第六話「悪徳公爵の罠と、氷の外交官の反撃の狼煙」
「第一竜騎士団長と、バルデック公爵令嬢の縁談……。しかも、断り切れないほどの軍資金援助を条件に、ですか」
外務省の執務室。後輩のリーゼロッテがもたらした絶望的な凶報に、私は声のトーンを極限まで落として呟いた。 バルデック公爵。国内の広大な農業等を牛耳り、王家すら凌ぐほどの莫大な財力を持つ大貴族だ。前世の漫画の記憶が正しければ、数年後に訪れる大冷害の際、国内の食糧を買い占めて価格を高騰させ、最前線の兵士たちを餓死に追いやる元凶となる『腐敗貴族の筆頭』である。
「はい……。現在、北のゼノア帝国との国境警備において、第一竜騎士団の物資不足は深刻です。バルデック公爵はそこに目をつけ、『我が公爵家から十万トンの小麦と莫大な支援金を寄付する。見返りとして、英雄であるクラウン団長を我が家の入り婿に迎えたい』と、国王陛下に直接申し入れたそうです」 リーゼロッテが、悔しそうに唇を噛む。
「汚い手ね。軍の台所事情を盾に取れば、国への忠誠心が強く、部下思いのクラウン様が断れるはずがないと踏んだのよ」 私はギリッと奥歯を噛み締めた。
クラウン様は、自分の命や幸せなど塵ほどにも思っていない不器用な男だ。部下たちが飢えずに戦えるのなら、自分の身など喜んで公爵家に売り飛ばすだろう。 だが、漫画の知識がある私にはわかる。公爵の狙いは、国で最も発言力のある英雄を自派閥の操り人形(あるいは使い捨ての駒)にすることだ。彼が公爵家に入ったところで、いざ食糧難になれば、公爵は平然と約束を反故にして支援を打ち切る。 結婚したところで、クラウン様を待っているのは『部下を救えなかった絶望』と『過労による孤独な死』という最悪のバッドエンドなのだ。
(ふざけるな。誰が推しを、そんな泥沼の地獄に落とさせてやるものですか……!)
私は立ち上がり、デスクに置いてあった小さな布包み(毎朝、万が一彼に会えた時のために作っている特製のお弁当だ)を引っ掴んだ。
「リーゼ、シリル先輩。私は少し席を外します」 「おいおいオルン、まさか公爵に直接殴り込みに行く気じゃないだろうね!?」 シリル先輩の制止を背中で聞き流し、私は執務室を飛び出した。
王城の長く冷たい回廊を抜け、謁見の間へと続く大階段。 そこに、漆黒の軍服に身を包んだクラウン様の姿があった。これから国王陛下とバルデック公爵の待つ間へと向かい、縁談に対する『返答』をするための登城であることは明白だった。
「――クラウン様!」
私が声をかけると、階段を上ろうとしていた彼が足を止めた。 振り返ったその顔には、先日の我が家で見せてくれた穏やかな微笑みは微塵もなかった。戦場の死神としての、感情を完全に殺した冷たく虚ろな表情。
「……オルン殿。奇遇ですね。ですが、俺は今から陛下の御前会議へ向かわねばなりません」 クラウン様は私から視線を逸らし、静かに告げた。 「……もう、貴女の家には行けなくなるかもしれません。俺は、軍の総意として……とある貴族の家門に入る決断をしました。アリアには、木彫りの人形をもっと作ってやれなくてごめんと、そう伝えてください」
その諦めに満ちた言葉を聞いた瞬間、私の頭の中で何かがブチッと千切れる音がした。
「……待ってください。貴方、本気でバルデック公爵の令嬢と結婚するおつもりですか?」 「第一竜騎士団には、圧倒的に物資が足りない。このまま冬を越せば、前線の部下たちが凍え、飢える。……俺一人の自由を売るだけで十万トンの小麦が手に入るなら、これほど安い取引はない」
「安くないわ!!」
私は王城の廊下であることも忘れ、ヒールを鳴らして彼に歩み寄り、その胸ぐらを……掴むには背が届かなかったため、軍服の袖を両手で力いっぱい握り締めた。
「っ、オルン殿……!?」 「貴方の人生は、貴方の命は、小麦十万トンなんかで売り飛ばしていいほど安いものじゃない! 貴方はこの国の英雄で、アリアの大好きな騎士様で……私にとっての……っ」 (私にとっての、何よりも大切な人なのに!)
