で土下座せんばかりの勢いで号泣している

静かだった療養室が、一気に賑やかでカオスな空間へと変わった。 「もう、皆さん大袈裟ですよ……。私はただ、自分の仕事をしただけですから」 私が苦笑しながら皆の顔を見渡すと、ベッドの傍らに立っていたクラウン様が、フッと優しく、どこか誇らしげな笑みを浮かべているのが見えた。

(……ああ。私、本当にこの世界に来てよかった)

孤児だったアリア。同僚のシリル先輩やリーゼロッテ。そして、戦うことしか知らなかった騎士たち。 私が前世の記憶と狂気じみた努力で変えた運命は、クラウン様の命を救っただけでなく、こんなにも温かくて騒がしい『居場所』を作り出していたのだ。

数日後。 すっかり体力を回復した私は、無事に退院し、王都のバリラン男爵家へと戻ることができた。

「やっぱり、自分の家が一番落ち着くわね」 エプロンを締め直し、久しぶりに我が家のキッチンに立つ。 冷蔵庫(氷結の魔導具)には、クラウン様が差し入れしてくれた魔牛の肉や、ホウライ国の特使コウから贈られた新鮮な野菜がたっぷりと詰まっている。

「さて、今日は退院祝いも兼ねて、特大の『魔牛のビーフシチュー』と『焼きたての白パン』にしようかしら」

「手伝いますよ、オルン殿」 背後から声がして振り返ると、なぜか当然のように我が家のリビングに居座っていたクラウン様が、シャツの袖を捲り上げながらキッチンに入ってきた。 手には、私が以前買い置きしておいた、少し大きめの予備のエプロン(ネイビーブルー)を持っている。

「ク、クラウン様!? 今日は騎士団の公務があるのでは……」 「北方の戦後処理はゲイルたちに任せてきました。俺には、数日分の代休が溜まっていますから」 クラウン様は涼しい顔でエプロンを身につける。 長身でバキバキの筋肉を誇る最強の竜騎士が、ネイビーブルーのエプロンを着用する姿。その強烈なギャップと破壊力に、私はまたしても眩暈を覚えそうになった。

「俺は料理はできませんが、野菜の皮剥きや、肉を切ることくらいはできます。……三日間、貴女を死ぬほど心配させた罰として、こき使ってください」

彼が、真剣な氷藍色の瞳で私を見つめ下ろす。 その瞳の奥には、以前の彼が持っていた「死に場所を探すような危うさ」はもう欠片も残っていなかった。 代わりにそこにあるのは、確かな未来を見据える力強さと、私への……隠しきれないほどの深く重い執着。

「……ふふっ。では、お言葉に甘えて。そこのじゃがいもの皮剥き、お願いしますね。芽はしっかり取ってくださいよ」 「承知しました。敵の首を取るよりも精密にやってみせましょう」 「そんな物騒な例えはやめてください!」

キッチンに並んで立ち、他愛のない会話を交わしながら夕食の支度をする。 リビングでは、アリアが木彫りの竜騎士人形とドラゴンを戦わせてキャッキャと笑っている。

(ああ、幸せだな……) 私は鍋をかき混ぜながら、彼の横顔をこっそりと盗み見た。 恋愛的な意味で「付き合っている」わけでも、婚約しているわけでもない。世間から見れば、私たちはただの『親しい仕事仲間』に過ぎない。 でも、今この瞬間の温かさは、間違いなく本物だった。

しかし、私の知らないところで。 不器用な英雄は、エプロン姿でじゃがいもの皮を剥きながら、胸の内で固く、激しく、一つの決意を固めていたのだ。

(俺はもう、ただの護衛や、食事を恵んでもらうだけの男ではいられない。……彼女の隣に立ち、彼女を生涯守り抜く『男』になるために。……俺は、王城で決着をつけなければならない)

王城での『論功行賞』という名の最終決戦が、すぐそこまで迫っていた。


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