氷の外交官としての冷静さなど、とっくに吹き飛んでいた。 「バルデック公爵の言葉を信じないでください。あの男は、有事の際には平然と私腹を肥やす狸です。貴方が公爵家に入っても、絶対に物資は滞ります!」 「……だとしても、今の俺たちにはそれに縋るしか道がない。俺には、剣を振るうことしかできないのだから」 クラウン様の氷藍色の瞳が、悲痛な色に揺れる。彼だって、公爵の思惑など薄々は感づいているのだ。それでも、少しでも部下を救う可能性に縋るしかないほどの極限状態に追い詰められている。
「……それなら、私がなんとかします」 私は、クラウン様を見上げて、一字一句をはっきりと口にした。
「私が、バルデック公爵の支援なんかなくても、第一竜騎士団が十年は戦い抜けるだけの物資と食糧を、外交ルートで引っ張ってきます。……だから、今日この場で『はい』と答えるのだけは絶対にやめてください!」
「なっ……馬鹿なことを言わないでください! バルデック公爵は国内の流通を完全に掌握しているんですよ? 外交でそれを補うなど……貴女まで公爵に目をつけられて、最悪、失脚させられる!」 クラウン様が、私を気遣うように声を荒げた。
「私を誰だと思っているんですか。外務筆頭補佐、氷の外交官ですよ」 私はフッと、彼を安心させるために、最高に不敵で強気な笑みを浮かべてみせた。 「たかが腐敗貴族の一人や二人、私の交渉術で丸裸にして差し上げます。……期限は一ヶ月。一ヶ月だけ、返答を保留にして時間を稼いでください」
そして私は、手に持っていた小さな布包みを、クラウン様の分厚い胸にドンッと押し付けた。
「なんですか、これは……」 「今日のお弁当です。……中身は、ホウライ国の白き穀物を握った『オニギリ』です」 私は彼から手を離し、一歩下がってカーテシーの姿勢をとった。 「中には、貴方の大好きな魔猪の角煮と、塩漬けの魚をほぐしたものが入っています。……それを食べて、どうか戦ってください。剣ではなく、貴方自身の未来を守るために」
クラウン様は、押し付けられた布包みの温かさに目を丸くし、やがて……その温もりを確かめるように、両手でギュッと大切に握り締めた。
「……一ヶ月、ですね。わかりました」 彼の瞳から虚ろな光が消え、再び力強い、戦う男の鋭い眼光が戻っていた。 「王城の会議室は戦場よりもタチが悪いですが……貴女から糧(兵糧)をいただいた以上、簡単に降伏するわけにはいきませんね」
彼は微かに口角を上げると、翻る漆黒のマントと共に、謁見の間へと向かっていった。
その直後の謁見の間は、凄まじい緊迫感に包まれていたという(後輩のリーゼロッテの極秘情報による)。
国王陛下と重鎮たちが居並ぶ中、バルデック公爵は勝利を確信した笑みでクラウン様に縁談の受諾を迫った。 しかし、クラウン様は公爵の圧力を正面から跳ね除け、「軍の再編と北方の戦況が緊迫している今、婚姻という私事に現を抜かすわけにはいきません。……部下たちの命運を決める重大な提案ゆえ、熟考のための猶予、一ヶ月を頂きたく存じます」と、一歩も退かずに返答を保留したのだ。
激怒したバルデック公爵の顔は茹でダコのように赤くなり、国王陛下はクラウン様の気迫に押されてその申し出を許可せざるを得なかった。
「……よくやったわ、クラウン様」 報告を聞いた私は、外務省の執務室で一人、静かに闘志の炎を燃やしていた。 彼が稼いでくれたこの一ヶ月。これこそが、推しの運命をバッドエンドから救い出すための『最終防衛戦』の始まりだ。
「アルバート大臣! お時間をいただきたい!」 私は大臣の執務室のドアを叩き、勢いよく中に踏み込んだ。
「騒々しいな、オルン。……バルデック公爵の件か」 大臣はすでにすべてを察しているようで、厳しい顔で腕を組んでいた。 「公爵のやり口は目に余るが、奴が国内の食糧流通の六割を握っているのは事実だ。第一竜騎士団を救うために、お前はどう動くつもりだ?」
「『海』を割ります」 私は、前世の知識とこれまでの交渉のすべてを詰め込んだ、分厚い企画書を大臣のデスクに叩きつけた。
「ホウライ国との『白き穀物』の取引はすでに成立しています。しかし、公爵の十万トンという圧倒的な物量に対抗するには、購入するための莫大な『資金』が外務省に必要です。……そこで、南方の巨大経済圏『群島連合国』を巻き込みます」
大臣が、企画書を見て目を剥いた。 「群島連合国だと? 彼らは豊富な資金と特産品の『魔法香辛料』を持っているが、海路は凶悪な海竜に阻まれており、東のホウライ国との交易を断念しているはずだぞ」
「ええ。だからこそ、我が国グレンリードが『陸の橋渡し(中継地点)』になるのです」 私は地図を広げ、力強く指を走らせた。 「我が国が群島連合国から魔法香辛料を高値で買い取り、それを陸路で安全にホウライ国へと転売する。ホウライ国からはその利益で白き穀物を買い、南へ流す。……この莫大な『三国間の中継貿易』の関税と利益をすべて国庫(外務省)に叩き込み、その金で王国の騎士団を養うのです!」
「なっ……! 本気か、オルン! そんな大規模な貿易協定、一ヶ月でまとまるはずがない!」 「まとめます。私が、この氷の外交官の首を懸けて」
私の尋常ではない気迫に、アルバート大臣はしばらく沈黙し、やがて……「ふはははっ!」と豪快に笑い出した。 「いいだろう! バルデック公爵の専横には私も腹に据えかねていたところだ! 外務省の全権限をお前に預ける。群島連合国の特使を王都に呼び寄せろ。……やってみせろ、オルン!」
その日から、私の文字通り『不眠不休』の戦いが始まった。 群島連合国の海運王・バルガス卿への親書をしたため、ホウライ国のコウ特使と緊急の通信魔導具で折衝を重ねる。 家に帰る時間すら惜しく、夜は外務省の仮眠室で数時間の泥のように眠るだけ。アリアの面倒は、信頼するシリル先輩やリーゼロッテに交代で屋敷へ行ってもらい、なんとか凌いでいた。
(クラウン様。貴方は今、あのオニギリを食べてくれたかしら……)
疲れ果てた深夜。冷たいデスクの上で、私はぼんやりと彼のことを考えた。 あの日渡した『オニギリ』。 それは前世の日本で、戦場に向かう武士が腰に下げたという、命を繋ぐための究極の携帯食。 彼に少しでも力が湧くようにと、中に甘辛い豚の角煮をたっぷり入れた、私の愛情の塊だ。
一方、その頃。第一竜騎士団の団長室。 深夜の書類仕事に追われていたクラウンは、オルンから渡された布包みをそっと開いていた。
「……オニギリ、と言っていたか」 それは、見たこともないほど真っ白で、ふっくらとした穀物が三角形に固められた不思議な食べ物だった。 クラウンはそれを一つ手に取り、静かに口に運んだ。
「――っ」 冷めているはずなのに、口の中でホロリと崩れる米の甘み。そして中から溢れ出す、濃厚で温かい角煮の旨味。 それは、高級な宮廷料理でも、味気ない携帯食料でもない。 オルンが、ただひたすらに自分のためだけに作ってくれた、『愛』と『祈り』の味だった。
「……美味い」 クラウンの目から、ぽろりと、一筋の涙がこぼれ落ちた。
孤独だった彼の人生。誰かのために命を捨てることしか知らなかった彼に、彼女は「生きるための糧」を与えてくれた。 バルデック公爵の脅しに屈しそうになっていた自分の弱さが、ひどく情けなかった。 (俺は、彼女に守られている。……あんなにも細く、小さな背中の彼女に)
クラウンは、オニギリをゆっくりと、噛み締めるように完食した。 そして、氷藍色の瞳に、かつてないほどの激しい炎を宿して立ち上がった。
「……俺も、俺の戦いをするだけだ」 公爵が軍への物資支援を盾にするなら、彼自身が前線に出て、少ない物資でもゼノア帝国を圧倒的に叩き潰すだけの武功を挙げればいい。 彼女が一ヶ月で奇跡を起こすと言うのなら、彼もまた、一ヶ月間最前線を死守してみせる。
最強の竜騎士と、氷の外交官。 それぞれの持ち場で、互いの未来を守るための熾烈な反撃の狼煙が、今、静かに上がったのだった。




